主体的意義 二人称 三上寛 吉野家
本の紹介
『さすが!日本語』
    渡辺実 著
    ちくま新書


この本が注目するのは、
「いっそ」「どうせ」「せめて」「よほど」「けっこう」などなど、
言ってみれば、珍しくもない16の副詞(的な言葉)だ。
それぞれが各章のタイトルになっていて、それ以外に題材はない。
ところが、日本語の「絶妙な綾」を知るのに、
これ以上ズバリの話はないのだった。

たとえば最初の文例。
「せっかくパリまで来たのに、ルーヴルを見ずに帰るなんて残念だ」。
この一文などは、
フランス語に訳せと言われたら困難を窮めるのだという。
そして、
「せっかく」の一語に、
どれほど複雑な思いが込められているかが、明らかにされていく。
こうした作業の繰り返しによって、
<その言葉が語っている「対象・事実」よりも、
 その言葉を語っている「自分の気持ち」の方にこそカナメがある>、
という日本語最大の特徴が、ぐいぐい際立ってくる。実に鮮やかだ。
(ちなみに保守党は与党の扇のカナメです)

さらには、言葉を分析する手法というものも、
この本で、ある程度教わることができる。
たとえば「いっそ死んでしまったら・・・」という文なら、
「いっそ死んでしまうので・・・」とか「いっそ死んでしまったが・・・」とか、
つなぎ方をいろいろ変えて、
おかしくなるかどうかを試してみることによって、
「いっそ」という言葉に、無意識に託していた気持ち、
つまり「いっそ」の正体が、あぶりだされるのだ。

こうなると、
特に「けっこう」や「つい」なんて、
自分でもそれこそ、つい、けっこう、使っているから、
聞き捨てならない。
「けっこう」でも「せっかく」でも、
自分の日記とかで見つけて調べてみれば、きっと
こっそり込めたはずの内心が、あらわになったりするのだろう。
(それにしても
 こうした「けっこう」だの「せっかく」だのといった微妙な言い回しと、
 とりわけ縁遠いのは、批評空間系の人々、とりわけ柄谷行人だろうか)

おまけに、終盤になって著者は、
日本語の各品詞は、どれも
「わがこと」と「よそごと」の二つに分類できます!
なんていう独自の見解を示したりして、またまた驚いてしまった。

この手の新書は、
『日本語練習帳』をはじめ、たくさん出ていると思うが、
私としては、
この一冊でこそ、本当に日本語の秘密と機微の胸元にまで迫れたと感じた。
詳しくはぜひ手にとって読んでみてください。
新書は安いし近刊だと入手も容易なので、紹介のしがいがありますね。

ところで、
上に、「対象・事実」より「自分の気持ち」がカナメ、と書いたが、
著者はそのことを、言葉の「対象的意義」「主体的意義」と呼ぶ。
それが如実に現れるのが、日本語の一人称と二人称だと言う。
一人称が、わたし、ぼく、おれ、など数多い
という事実はもちろんだが、それに加えて、
だからこそ逆に使い分けが難しくもなるという、
二人称についての面白い例が挙げられる。
大学の学生たちが教師の家を訪ねたが、留守だった。
そのとき教師の妻が出てきたなら、
かろうじて「奥さん」という二人称で呼びかけることができるが、
もし教師の母親が出てきたりしたら、
「お母様」ではなれなれしいし、
もはや、その人に当てはまる二人称は存在しない。
最も一般的であるべき「あなた」なんて、実はほとんど使い道がない。
・・・・こういう話を、前書きですらすらとしてしまうのだが、
個人的には、
この二人称の難しさ、とりわけ「あなた」の使い辛さということに、
前々から強い興味があったので、
もうこの時点で、この本に引かれてしまった次第だ。

あと、もう一点だけ。
題材となったことばに「なかなか」がある。
で、今はもう誰も知らないだろうが、
フォークシンガー三上寛の曲に、「なかなか」というのがあった。
ギターをつま弾きつつ
「吉野家の牛丼は・・・なかなかうまい」
と唄う、というか呟いて始まるのだ。
それ以外はほとんど忘れてしまったが、
たしか「なかなかの歴史もまた、長いものがある」
とかいった一節があったと記憶する。
そうしたらなんと、
「なかなか」という言葉には、実際とても長い歴史があったのだ。
そのこともこの本に書かれていた。

「なかなか」の隠微・しぶとさは、
吉野家の隠微・しぶとさに匹敵する。
三上寛の隠微・しぶとさにも匹敵すると思う。
ところで、その吉野家の牛丼も、ついに並280円だ。
AERAによれば、
値下げ競争史において、一時代を画する出来事だという。
しかし私はもう、吉野家など喜んで入る年ごろではない。
牛丼の歴史もまた、なかなか長い。


Junky
2001.7.30

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