著作=Junky@迷宮旅行社(www.MayQ.net)
TOP

▼新世紀事始め紀行というか日誌

迷宮旅行社・目次

これ以後


2001.9.29 -- 瓢箪な戦場で僕らが生き延びること --

あるいは瓢箪から駒というか。瓢箪なまず。


2001.9.27 -- サイーバ、テローリ? --

ある個人のあるIDとパスワードを何者かが2ちゃんねるの掲示板に勝手に公表してしまい、それを使って不正なアクセスをしたという容疑で2ちゃんねるのユーザーが逮捕されたという。それも複数。公表した者の逮捕は報じられていないが、まだ特定できていないということだろう。●2ちゃんねるはけっこういろんな騒動に絡んできたと思うが、こんどはなにかぐっと本性に迫っている感がある。●その「タイーホ」を談ずる当の2ちゃんねるで、「IDとパスがでてたらアクセスしちゃうのが人間って奴」と誰かが。●まあそれもそうかな、と言ってられない事態が、実は私にも起こっている。というのは、契約中の某プロバイダーから「すみません、うち3日後につぶれますんで」といきなりお詫びのメールが来たと思ったら、その通り本当につぶれてしまったこと。●それでもメールの送受信と個人ウェブだけは大丈夫ですと言ってたのが、昨日あたりからトラブル続出。情報筋によると同プロバイダーのメールサーバが債権者に差し押さえられてしまったのではという話。まさに「IDとパスがでてたらアクセスしちゃうのが人間って奴」状態かもしれない。本物かどうか保証しないでおくが、少なくとも登録してあった住所や氏名ももれもれだ。パスワードも、別のサービスに同じもので間にあわせがちだったりすると、これはヤバい。●ウイルスとかには縁がなかった私だが、このクラッシュとサーバ流出は、オーバーに言えば「ちょっとテロに遭いましてね」というほどの当事者だ。●私の場合、独自ドメイン(mayQ.net)とADSLに移行していたこともあって、同プロバイダーは補助的にしか使っていなかった。しかしこれがメインの通信手段だった人は、メールアドレスやウェブサイトがまるであれのごとく一瞬で崩壊してしまったことになる。そのまま残してあった私の旧ウェブサイトも跡形なく消滅している。●もう一つ問題は、同プロバイダーが、代替手段を与えるためではあるが、別のプロバイダーへ相談もなくユーザー登録をしてしまい、その過程で我々の個人情報がまたまたそっくり横流しされたと考えられることだ。●なんだか気分が悪くなるばかりの話でした。


2001.9.22 -- そういえば変な空想親父は日本にもいたんだった --

●かたや「戦前の歴史が60周期で反復されている」という説(小説ではなく)を唱えた親父がいる。マジだと受けとめてほしいのかどうか、未だにいまいちわからないのだが。ともかくそれによれば、ことし2001年は1941年の真珠湾奇襲による日米開戦の年に当たる。この説の肝心なところは、今が1941年ならば数年後には戦争が終わり、でどうなるかというと「またちゃんと戦後が始まるんですよ!」ということなので、その親父がノストラダムスであったとしても(本人は否定している)、我々は絶望と希望の両方を持っていいということになる。●さてそれでふと思ったこと。いまウェブ日誌でなら好きなようにものを言えるはずの私が、毎日毎日「戦争をやめよう」というアピールだけを徹底してアップし続けないのは何故なんだろう。1941年の日本やヨーロッパ、そして朝鮮半島、中国大陸、満州地区はどんな感じだったっけ。歴史の教訓をわきまえた現代人や新聞記者が1941年にタイムスリップし、その時代の人や新聞記者に「愚か者よ!」と得意げに叫ぶ。で、やれやれとつぶやきながら2001年に戻ってくる。そしたらなんと、世界はまた開戦の時を迎えてしまっているではないか。そのとき主人公に何を叫ばせようか。ウェブサイトや新聞にいったいどんなことを書かせようか。●あるいは、1941年の人々や新聞記者が、たんに無知や言論統制のせいだけで「戦争をやめよう」と言わなかった(言ってた人もいるでしょうが)のではなく、もっとこう複雑で高度な事情があってそう言わなかったのだ、という空想も成り立つ。仮にそういう事情があったとしたらそれは、結局きょうも私や各新聞が「戦争をやめよう」とだけ書いたわけではない事情(どんな?)と似ている部分はないか。


2001.9.20 -- 近ごろテレビのニュースより面白い小説なんて滅多にないが --

カート・ヴォネガット『タイムクエイク』をちびちびと読書中。この小説は1991年に始まり10年の歳月を経て2001年にいたる時間の流れが無闇にもう一度繰り返されるという構造をしている。ただしそこにはSF『リプレイ』のようなわくわくストーリーはない。そのかわり、やっとの思いで完成させた小説(「タイムクエイク1」という)がどうにも満足できない代物だったので仕方なく語り直すしかなかったらしいヴォネガットの徒労感が馬鹿馬鹿しくにじむという変な仕掛けになっている。●さて、時間の始まりとされている日付は1991年の2月17日。1991年といえば湾岸戦争の年だ!と思いきや、調べてみたらあれは同年1月17日だった。しかし今ならどうしてもあれを思い出す(ちなみに阪神淡路大地震は1995年の1月17日だったりする)。●ヴォネガット小説の私の印象は「皮肉の痛さに笑うしかない」「明るいペシミズム」という感じ。「人生なんてクソの山」が口癖であり持論であることは有名だと思う。『タイムクエイク』では、1991年から2001年の間にひどい目にあった人はどうしてもまたそのひどい目にあってしまう。自殺をした人はその自殺をまた実行する。一回経験しているので、そのひどいことが再びやってくるのを重々承知している。それでも皆おなじ目にあうことがどうしても避けられない。つまりそのクソのような人生をリプレーするしかない。ヴォネガットにしてもそのうまくいかなかったクソ話を呪いのようにしてもう一回語り直しているわけだ。●この本を読んでいて私は、陳腐ながら、世界貿易センタービルに旅客機が突っ込みさらには崩れ落ちていくあの映像がテレビの中で何度も忠実にリプレーされるときの不思議な既視感を思う。こういう終末を我々はとっくの昔から経験してきたかのような既視感、とだれもがすでに語ったかのような既視感。●ヴォネガットは1922年生まれでまだ健在だと思う。第二次世界大戦のドレスデン無差別爆撃というのを経験したという。それも味方の誤爆を敵の捕虜として浴びせられるというまさしくクソのような経験だったらしい。『タイムクエイク』は最後の小説にするつもりで書いたというが、今もしやさらにもう一回すべて書き直そうかなどと思い立ったりはしていないだろうか。ぜひまた書いてほしいと思う。『タイムクエイク』の中で作家ヴォネガットは「2001年の焼きハマグリパーティー」という大団円まで生き延びるらしい(そういうことをなぜか作中で何度も予告するが、こっちはまだ読書の途中なのでどういうことかさっぱり見当がつかない)が、もしも「タイムクエイク3」がありえたとしたら、今度は2001年9月11日の出来事を加えないわけにはいかないだろう。さんざんリプレーされたあげく封印されるらしいあの映像がその小説の中ではどのようにひどくリプレーされるだろうか。あるいは「イマジン」という歌がどんな皮肉なシーンとして響きわたるだろうか。

●それにしても、ははあ〜なるほどお〜う〜む・・・・・。01年9月19日の偽日記。たとえば「ウオール街の株が下がると誰もが考えている」と誰もが考えたりするから、ウオール街の株が実際に下がってしまうのと同様に、このメディア状況だったらそりゃアメリカ国家の「株」も上がるよなあと誰もが思わされる、なんてことを誰もが思わされるからこそ、実際にアメリカ国家の「株」が誰の責任でもなく上がってしまうのだと(?)。


2001.9.18 -- 憲法OS9.5 --

●Show the flag. 「うちの会社こんどの日曜とても忙しいのは知ってると思う。君にまで出てこいと要請はしないけど、そこは自主的に支援してくれるよね」・・・なんかそういう社長がいたのを思い出した。●自衛隊の国際貢献。後方支援などと言わず、真っ先にカブールに飛んで行き、ユナイテッド国軍の空襲から住民を守り抜くという任務はどうだろうか。もちろん周辺事態法のチョー拡大解釈であることは承知の上だ。それでも「ダメ憲法違反!」と却下されるのか。


2001.9.15 -- 路地に迷う自転車のように --

●「テロリズムは許さない」「テロリズムをつぶせ」「軍事行動は許さない」「軍事行動をつぶせ」●いま聞こえてくる主張や非難は、ハイウェイを車が疾走するかのようだ。まるで道路はそれしか存在しないかのように。流れを遮らずスピードも落とさず無数の車が一方向に進む。秩序正しい地図と立体交差があり、強力な交通法規と警察がある(それでも衝突は避けられないみたいだが)。そのようなハイウェイはどんどん建設され延長されていく。●結論や解答という目的地に早く行き着くためには、それも仕方ないのかもしれない。しかし、いったんハイウェイに乗ってしまうと、勝手に停止したり後退したりすることはできない。●それが嫌な人は、自転車に乗って路地を行くのがいいだろう。自転車思考宣言。これはひとつのマニフェストだ。 ●自転車思考は、感情のハイウェイや論理の急行列車には乗らない。自分でハンドルをさばき、自分でペダルをこぐ。気になる所を好きなように縫って進む。地図や磁石はないが、その都度自前でつくる。止まりたいときは止まる。引き返したいときは引き返す。●もちろん自転車思考は、考えを進めていなければ立ち続けることができない。かといってあまり長く考えていると疲れてしまう。どこを歩いているのか分からなくなったり、同じところを何度も回ったり、袋小路に出くわしたりする。おまけに、脇腹をちょっとつつかれただけで、すぐ倒れてしまう。●しかし、路地には路地の感情がある。自転車には自転車の論理がある。そして発見もある。あの大通りとこの大通りはこんなふうに繋がっていたのか!●ときおり幹線道路にも出る。青信号を待って歩いて渡ろう。まあそれはしょうがない。そうかと思うと、頭上にはいっそう高速の航空機があっという間に飛び去っていった(滅多なことでは高層ビルにぶつかったりはしないのだ)。いやハイウェイや航空管制のさらに上を、もしや戦車やミサイルが走っていこうとしているのかもしれない。●・・・ちょっとナイスなまとめになった。怪しむべし。


2001.9.14 -- まわりくどい言い方には、まわりくどい読み方を --

●今あちこちで聞かされる典型的な声がある。<A>=テロは許されない。<B>=テロは許されないが報復はやめろ。私は<A>が分かる。<B>が分かる。当たり前だ。これほどシンプルな日本語はない。・・・・それなのに私はいつまでもぐずぐずしている。そしてしだいにうんざりしてしてくる。●早い話、<A>はとても正しい。そして、<A>の人は自分が正しいということをよく知っているから、<B>の人が何を言ってきても耳を貸さない。どうせ<A>の正しさ自体は揺るがないからだ。ところが、<B>の人は、<A>を理解していないのではなく、<A>を理解している。そのうえで一歩進んだ正しさを見つけだす。つまりそこには「正しい論理」がある。そして<B>の人は自分の「正しい論理」を知っているから、いくら<A>だ<A>だと言われても、それだけでは動じない。●だったら「きょう私は<B>を主張します」、そう表明して寝てしまえばいいじゃないか。・・・・いやまあ普通はそうだ。それが良識というものだ。でも・・・・。それでも何かが気になって、まだ首を捻っている。●・・・・なんとなくamlの投稿を読んだりしつつ考えた・・・●<A>が<B>に同意しないとき、それは単に<A>を主張したいのではなく、むしろ<B>自体を批判したいのだという場合がある。もちろんさっき言ったように、<B>の正しさは<A>の正しさを「論理」によってすでに乗り超えている。したがって<A>が<B>を「論理」で批判できるとは思えない。しかし・・・・。必ずしも<A>は、<B>の「論理」を批判しているのではなく、もっと別の何かを批判しているんじゃないかと感じるときがある。そこになんらか聞き捨てならぬものを感じるときがある。私が眠れなくなってしまうのは、そういうときだ。●じゃあいったい<A>は<B>の何を批判しているのか。それがうまく言葉になればいいと思う。でも私はまだよくわからない。でもたとえば仮にこういう見方はどうだろう。<A>は<B>の「論理の正しさ」こそがなんとなく嫌なのだ、と。あるいは、<A>は<B>の「態度」の内にこそどこか気に入らないものを嗅ぎ取ってしまうのだ、と。●そのとき<B>には、<A>が単に「テロは許されない」と主張しているわけではないぞと見つめ返す余裕はあるだろうか。<A>の微妙で不明瞭ながらも私にはなお有効であると思える奇妙な問いが、べつに「テロ」に向けての問いではなく、「報復」に向けての問いでもなく、ほかでもない<B>の「在り方」自体に向けた問いであるということに、「論理」でまさる<B>は気付くことができるだろうか。


2001.9.13 -- 当然所謂戦争忌避 --

●このネタで今月いっぱいはいけるか。それどころか今世紀はここから始まったことにしよう。そう踏んでいるメディアやウェブ日記が多いかもしれない。こうした便利サイトもあちこちに出来ている。(追加=そうかこういうこともできるんだ!)●だったらしかし、こんな時こそ、大衆性インテリ群の方々には、すぐさま肉声コメントを発してほしい。もちろん大ボケをかませば嗤われることは覚悟の上で。週刊誌ましてや月刊言論雑誌の発売など待っていては、即断決行のブッシュやNATOに勝つことなどできない。テレビや新聞の速報性はもとよりウェブ日記のアナーキイさにも負けてしまう。批評におけるミソとかクソとかきのう書いたけれど、通常クソとみなされるワイドショウ的言説にすら物量作戦で圧倒されてしまう。●せめてこれくらいでいいから

●きのうは「対アメリカ自爆戦」のことを「作品」に喩えたが、その「作品」というのを、こんどは「他者」と言い換えてみてはどうかと考えた。長いので、こちらに。


2001.9.12 -- 世界平和のために --

●「国際政治経済概論」。きょう新聞とテレビにつかりきりだった人は、そうした集中講義を受けたようなものだ。なんでイスラムはアメリカを憎むわけ? なんで日本の株は調子よく下がるわけ? 漠然と保留にしていた問いも改めて問わずにはいられない。いやそれだけではない。ジェット旅客機ってそういうものだったんだ。超高層ビルってそういうことだったんだ。銀行の支店長は出勤が遅くていいのか。ハイジャックされた機内のトイレから貴方は誰にどんなメッセージを携帯電話で伝えるべきか。いやメールの方が早いとか。●実に様々な事象の、実に複雑な絡み合いを、いやというほど考えさせられる。それどころか、私の周囲に存在するものごとで、こんどの事件と関わりのないものごとなど一つもないのではないか。そうまで思わせる。世界中の人々がにわかに頭を使いだし口数が多くなる。要するに「米国への自爆戦」というパフォーマンスは、最大級の「作品」の誕生であり、そこにはミソもクソも一緒になったように様々な「批評」がどばどばどばと呼び込まれていく、というふうに見たらいいだろう。●一般に、すごい「作品」が生まれれば、おのずと「批評」は生き返るとかいう。それが文学であれ美術であれ政治であれ経済であれ。●さて、図らずも一撃のうちに世界の制度を明るみに出し世界の秩序を大揺れさせてしまった今回の「作品」に対しては、世界最大級の深い見識を保った「批評」で圧倒してやるしかないではないか。ブッシュさんよ、小泉さんよ、「作品」以下ではなく「作品」以上のもっとすごい「批評」を、頼むから見せてくれないか。●テロリズムなんてたしかに不肖の「バカ息子」にすぎない。でもそれはどうしたって我々の世界の息子、誰かの息子ではあるのだ。だったら、我々の世界に今、頼りになる「見識親父」はいないのか。本当にいないのか。


2001.9.11 -- Oh My God --

●2機目の航空機が激突する瞬間をNHKの生中継で目撃してしまったせいか、そのあとニュースがいくら過熱しても、だんだん飽きがくるのは防ぎようがない。キャスターや他のウェブ日記がまだ言っていないようなことを思いつくのも難しい。●ともあれ、こうなったからにはブッシュ政権の報復戦争はもはや避けられまい・・・とそのように我々の世界が出来ているのだとしたら、それは同時に、イスラム原理主義勢力(?)の自爆戦争をそもそも避けられなかった、そのように我々の世界が出来ていたということでもあろう。そして、そのようでない可能性は、残念ながら現時点ではとても低い。


2001.9.10 -- Stand By Me. --

●そういうわけで、台風がきてもインターネットで楽しくひきこもり。大昔なら停電とかしてたものだが。それと、台風といえば『台風クラブ』だが、なんと相米慎二監督が亡くなってしまった。●生き残りの蚊も家の中にひきこもってたり。


2001.9.9 -- こんどはホント台風が来るぞ少年(東京) --

河瀬直美がポッキーのCMを作るとか。タレントはモーニング娘。。●こういう場合「。」は二つなのだろうか。●新聞のテレビ欄で「モーニング娘。」の字数が多いからといって「モー娘。」と略す前に、なぜ「。」を略さない!●さんまのからくりテレビご長寿早押しクイズ、こんどモーニング娘は何人になったのかの問題に「8億7千万人!」。福井の某焼きとりチェーン店では「お勘定お願いします」「はいよ2千5百万円!」


2001.9.8 -- どっちにするかな・・・・あ、若者の話か --

●『若者のすべて』(斎藤環)という本が話題らしい。著者は精神科医で、若者を「じぶん探し系」と「ひきこもり系」に分け、たとえば浅田彰=じぶん探し系、東浩紀=ひきこもり系にそれぞれ位置づけている、ということを当の浅田彰が指摘したりするから、インターネットってお得で面白い。

●それでいくと、最近読んだ小説『インド夜想曲』(白水社)は、実は「じぶん探し系」であり、ある意味「ひきこもり系」でもあった!。インドを旅行しながら友人の足取りを追う話だから「じぶん探し」じゃなく「ひと探し」なのでは?だいいち旅に出ていてなんで「ひきこもり」なわけ?そういう疑問はもっともだ。しかしそこはこの小説を堪能した人なら納得できるはず。 ●作者はアントニオ・タブッキというなぜかポルトガルに詳しいイタリアの作家。このほか同じ人の『供述によるとペレイラは・・・・』という長編と、『逆さまゲーム』という短編集のいくつかも前後して読んだ。●小説を読むというのは、素性の知れない他人に一人で対面し、背景の分からない昔話や空想につきあうことだから、なかなか骨の折れる作業だ。それでも、タブッキさんとはこれからもつきあっていくだろう。まだ性格がよく分かったとは言えないからこそ。 むこうも完全に心を開いてくれているわけでもなさそうだし。●もっと親しくなれば、きっと、その作家に私がつきあってやるのでなく、私がむしろつきあってもらうような境地になれるのだろうか。実はそれが小説を易々と読むコツかもしれない。しかし、そういうのは読者自身が「じぶん探し」を始め、家の中・本の中・そして自分の中に「ひきこもる」ことなのか。


2001.9.7 -- 絶滅危惧種 --

●そのためらいの倫理学。久しぶりに古書でない単行本を2千円も用意して初めから買うつもりで訪れた本屋なのに。1件目「ためらいの、りんりがく、ですね・・・・りんりがく、りんり・・・・えっと、りんりって・・・・すいませんちょっとここに」「いいです、書きます。著者はこう・・・内田に・・・樹木の樹です」隣の店員が気付いて「ああその本、いま品切れなんですよ。来週にならないと入るかどうか・・・」。2件目はパソコンで出版社名を検索し「店長、冬弓舎って・・・」「冬弓・・・ああ、うちじゃちょっと扱ってないですねえ」。3件目「ためらいの、りんりがく、と・・・あれこれじゃ論理か、あのうりんりってどんな字でしたっけ」待つこと3分「お客さまあ、たのしいりんりがく、置いてないです」「え?あ?そうですか、ためらいのりんりがく、ないですか」「あ、ためらいのりんりがく、ないです」。4件目。ようやく平積みになっていた同書をゲット。

●けっきょく最後は、高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』


2001.9.6 -- 世紀の大型新人おじさん出現 --

●「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」--いいこと言いますねえ。内田樹という方です。サイトを読んでいくと、考えられるかぎり深い論考が隅々まで丁寧で分かりやすく、目から鱗が落ちまくる。おまけに楽しくて、しかしなぜだかそれゆえに真面目なやる気がわいてくるという、めったに出会えない有り難さ。橋本治と山形浩生と加藤典洋を足して合気道の技を掛けたような感じ(?)。著書は『ためらいの倫理学』。某サイトと紹介がかぶりましたが、偶然ということで。


2001.9.5 -- 男臭くなく、女臭くなく --

斎藤美奈子『妊娠小説』。21世紀に持っていくべき重要な一冊!・・・あもう21世紀でしたっけ。


2001.9.4 -- 予算要求という名の発情 --

●私はもう本は十分読んだし、日記も十分書いた。これからは読み書きを全くしない人生に切り替えよう。---そんな決意や実践ができる人はいるだろうか。読み書きというクセがいったん恒常化してしまうと、もう減らせない、死ぬまで止められない。きょうも漫然と何かを読み、漫然と何かを書いてしまった。恐ろしい。続けるべき明確な目的などないのはわかっている。にもかかわらず、なんらか読んだり書いたりしていないことには、この場所とこの時間をどう埋めていいのか分からなくなってしまうのだ。●特殊法人や省庁が無駄とも思える事業をどうしても止められないのも、似たようなクセではないか。まるで生理的な欲求のようにして予算を立て権益を拡張し税金をぶんどる。ほっといたら財政赤字は減るどころか増える一方だ。●小泉総理いわく「役所の性(さが)だね」。この凡庸さ、庶民にはたまらない。●もしも私たちが急に読み書きを禁じられたなら、手持ちぶさたで、寄る辺なくて、生きる張り合いすら失い、やがて廃人と化すだろう。役所の場合は?


2001.9.3 -- まずタイトルに惹かれて --

大杉重男「知の不良債権----批評閉塞の現状」


2001.9.2 -- 限定に限定を重ねた否定による言い訳ばかりの多い奴 --

丹生谷貴志をほんの少し読んだので一言だけ。鎌田哲哉についてもそうだが、この批評家たちが見通せるような蓄積など私には全くないし、それどころか雑誌やウェブ上で読めること以上に付け加えることもほとんどない。しかし「それだから書かなかったり載せなかったりする」ほうが、「それでも書いたり載せたりする」よりましな行為だ、とも思えないので、ともあれ書いたり載せたりします。


2001.9.1 -- 防災の日に、教訓 --

●歌舞伎町では店に入る前に「ここはキャバクラですか、それとも飲食店ですか」と確かめること。運転免許証は絶対持ち込まないこと。高い窓から飛び降りたりTVカメラの前に飛び降りたりしないこと。●もしも私が客や店員であったなら、火事で死ぬのは堪えがたく無念だが、それにもまして、警察が公務として知りえただけの私の住所氏名を、マスコミが横取りして世間にさらしてしまう、そんな恨めしいことがあろうか。べつに私のいた場所が歌舞伎町の風俗店であろうと、ホテル・ニュージャパンであろうと、フランスの首相官邸であろうと、だ。●いやそれは我々報道機関の権利であり義務なのだ、という使命感と、それによるとばっちりとを、どんな天秤で測ればいいのか。それは私にはわからない。ただし、知りたい私と、知られたくない私がいて、両者は利害が完全に相反する、それだけは間違いない。アサヒ・コムも、2ちゃんねるも、まったく同様。


2001.8.29 -- 筋骨隆々 --

●図書館は頭を鍛える施設だと思うといいかもしれない。体育館で体を鍛えるのと同じで。そうするとしかし、どちらもトレーニング不足がはなはだしい。●雑誌『早稲田文学』に載っている批評をすこし読んだ。かなりのウェイトで長時間のきつい運動となった。ところで批評とは、こうした頭の鍛練以外に何か本当の役に立つことはあるのだろうか。ましてや、その批評を読んで流した汗のような文章など・・・・。


2001.8.26 -- 村上国民的には、ジェイズバーの夏が終わる --

●近所の駅前あたりでは、ぼんぼりの明かりと踊りの響き。●夏祭り。普段とりたてて注目しないし、輪郭もはっきりしないけれど、あまりにしっくり私の生活=世界像にしみついている。住み着いている。「花見」や「海水浴」と同様だ。●「これが日本の心の故郷だよ」とささやかれ、つい「民族」や「国家」に回収されたり、めぐりめぐって「靖国」に回収されたり。いやそれは陰謀だ大間違いだと叱られつつ、じゃあどうなるのかというと、結局「民俗」みたいなものに回収されていたり。まさかとは思うが「民主的市民コミュニティ」に回収されていたり。●それより、自分の夏のイメージを少し解析してみるに、なんだぜんぶスタジオジブリにマインドコントロールされてたんじゃないか、だったり。●舞台には、ひょっとこ面が登場してきた。ひょっとこって、いったい。


2001.8.25 -- 経済がこんなにわからなくていいかしら --

●昨夜はだらだらと「朝生」を見てしまった。デフレ対策の話。おなじみの経済学者や経済通の議員が勢ぞろいしたので、新しい事実がいろいろ学べた。たとえば、小泉総理に先だつ特使として訪米した、かの島田晴雄慶応大教授は、えなりかずきに顔が似ている、人の良い性格も似ているという衝撃の事実。また、経済アナリスト森永卓郎氏はニュースステーションではニコニコ顔の独壇場だが、自分の見解が他のパネラーに否定されたりすると、唇が一気にヘの字に固まり目は点になりしばらくそのままだという事実。●この未曾有のデフレを食い止めるため、まずは日銀が紙幣を思いきりたくさん刷って銀行にばらまきインフレを起こすべきである、かどうかについては、結局わからなかった。パネラーも実はよくわかっていないんじゃなかろうか会議。


2001.8.24 -- 罪と罰 --

大麻でクビ。駐禁逃れでクビ。退職金8千万円とか国家から用意されてる奴はいいけれど。まあ既にガッポリ稼いでいただろうから、それが気の毒なわけではないが。

どなたか実験してみませんか。


2001.8.21 -- 教科書論争の教科書として採択していいですか --

●夏目書房のブックレット『どうちがうの?新しい歴史教科書vsいままでの歴史教科書』を読み始めた。扶桑社の教科書と他社の教科書の記述をテーマごとに抜き書きし、それぞれどちらが「勝ち」か判定を下すという趣向。●扶桑社の教科書の感想はさておき。他社の教科書はどれも精査の行き届いたマニュアルとの印象が濃い。そしてこのブックレットもまた、そのマニュアル性を判定するためのマニュアルでありうる点がともあれ有益なのかもしれない(とか思ったが、実はけっこうズボラに出来ているので、あまり構えず好きなように読み流すのが正解)。●夏目ブックレットといえば、あの『買ってはいけない』を徹底批判した『「買ってはいけない」は買ってはいけない』と同じだ。『「買ってはいけない」は買ってはいけない』は実に簡潔で説得力があったので、今回もわくわくしている。●なお大月隆寛、副島隆彦、橋爪大三郎、宮崎学らの名前が表紙に載っているが、彼らはコラムを書いているだけなので注意。反則っぽいがまあいいか。それより、だったら著者は誰なんだ? と奥付けを見ると「本文執筆」の筆頭に「横山茂彦」とある。この名前どこかで見たとおもったら、なんと『「買ってはいけない」は買ってはいけない』の執筆者でもあったのだ。この人、宮崎学と繋がりがあるようだ。キツネ目サイトにそのことが示されている。いやそんなことより、叩きのめされた格好の『買ってはいけない』の週刊金曜日が、逆にこの人の記事を掲載したりしているではないか。妙に興味をひかれる。

●「買ってはいけない」論争とは、たとえば「正露丸は買ってはいけないのか買ってもいいのか」の論争だった。私は夏目ブックレットを読んでいてともかく面白かった。それなのに、これで青筋を立てて喧嘩する人が後をたたないようだった。ある成分が身体にどう作用するのかの検討が、なんでそうなるのか。だから、たとえば「従軍慰安婦を教科書に書いてはいけないのか書かなくてはいけないのか」という論争とあれば、ほとんど民族紛争のようにキナ臭くなるのは、これしょうがないのか。と、つい諦めたくもなる。正露丸であれ、従軍慰安婦であれ、その事象を認知する形式の背後に、つまりは思想というものが存在するということだろう。●それでも、と、私は思う。またまたたとえばの話「こんどのノートブックはiBookにすべきかVAIOにすべきか」とか「週末のデートはカフェマディに行くべきかドロールに行くべきか」だって、同じく論争として成立する。同じく思想に立脚してもいる。いやもちろんこれをめぐってさえ諍いは起こりうるのかもしれないが、通常この手の論争は、なんというか、楽しい。思想の対立が背後にあるからといって、必ずしも喧嘩しなくていいということなのだ。●教科書問題も、靖国問題も、徹底的な吟味は大切だが、もうちょい冷静で軽妙でもあるような、いわば「楽しい」分析や判断はないのか。それが入り込む隙がないことこそが、過ちのもとなんじゃないか。●で結論としては、このブックレットは総じて、少なくとも青筋を立てて書いた本ではない。


2001.8.20 -- 自分を律するということ --

ムーノーローカルの消滅について、さらに。「このサイトは高橋源一郎が作っていたのだ」と言っても信じられるほど、ものを書くことに対する一貫した態度にうたれる。きのうリンクした「解題・ムーノーローカルの作り方」と、その手前にある「このwebサイトの読者だった方へ」というページは保存しておこう。●そこから引用。<「ムーノーローカル」および「rhyme」という名前は、ほぼこのwebサイトのために用意されたものだったので、web上ではこれらの名前を使って発言することはもうないでしょう><具体的な終了の時期は、誰もがムーノーローカルがあって当たり前だと思う頃にしようと思いました>。考えてみれば、小説や映画は虚構の死をどうにか現実の死らしく見せるために頑張ったりするわけだが、図らずも(あるいは計画通りか)ここにおいて、rhymeというネット上の人格であるような現実の人物であるような存在を、慣れ親しんだ読者は急に失って、もう二度と接することができないという、まるで本物のような死が実現したということになる。●それでも(また引用)<僕は言葉というまったく不完全なインターフェイスしか信じるものがないので、しかたなく言葉を信じているような人間ですから、あなたが「忘れない」と言ってくれたことや、僕がこれを忘れないと思っていることを信じることができます。しかし、どのみち僕は人間について諦めながら暮らしている人間でもありますから、僕やあなたがこれを忘れてしまうことを否定できませんし、もうずっとそんなことを悲しんではいけないと思って生きています。だから、言葉だけを大切にしておわかれしましょう>。なんだか、『日本文学盛衰史』の終わりのような気がしてきた。


2001.8.19 -- ストイックな職人に敬意 --

小泉総理も夏休み。でも、テレビで必ず脇にいておなじみになってしまった幅広い身体のあのSPの人は、箱根でも総理の脇を固めている。なぜか普段と違ってノータイに赤シャツでリゾート気分を醸そうと必死(というか健気)だが、けっきょく仕事ってことじゃないか。いつ休むのだ、総理のSP。SPといってもセールスプロモーションではないよ。

ムーノーローカルというサイトがきょうで消えたが、最後の最後に大マジなコメントを残している。意外なようで、言われてみれば、ちっとも意外ではない。正しさとは無縁であることの「正しさ」。そう、それは私たちの一番の根拠だったかもしれないと、自戒。


2001.8.18 -- コテンパン、噴飯 --

●靖国問題に絡んで、浅田彰坪内祐三加藤典洋をやっつけている。とくに加藤典洋に対しては、狙いすまして足を払い、急所を無駄なく突き、首をしめて確実に殺すという感じだ。それほどの残虐行為なのに、きっちり筋の通った攻め方だから、むしろ見物していて小気味よい。それにしても、私がつねづね加藤典洋を読んで感じるのは、浅田彰が感じているような印象とはまるで逆の、いわばまさに良心の懊悩というようなものであるのに、どうしてこうなるのか不思議ではある。●なんて思ってたら、こっちでは東浩紀がリング下から浅田彰に回し蹴り


2001.8.17 -- 夏の映画2つ、テレビにて --

●最近よく行くのは「ごはん処・大戸屋」。注文では、二つの似たような数値をチェックしなくてはいけない。まずは550、580、640・・・、次に653、933、743・・・。そう、値段とカロリーである。なになに「特選大戸屋ランチ」が580円で1008kcalか。「鶏ささみ野菜竜田揚げ定食」なら650円で793kcalと。よし、安いのにカロリーがたくさん取れる「特選大戸屋ランチ」に決定だ!・・・とはならない。終戦直後ではないのだから。現代においては、値段だけでなくカロリーも小さい数字が偉い。いやむしろ値段が高くてもカロリー低めにこだわってこそ金持ち父さんというものだ。●こんなことが気になったのは、先日『火垂るの墓』をテレビでまた見て、なんという悲しく、なんという美しい映画だろう、そして、鉄砲を担いで戦場に行くおぞましさ、飯も食えずに行き倒れていくおぞましさに比べたら、我々の爛れたようなこの時代の方がどれほどマシであることかと、やや当たり前なことを感じたせいだ。●ちなみに、原作の野坂昭如が餓死した妹の遺体を実際に焼いたのが、私の郷里福井県の春江町での出来事だったことは、あまり知られていない。

●テレビの映画といえば、きのうは『バタアシ金魚』(松岡錠司監督)をやっていて途中から見た。これはたしか劇場公開のころ(1990年)に見ていて、その後ずっと、たいそう面白かった記憶はあるがどういう面白さだったかはうまく言えない、という状態が続いていた。で、久しぶりに見てみたら、やっぱりたいそう面白い。忘れられなかっただけのことはある。でもやっぱりどういう面白さなのかの説明はなかなか難しい。そういう映画、実はたくさんありそうだ。捨て置けない。●中身を忘れていても、正体不明で分類や説明ができなくても、ずっと心に引っ掛かっているからには、ちゃんと根拠があるのだ。記憶というのは正直だ。パソコンにたまっていく古いファイルも、もともとはなんらか引っ掛かりがあって保存したのだと思うが、記憶の保存と違ってそういう引っ掛かりの印が残らないために、もう要らないかと消してしまいがちだ。●なお、『バタアシ金魚』には、若かりし筒井道隆と高岡早紀さらには東幹久まで出てくるのに加え、べつに若くはないが漫画家いしかわじゅんも出たりして、なかなか楽しいのだが、驚くべきことは、なんと浅野忠信が子供みたいな高校生役で出演したりしているのである。しかも、そのことはエンドクレジットで名前が出るまで気付かず、しばし考えて「ああ、あいつがそうだったんだ!」と思い当たったときの衝撃!。そういえばあの高校生の演技というか存在というか、それはやっぱり独特のおかしさを誘っていたなあと納得するのであった。


2001.8.13 -- 昼飯も外に行くのは面倒でちょいとダウンロードしたい --

●先日リンクで無理やり行かされたサイトをブラウズ中、うっかりマウスに手が触れてなんだか知らないソフトを間違ってダウンロードしてしまい、仕方がないので立ち上げていじってみたところ、困ったことに、ネット上に誰かが勝手に置いた音楽データを勝手にどんどん私のディスクに運んでくるではないか。う〜む。せっかくなのでパソコンをオーディオにつないでちゃんと聴くことにした。●とっくに実現している人もいるのだろうが、私としては、ブロードバンドの到来で、とうとう「音」が完全にネット的存在へと変わった。mp3なら音質もまあ悪くない。なによりぜんぶ手元で制御できるところが便利だ。アンプの前まで歩くどころか、CDディスクをケースから出しプレーヤにセットするといった作業すら消える。同時にリアルプレーヤーも使っているので、ラジオがまたパソコンと合体した感覚がある。パソコンとアンプのイン・アウトを逆にすれば、永眠しかけのカセットテープもmp3化できるわけで、再利用と一元管理をはかろうかという気も起こってきた。●パソコンによってテキストに画像さらには音楽までが統一記述できる時代、ということになろうか。なんだか、宇宙を別個に支配していると思えた4つの力のうち、核力2つと電磁力あたりがさっと統一してしまったような衝撃だ。残るはテレビなどの動画データ(いわば重力)ということになろうか。それどころか洗濯機やエアコンなど家電すべての超統一理論も、遠い日の夢ではない。●そんなわけで、きょうのBGMはギルバート・オサリバン「アローン・アゲイン」、シカゴ「サタデイ・イン・ザ・パーク」、エルトン・ジョン「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」・・・etc。黄金の70年代前期。時空を超えたポップスの統一記述。


2001.8.11 -- 鎌倉にお住まいの大佛次郎さん --

●『舞踏会へ向かう三人の農夫』の解説本的『パワーズ・ブック』をGoogleで検索していたら、「世田谷日記」というサイトに行き着いた。力の抜けぐあいが心地よく、しばらくブラブラ(ブラウズ)していると、この人、自転車で下北沢を散歩したりしている一方で朝日新聞に連載があったり小説書いたりもしている。いったい誰なんだろう。思い付かない。トップページで判明。なんだそうか。ドメイン名で気がつくべきだった。私は「u-en・・・迂遠?」とか心の中で読んでいた。●冒頭に「本サイトはNN5.0、IE5.0以上でご覧になるのがいいことになっているようです」とある。この「・・・ことになっているようです」(がよくわからない)感覚というか思想が、サイト全体に貫かれているようで、どこを切っても面白いが、とくにこのバックナンバーが絶妙な笑いを誘う。ちょっと「Webやぎの目」のテイストだ。●私はたまに自分のブックマークから「やぎの目」を選んだつもりが「ひつじ書房」にいってたりすることがある。

●ところで先日、Googleを「グーグル」と口にした人がいて、別の人が「それってゴーグルっていうんじゃないの」と注意していた。でもスキーの時などにかけるゴーグルが「google」と綴るのかというと、そうでもないようなので、もしかしたら本当に「グーグル」と発音するのだろうか。●ま、インターネットしつつ心のなかで「そうだ、ゴーグルで調べよう」と呟こうが、いや実際夜中にパソコンに向かって「やっぱグーグルってすごいや」と叫ぼうが、咎められる筋合いはないのだから、ここはひとつ「好きなように読め」を正解としておきたい。「Goo」だって「グー」でも「ゴー」でも「ジオオ」でもかまわないではないか。「ゴーー」でもいい。「yahoo.com」は「ヤフーコム」で「yahoo.co.jp」は「ヤホージャパン」と呼び分ける人がいてもいい。いてほしい。ネットに引きこもって他人と話すのはコンビニの「温めて下さい」くらいかなという生活であれば、文字の読み方なんてまったく自分流でいいのだ。●イッセー尾形のコントではないが、「はじめてお目にかかります」「あ、どうも」もらった名刺が「巽」。読めない人名は勝手にルビを振ってしまえ。しかし、駅の窓口で切符を買いたいが行き先が「周匝」、この場合は・・・。


2001.8.10 -- 正直いうと、まだ読んでいない --

中原昌也あらゆる場所に花束が……』の「面白さが、私にはまったくわかりません」と述べているのは浅田彰だ(WEB CRITIQUE欄)。正直さが潔い。その昔『構造と力』がちっともわからなかったと告白していた中島梓を思い出す。これを三島賞に推した島田雅彦と福田和也の選評も、わかるようなわからないような感じだったし。●あわや裸の王様?というところに、こんな指摘を見つけた。中原昌也の小説は「たとえば初期蛭子能収のマンガを読むことが、いちばん読書体験としては近いように思われます(6月15日付)」というのだ。なるほど。これは大納得の説明だ。●さてその蛭子さん、仲睦まじかった妻を亡くされたとのニュース。赤の他人の私だが、なんだか心が痛む。●実は、もうひとつ中原昌也の的確な評をウェブ上で見つけていたのだが、いま探すけど、出て来ない・・・


2001.8.5 -- 靖国問題について、完全に黙っているよりは、何か言ってみるのが、最低であるよりは少しだけまし、とも思えないけれど、 --

●さいきん時々のぞかせてもらってるサイトに、『セーフティネットの政治経済学』という本の感想があった。興味深かったのでリンク。こちらのサイト(8月4日付け)。●「市場で競争すること」と「信頼し協力すること」という一見して相容れない正反対の行為は、実は互いに補い合う関係にある---とこの本にあるらしい。この逆説がとてもおもしろいと私も感じた。また、感想は「経済学とは「物語作り」を主とする学問なのではないだろうか」と結んでいるが、この「物語作り」という見方が示唆に富んでいると思った。●それと、この人の、正反対の主張の本をそれぞれ読んでもそれぞれ納得してしまったりする、というところに、またまた共感するのであった。

●さて、この本は読んでいないので、以下はこの本の趣旨とは全く関係ないが。そしたら、軍備というのも、つまりはセーフティネットということなのだろうか。核武装による抑止力。ミサイル防衛構想。似たようなことか。日米安保も、逆に(あるいは同時に?)憲法第9条(窮状?)も、きっと一種のセーフティネットか。第9条の原理主義的解釈つまりは非武装中立という構想もその変種だ。●だいたい国連というのは結局国家の連合(the United Nations)であるのだが、だからそれを支えるのは他でもない国家(nation)なんだという前提意識が、どうも日本国内では足りない!とか批判される。では、その日本ののんきさが本当に悪いのかを判断したい。そのときは、次の思考を忘れないでおこう。すなわち、国連という制度・国家という制度、さらには国連軍ないしはPKO・PKFというのは、「セーフティネットとしてとても有意義だ」と言えるかもしれないし、同時に、「そんなのセーフティネットにすぎないよ」と言えるかもしれない、ということを。●そして、ここでまたさっきの感想と重なってくるのだが、そうした国連や国家や軍備といったセーフティネットの必要性・有効性を信じるには、それ自体の「物語作り」あるいはそれを支える「物語作り」が求められるということだ。

●物語作り。「靖国神社」というのはとてもリアルで強い物語なのだろう。●もちろん、私がその物語を受け入るかどうか、つまり英霊が靖国に還ってくると信じるかどうかは、私が決めることですよ。子供のころ近所の祭りでお神輿を担いだかどうか、忠魂碑で遊んでいたかどうかなどは別にして。●それどころか、祖霊がお盆に還ってくると信じることだって、天皇誕生日だって、いや私の誕生日だって、それらは全部が物語作りをしているのである。そんなことを言うとなにかとカドが立つから、ふだんは黙っているけれど。●しかし、こうなってくると、逆に「靖国神社反対」というのもまた、なにか(なんなのかはうまくいえないが)のセーフティネットを支えるための物語作りをやっているのかもしれない、という疑いが起こってくる。つまるところ、今の靖国論争全体が、単なる物語なのかもしれないのだ。だから、小泉総理に対しても、中国政府や韓国政府に対しても、私は、好き好んでつきあってもいいが、好き好んでつきあわなくてもいい。そういう実感や理屈を捨てなくてもいい。●靖国賛成に、あるいは靖国反対に、「国民としてつきあうべきだ」「市民としてつきあうべきだ」と言われるかもしれない。しかしそれはいわば、列島の住人をそういう一つの構造(国民あるいは市民という構造)で眺めようとするイデオロギーだ。それが国家のためと思い込むなら国家主義であるし、それが世界のためと思い込むなら、それもなにかの主義だ。

●さてさて、ここでもういっかい最初の引用(一見して相容れない正反対の行為は、実は互いに補い合う関係にある)を遊技的に発展させて、<靖国賛成と靖国反対の「主義で競争すること」が「信頼し協力すること」になったりはしないのか>、と思考実験をしてみるに、う〜むそれはやっぱり極めて困難だ。しかしなんでこの手の論争は常にこれほど不毛なんだろう。8月15日を目前に、日本の前途(というか小泉ソーリの前途?)に暗雲が立ちこめる。 ●それとも、実はこの不毛に見える論争は、やはり、ある種の国やある種の集団やある種の人々のアイデンティティとか、政治家の仕事とか朝まで生テレビや2ちゃんねるや新聞の論説とかを永続させるための「セーフティネット」として機能している、という結論はどうだろう。●話がちょっとオーバーになった。そもそも日本の前途といっても、巨人の前途と同程度の関心しか実感できないということを、告白しておく。


2001.8.4 -- 新庄を英語で形容するとしたら --

●今回の人事騒動における外務官僚たちの熾烈な闘いを、米ワシントンポストが「スキャンダルにまみれたプロレスラーの集団」と報道した、と朝日新聞が報道している。こういうのは、実際の英語に触れてみたくなる数少ない契機であり、ちょっとサイトを探してみた。どうやらこの記事だ。●たしかに「like a pro wrestling team」とある。しかし、この裏には、ふだんやたらと慇懃な日本の官僚のことを「stone-faced」「わけがわからぬものの中でも、とりわけわけがわからぬ存在」と皮肉り、かつ「それって単に争いを避けたい一心だったはずなのに、今回にかぎってどうしたんだよ」とあざ笑う気持ちがあるようだ。田中真紀子外相のことも、「enfant terrible」(生意気でマセたガキ、とかいうニュアンスらしい)と呼んだりする。●それにしても、朝日新聞からワシントンポストまで家にこもったままタダで好きなときに読めるというのは、ありがたいことですね。英単語(ほとんどわからない)だって、gooの英和辞典で、どんどん調べていけばよい。発音まで音声ファイルで教えてくれる。辞書も、電子辞書すらも、もはや要らない。私のこの両脚もそのうち退化するだろう。

●このほか、映画「パールハーバー」が日本では完全にラブストーリー化されて感動を与えているという記事もあった。それの「sanitized」という形容がおもしろいと思った。また「パールハーバー」には日本の右翼国家主義者ですら文句をつけていないと述べ、その右翼について「can take easy offense」と書いてあったりして、Gooを参照にしつつ、なるほどなあ、私も仮に左翼となるにせよ右翼となるにせよ少なくとも「take easy offense」な奴にはならないようにしたいと自戒したりする。

●そうこうしているうちになんと、日本人初の4番、振り逃げで出塁。どうしてこれほど見事にツボにハマるのか、新庄。ついでなので、これもそのワシントンポストのサイトで探してみるが、さすがに見当たらない。●Japaneseは、べつにみんながみんなIchiroや官僚みたいに寡黙で緻密で勤勉なわけはなく、のんきで行き当たりばったりな奴もいるし、むしろそれが自分らしいと思っている奴もいるということを、こんどワシントンポストも書くように。


2001.7.30 -- ちくま新書680円、吉野家牛丼280円、どっちもなかなか --

●日本語に関する新書はずいぶん多いが、こんどの『さすが!日本語』(渡辺実・ちくま新書)は、最高に面白かった。どうせ相変わらずの内容だろうと思いきや、日本語の秘密と機微がついに明らかになった感じだ。皆さんは、もう読みましたか。まだですか。私はさっき読み終えました。しかし、本の魅力というものは正確にはとてもまとめられない。人に勧めるにしても、実際にその本を手に取ってもらう方がよほどいいのだ。だったら感想なんていっそやめようか。いやそれはもっと寂しい。せめて自分の覚えとして書き残そう。そうした思いが重なって、なかなかややこしい文章ができ上がった。好きな本のことを書くのは楽しいはずだが、さすがに疲れた。ともあれ、せっかく書いたのだから、紹介したい。ただ、けっこう長いので、こちらのページに掲載する


2001.7.29 -- もう午前3時、残り8議席 --

●多くの国民がテレビの開票速報を最後まで見てから床についても、月曜の仕事にさしつかえることのないよう、選挙の投票は午前中だけで締め切ってはどうか?

●下でテキトウなことを言ってたら、本当にウィルス・メールが届いてる。もう2件。いずれもML経由。ファイルを開いたら大変だ。あぶないあぶない。でも、ちょっと開いてみたい気もする。世界と直に接している私(のパソコン)。


2001.7.26 -- Hi! How are you? --

●実は私のパソコンもサーカムに感染していて、ディスクに保存されていた文書を電子メールで大勢の他人に勝手に送りつけてしまっていたとか。で、送りつけた文書が何だったのかとても心配になって調べてみたら、ああなんだ先週の小泉メルマガだったかとか。●毎日決まった時間になると、無作為に選んだサイトから日記のおもしろい所だけをコピーしてきてどんどんここにペーストする、そういうウイルスに感染するとか。


2001.7.22 -- 踊る阿呆に見る阿呆に論じる阿呆 --

●なんだ、フジの27時間テレビも最後は「みんなそろって頑張りました」の感動かよ。おまけに、新人の通過儀礼として、神聖なるスポンサー様の御名を唱えさせる締めくくり。中世暗黒共同体。お台場村の夏祭り。将棋倒しの事故よりこわい、将棋倒しの自粛。●そういう点では、ダウンタウンの「お笑い能力開発ゼミナール」は、和やかなお笑いへの着地には本来高度なスキルが要求され、かといってもちろん真顔への逃亡など許されない、そんな現代社会緊張の実相を滲ませて、よかった。松本人志はブレーンがやはり優秀だと知る。


2001.7.21 -- 夏バテ解消にあえて読め、暑苦長文 --

●資本+国民+国家制度への抵抗をごまめの歯ぎしり的に実践するNAMは、たとえば「反グローバル」の合言葉でサミットに石を投げつける人たちを、はたしてどう評価するんだろう。・・・な〜んて複雑なことを考えるには、毎日ちょっと暑すぎますね。●そのNAM関連のシンポジウムに足を運んできたのは、先月30日のことだった。会場は早稲田大学の大隈講堂。ここは半年あまり前に保坂和志の講演会があった場所で、その時は暖房の効きがすこぶる悪くて閉口したが、今回も嫌な予感が当たって、ひどい蒸し暑さの我慢イベントだった。●パネラーは、柄谷行人と、NAM実践の最大の柱と位置づけるLETS(地域通貨を超えて広がるような地域通貨)の解説係として西部忠という人、そして島田雅彦の3人。●きょう注目したいのは、進行役だった中島一夫という人。前振りが長くてスタッフに陰から注意されたりしていたけれど、まとめの言葉が実に的確で、目立たないながらの、無駄も澱みもないその口調は、かの浅田彰に匹敵すると感じた。もちろん浅田彰の場合は、その口調がさらに3倍速になるのだが、聴衆にとっては、むしろ普通のスピードの方が少しは自分で考える余地ができるので、ありがたいとも言える。●この中島一夫氏、批評家としてデビューしたばかりと聞いた。ちょっと気になったので、新潮新人賞(評論・ノンフィクション部門)を受けた「媒介と責任--石原吉郎のコミュニズム」というのを読んでみた=2000年11月号=。テーマといえば、マルクスの発想のハイライトみたいなことのようで、そういう不慣れで小難しい話なのに、真面目に読むとこれが手品のような読み心地を誘ってきた。どういうことかというと、我々の社会にずっと行きわたっている「交換」とか「貨幣」とか呼ばれる煩雑で動かしがたい仕組みも、実は、人と人のベーシックなつきあいにおけるこれほどにありふれた行為から始まっていたのかということを、なんとも思いがけないことに石原吉郎のシベリア強制収容所体験を読み解くことで、するするすると納得させてしまうのであった。●この評論の背骨を支えているのは、もちろんマルクスであり、そして柄谷行人であるようだ。中島一夫氏は、受賞の言葉として、<目下の関心は、柄谷行人によるアソシエーションとスガ秀実氏、福田和也氏によるそれへの批判にあります。この対立は「超越者(による均質性)なき平等は可能か」というアポリアをめぐっており、「交換(*コミュニケーションとルビをふってある)と暴力」という逆説に我々を直面させてやみません>と述べている。こういう思索の流れを踏まえれば、NAMもLETSも本当の光を放つのであろうか。●もうおまけの話になると思いますが、このシンポジウムの開始前に、早稲田の学生が登壇し、学生会館を新築して管理を強化しようとする学校当局に反対する旨のアピールをしていた。昨日asahi.comにそのニュースが出ていたので、思い出した。asahi.comの記事には、<ある演劇サークルの部員は「早稲田のサークル文化は、外部との交流や汚くて乱雑な部室から生まれた面もある。大学から押しつけられた場所からは生まれない」と嘆く>というくだりがある。大学自治というものが死んでしまうのはイカンが、汚くて乱雑な部屋がいいというのもなんだか抒情的な気もするが、・・・などと複雑なことを吟味するには、ちょいと季節が悪いのであった。それにしても、大隈講堂もエアコンがちゃんと効いていて欲しいのと同様、汚くて乱雑であろうがなかろうがエアコンだけは効いている学生会館を、私なら望みたい。●サウナにいるような暑苦しく長い日誌でした。ご苦労様。あとはビールでも飲んで寝てください。


2001.7.19 -- お子様の勉学に配慮が必要とされる記述があります --

●根拠なき熱狂こそが革命である・・・宮崎哲弥がそんなことを述べている。こちらのページ。●小泉内閣に踊る大衆を、知識人はさまざまに訓戒し叱責してくださるが、私としては、これくらいスパッとした見方に共感する。●だいたい、小泉内閣の80%支持を嘲笑する人は、森内閣の80%不支持も同じように嘲笑していたのだろうか。そうでないなら、なんか調子いいというか、不誠実じゃないか。小泉支持になんとなくなびく世論なんて、たしかにいい加減だが、だったら、小泉支持の批判にこれまたなんとなくなびく世論のいい加減さにも、ほんとうはもっと注意した方がいい。●歴史教科書の話題にも似たような感想を持つ。扶桑社の教科書を不採択にする「教育委員会」が相次いでニュースになっているが、本来「教育委員会」的な人々って、むしろそれっぽい教科書を待ち望んでいた側じゃなかったっけ。ここにきて、すっかり逆の方になびいているのは、どういうわけなんだ。教科書を政府が作ることの是非、扶桑社の教科書の歴史認識の是非、そうした根本問題をさておき、私は世論のなびき方のほうが気になる。

●TBSテレビ「ガチンコ」はヤラセだったと、ある出演者が「フライデー」でチクっている。同記事によれば、番組プロデューサーは「あの番組はフィクションともノンフィクションとも言えない。いわばドキュメント・バラエティだ」てなことを述べているらしい。●まあ今どきの視聴者なら、すでにそうした事情は承知しつつ、それでも各人が各場面でふっと晒してしまう一瞬のリアリティだけを鋭く嗅ぎ分け、チャンネルも賢く切り分けている。

●ところで、この「ドキュメント・バラエティ」っていう言葉は、さっきの歴史教科書を巡る話にも当てはまるような気がしないでもない。●他の人や組織による演出とはまったく無縁の「切実さ」は、今どこにあるのか。戦争の犠牲者の具体的な体験と感情そのものには、なによりその切実さがあると言えるだろう。歴史教科書でいうなら、たとえば家永三郎氏の執筆態度にはそういう切実さがあったように思う(ついでに歴史認識はどうあれ西尾幹二氏の執筆態度にもそういう切実さがあるように思う)。しかし、文部省の教科書判定とか、教育委員会の教科書選定とか、さらには韓国と日本の学校の友好関係が解消されてしまうとか、そうした動きには、そうした切実さをあまり感じない。そうした動きは、いわば「ドキュメント・バラエティ」だ。●学校間の友好というものが政治的名目的予算消化的なものでなく本当に切実なものであったのなら、「教科書がどう問題かはさておいて、我々はなにがなんでも仲良くしましょうよ」と韓国側を説得する根拠がないとは思えない。●ここで大事なのは、日本国政府や韓国政府や中国政府の歴史認識ではない。問われているのは、切実さを根拠にした個人の論理だ。そして個人の論理こそが倫理だ。

●では、ドキュメント・バラエティとしてではなく、私の切実な気持ちとして、デンバー総領事をご紹介。ウルトラクイズじゃありません。あれ、御写真が消えたみたいだ。じゃこちらをどうぞ。水谷周デンバー総領事


2001.7.17 -- おもしろい日本の私 --

「うるせぇぞ、馬鹿野郎!」「いいぞ!やれー!」●選挙が有意義だからなおさら選挙が野次馬化するのだろうか。1億票の不思議な傾向。●されど、見物して激突してやっと位置と勢いが確定する政党と候補者の量子力学。では、実在とは何か。


2001.7.16 -- アクセスを許す設定 --

ADSLのルータ設定などをチェックしていると、このパソコンが直接インターネットに繋がっているんだという意識は、これまで以上にリアルになる。●たとえば、ある映画を見てきた日、インターネットでその映画の関連サイトを探す。そこに載っている映画の解説文やスチール画像をダウンロードしたくもなる。しかし、このサイトにはいつだってアクセスできるわけだ。サイトが消えたって検索エンジンで似たような資料がすぐ手に入るだろう。だったら、わざわざ自分のパソコンにしまうこともない。もはやインターネット全体が自分のパソコンとさほど違わない、そんな感覚になってくる。

●ところで、自分のパソコンからインターネット上のあらゆるパソコンにアクセス可能ということは、本来、逆にあらゆるパソコンから自分のパソコンにもアクセス可能ということである。●可能なのはブラウズだけではない。設定によっては、お互いのパソコンを書き換えてしまうことだってできる。●まあ実際は、各自が掲示板という別のパソコン(サーバ)を別の場所に置いたうえで、お互い自由な書き換え(書き込み)を許容しあっているわけだ。メールが自分のパソコンと他人のパソコンの間を行き来するのも、似たような構造だろう。

●では、我々のパソコンや我々の掲示板と比較して、我々の思考の方は、どんな具合だろうか。たしかに我々はインターネットや図書館にアクセスし、そこにある誰かの思考をどんどんブラウズしている。誰かに直接会ってその思考をブラウズすることもある。しかし、逆に私のこの思考に、他人からのアクセスをどこまで許容しているだろうか。●私の思考に対して、私だけでなく他人も自由に書き込みができ、それによって私の思考がぐんぐん更新されていく。そうであってもかまわないどころか、そうであったほうがいいのかもしれない。それなのに、そういうアクセスを絶対させないような頑固な防護壁を築いたりしていないだろうか。思考の設定をときどきチェックしましょう。


2001.7.11 -- 取らぬアクセスの皮算用 --

●ウェブに日記なんか書くからには、なるたけ大勢に読んでほしいに決まっているのである。あわよくば30万いや200万人くらいには見てほしいのである。支持率も80%以上を望むのである。そんな素振りをつゆ見せないサイトであっても、本音はそうなのである。そうでなければ日記など晒さない。●で、自分が他の日記を見る経験からいうと、自分の好きなネタがあれば喜んで読むが、知らないネタばかりだとブラウズしていて疲れてくるし、それが続けばクリックの頻度が減る。したがって私の日誌も、<きのう私はジョナス・メカスの『リトアニアへの旅の追憶』を見ました。渋谷のイメージ・フォーラムです。暑い日でした>とか<群像文学新人賞の「蚤の心臓ファンクラブ」ってのを読んだのはおとといです。やっぱり暑かったですね>とか書いていたんでは、「何それ?」とそっぽを向かれる可能性が高い。だったら、やっぱり小泉内閣ネタにしよう、あるいはイチローの活躍について、となって、ワイドショーの気持ちが少しわかったりする。

●そもそも「文学」というネタの、ウケはどうなんだろう。「群像」の8月号で大塚英志が『日本文学盛衰史』の書評を書いていて面白かった、なんてここで書いても興味のある人は限られるのだろうか。●ともあれ、大塚英志はその中で、「文学」は歴史に未来に残るだろうが自分の書物は「文学」ではないので消えていくだろうとの認識を前提に、現在の「文学」への非仲間意識を示すが、それでも「文学」の界隈には今もなお「文学」に攫われたい少年がうろうろしていて、そのことへの興味だけは自分も失ってはいない、という微妙なことを書いていた(不正確引用)。

●たとえば「蚤の心臓ファンクラブ」という「文学」が、日記のネタのインパクトに欠けるのはさておくとしても、現実との直の言葉をやりとりを、この作品程度には十分していると思えるウェブ日記を、少なくとも私はいくつも知っている。●こういう現状を、「文学」という特殊法人・公益法人の温存と呼んでおこう。文豪の天下り許まじ。という具合にネタを小泉内閣に引き戻したわけではないが、大塚英志さん、読み書き流通の構造改革が断行されたあかつきには、貴方の本は「文学」を押しのけて、ちゃんと歴史に残りますから。


2001.7.10 -- 株価の方程式 --

●日本マクドナルド社の株式上場が近い一方で、中村政人マクドナルド作品ベネチア・ビエンナーレに上場したという。株とアートは、その市場性・雷同性・不確実性(わけのわからなさ)において、似ているとも言える。●実をいうと私は大昔マクドナルドでアルバイトをしたことがある。時給は現在の3分の1程度だったろうか。バーガーの値段は今も安いね。社長・藤田田(ふじた・でん)のことを仲間内では「ふじ・でんた」と呼んだりしていた。そのせいか、株は回ってこない。●中村作品のタイトルは「QSC+mV」という。Q(クオリティー)S(サービス)C(クレンリネス=清潔)は、バイトにも徹底教育されたマックの経営理念だ。Vはバリュー。バリューセット500円と関係あるかどうかは知らないが、それに美術係数mをかけ、全部足すと、やがて上場されるマクドナルドの株価が予測できる、わけではありません。●バリューというなら、人類にとっては中村作品の方がマクドナルド株より価値は高い。と思いたい。が、どっちかくれるというのなら、やっぱり株かな。


2001.7.9 -- 生活革命 --

●ADSLなんかに繋がってしまったので、蛇口をひねるとインターネットが出てくる、という感じだ。これでノートブックのワイヤレス式ならいっそう急進的。●将来は、胸ポケットに掛けるか机に貼るくらいの端末に進化し、なにか喋ればすぐ日誌やメールに反映されたりして、「へえ昔は面倒くさいことしてたんですね」と驚かれる日も来るだろうか。あるいは、脳神経にチップを埋め込んで、入出力に機械も身体も不要。脳とインターネットが直結・感応し、人類の思考と記憶のすべてがリンクされる。


2001.7.7 -- 月並みに生きろ --

●DSLユーザーは30万人に増えたらしい。小泉メルマガの登録は200万人というし。となるとユニクロでポロシャツ買った人は1750万人くらい(推測)?。すべてに該当する奴。●では、ことし七夕の短冊に書かれた最も月並みな願いは何だったでしょう。

LETSのようなもの。掲示板に書く=+1、掲示板に書かれる=-1。リンクする=+10、リンクされる=-10。実はもう勝手に流通している。しかし、どっちが貯金で、どっちが借金か。逆でもよさそうなところが、LETSたるゆえん。


2001.7.4 -- 正義的 --

沖縄の兵隊がまたもや強姦(の疑い)。にもかかわらず、身柄引き渡しが先延ばし。図らずも、沖縄の米軍という存在のいびつさが誰の目にも明白となった。そもそも、戦争(たいてい殺人・強姦・略奪を内包している)を目的とした集団というもの自体が、私たちの平時の生活や社会からみれば、実にいびつ極まりないのだろう。●しかし、もう一つ思いがけず明らかになったのは、起訴前の容疑者に対して日本の警察はどんな仕打ちをするかわかったもんじゃないぞ、というおぞましい傾向だ。しかも、この傾向は米兵よりむしろ一般国民に対して著しいかもしれない。●兵隊も警察もこれを機にしっかり改悛せよ。そうして、この事件を、今後の兵隊犯罪・警察犯罪の軽減に繋げよ。そうなれば「不幸中の幸い」・・・いやこれは失言だ。「幸い」という言い方が人の心を傷つけるだけでなく、この事件は特定の誰かの無作為と特定の誰かの作為による堂々たる「犯罪」なのであって、「不幸」などという言い方で諦めるべき性質のものではない。


2001.7.3 -- いま同じように思案している人は全国でどのくらい? --

●ともかく激安のYahoo! BB(ADSL)がいよいよ正式受付を始めた。私のところにも案内が来たので、とりあえず申し込んだ。だが実は、そう安くないNTTのフレッツADSLが6日に開通してしまうのだ。モデムはまだ届いていないけど。●どうにももどかしい。Yahooはいつ開通なのか。15日くらいにスタートできるなら、今からでもNTTをキャンセルしてしまうのだが。ネット上で情報を探すと、Yahoo! BBは実際いつからどの地域で繋がるのか、本当にちゃんと繋がるのか、といった疑問が噴出しているが、その答えはどこにもない。いったんフレッツが開通してしまうと、Yahooに乗り換える際には、どちらのADSLも使えないX日間が生じるとの観測だけはある。よけい迷う。●ともかくきょうは、パソコンを複数つなぐためのルータを買ってきた。新宿ヨドバシの界隈を歩くと、不景気なんて感じは全然しない。●このところ天候がまたやけに景気がいい。平沼経産相に鈴木宗男もそろって景気よさそうだし、青島幸男と野坂昭如もなんだかちゃっかり景気がいい。●でもNAMは景気悪そうだった。同情するなら金おくれ!LETS(Local Exchange Trading Scheme)じゃなくて。いや、景気なんていう偏差値経済教育から抜け出さなくては、資本・ネーション・ステートの三位一体に対抗できようはずもない。●そういえば、ピチカート・ファイブが「不景気」を歌ってから、もう久しい。


これ以前

total recall   
96.1.10~    96.4.18~    96.9.4~   
97.6.6~    97.10.1~   
98.1~    98.4~    98.7~    98.10~   
99.1~    99.4~    99.7~    99.10~   
00.1~    00.4~    00.7~    00.10~   
01.1~    01.4~