丹生谷貴志 家事と城砦 雲の肯定


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批評コンビニ幕の内(2)
丹生谷貴志「雲の肯定」


丹生谷貴志。現在ブレイク中か。私がその文章にはじめて触れたのは『スタジオ・ボイス』のレビューだったと思う。レトリカルでペダンチック。図抜けていた。ただし、もし文末のクレジットがたとえば「山田太郎」とか「田中花子」であったなら、文章のイメージもせいぜい「カッコいい」「キマッってる」くらいで済ませたかもしれない。ところがよりによって「丹生谷貴志」とは。いったい何。そもそも読めない。こっちが感想を抱くにも、つい「蠱惑的で流麗な審美眼の官能性が・・・・」とかなんとか、知りもしない単語を当てはめないと悪いような気になる。このようにして、『スタジオ・ボイス』の不思議なレビューは「丹生谷貴志」の文字列とともに忘れ難い記憶として刻まれていった。

その丹生谷貴志が、雑誌『文藝』で文藝時評を担当した。1998年から2000年までの3年間。『文藝』の文藝時評といえば、蓮實重彦、筒井康隆など(高橋源一郎は担当していませんでした訂正お詫び)ひとクセある希代のスタープレーヤーが器用されてきた。でも丹生谷貴志なら引けは取るまい。3年間のうち99年と00年の2年分を収めた単行本『家事と城砦』を、期待を込めて開く。

「あとがきと補遺」に、この時評に携わったトータルな姿勢がわりと平易に述べられているので、お勧めだ。しかも、そこで述懐されている<ここ三年で基本的に感じたことは、「文学」と「小説」が「男たち」による巻き返しの試みの強化となっていたということで、そのことは多少私をうんざりさせてきました>といった心境は、本文を読んでいくときの適切なチャートたりうるようだ。ただしここでは、それとあまり関係してこない冒頭の章「雲の肯定」について述べる。

雲とは何だろう。無数の水滴がランダムに寄り集まっただけから「バラバラ」が本質なのか。全体の形が秩序を保っているから「まとまり」が本質なのか。丹生谷貴志は、雲は「バラバラ」であると同時に「まとまり」であるという。「バラバラ」と「まとまり」に回路が通じ、互いに影響しあうことで互いが生成されていくとみる。「バラバラ」と「まとまり」を、「対立」ではなく、同じ場所にある同じものの「差異」としてとらえる。そのことを「雲の肯定」と呼ぶ。

こんな話が、目的も明かさずずんずん語られる。まずはドゥルーズの哲学こそが「雲の肯定」であったこと。しかしそのせいで、雲の「まとまり」を否定するアナーキストからも、雲の「バラバラ」を否定する保守派からも、ともにドゥルーズは非難されたこと。さらに、「雲の肯定」というドゥルーズの哲学でいけば、日本は西洋と違う理想社会にも見えかねないこと。これについては、天皇性という特異な機構が「バラバラ」と「まとまり」との間に回路を通じさせてきた可能性があるからだといい、しかしそう思わせたうえで、実際の天皇性や仏教は、「バラバラ」と「まとまり」の回路を、通じさせるのではなく、むしろ遮断する機能しか果たしてこなかったという見解に落とし込んでいく。

そうあっさり文芸批評が始まらないところが技の見せ所、なのかどうかは知らないが、ともあれ丹生谷貴志は、「雲の肯定」といういわば座標軸を設定するために、原稿の前半を費やすのだ。しかし、その甲斐は十分にあった。ようやく持ちだされた作品は、阿部和重の「鏖」(みなごろし)、そして中原昌也の『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』。非常に気になるがどうにも曲者であった二人の小説が、「雲の肯定」という座標軸を用いることで、思いがけず納得のいく配置をされる。

その展開で興味深いのは、「バラバラ」と「まとまり」の回路が通じるとは「残酷な透明さ」や「無垢な透明さ」がもたらされることであり、しかしそれは「暴力性」とは関係がない、という部分だ。そうして、阿部和重や中原昌也の小説を「残酷さ」ととらえる一方で、単なる「暴力性」にすぎない例としては、司馬遼太郎『竜馬が行く』や花村萬月『鬱』を挙げる。ひらったく言うと、花村萬月の小説は、いかに暴力的であろうとどうってことはない。「バラバラ」は「バラバラ」のままで、遮断された「まとまり」への回路をこじ開ける力を持っていない。しかし、阿部和重や中原昌也の小説では、「バラバラ」から「まとまり」へ、遮断されていた回路がふとしたきっかけで開いてしまい、じわじわとであるかもしれないが、なにかとんでもないことが起こってしまいそうなのだ。

<・・・・・中原氏の見事な「無垢のマシーン」を手にしながら、或いはふと、阿部和重氏の作品の末尾の「男」が打ちだす「復讐のコマンド」が、まさにアフェクションの予想外のアフェクトと結果の連鎖の中で、突如世界を隅々まで「明るくしてしまう」という効果を呼び起こすことも可能だということに気づくのだ。そしてこのことは、復讐の破壊よりも遥かに恐るべき「深刻な危機」として、抑えがたい喜びの中で響き渡ることになろうだろう。復讐の喜び、そうではなくて、喜びによる復讐が始まる・・・・・・。>

詳しくは、本を読んでのお楽しみ。いやもしかしたら、相変わらず私が目を眩まされただけかもしれないので、それも読んで判定のこと。

いずれにしても。もしも小説を読むことが坂を登ることから始まるとすれば、読者はしだいに息を切らしながら「ここはどこだろう」「この先どうなるんだろう」と迷いつつ登っていくわけで、ある程度ページを我慢した時点で、いや少なくとも最後のぺージまでには、なんらか眺望が開けたり、下り坂に転じて滑り降りていく快感が伴ってほしい。そうでなければ小説を読むことが苦痛だけに終ってしまう。文芸批評は、すさまじく理屈っぽいくせに、時に小説になり代わって、見えなかった眺望を思いがけない地点から見せてくれたり、あるいはジェットコースターのごとく一気に滑降する快感を与えてくれる。「雲の肯定」の章は、ともあれそうした役割を結果的には果たしている。

そう考えると、勢いトリッキーに見えた丹生谷貴志も、さっき述べたとおり、論者の独自の読み方である「座標軸」をまず示し、そこに作品(小説であれ評論であれ哲学であれ)という「各点」を配置するという、もしかしたら批評の定型かもしれない形を、この章を読んだ限りでは、意外に踏襲しているように見える。 ただしここでは、これも既に述べたとおり「座標軸」の設定に相当な手間をかけ、しかもその「座標軸」が突飛であり暫定的でもあるようなところに、むしろ注目すべきなのだろう。なぜなら、それによって「批評の座標軸はけっして固定的でも自明でもない」ということに、ようやく気付かされるからだ。

それでもなお、さらなる疑問。「座標軸を設定し各点を配置する」という批評によっては、どうしても見逃されてしまうものはないだろうか。これはもう少しあとで考えてみたい


Junky
2001.9.2

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