批評コンビニ幕の内(5)
高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』
このシリーズの丹生谷貴志の最後に、「座標軸の設定と各点の配置」という批評のやり方が見逃してしまうものはないのか、と問いかけた。それについて。たとえば、批評という座標軸の上に点として配置された作品も、本来その内部においては(つまりその作品を読んでいるときには)、点としてではなくそれ自体が座標軸として機能・存在していたという事実が、見逃されてしまう。そんなふうに疑ってみてはどうだろう。
----ということは、座標軸であったはずの丹生谷貴志『家事と城砦』もまた、私が書いたあの文章(座標軸)においては、点にすぎなくなっていた、ということにもなるのだが----。
(ここで脱線するが、ここから思い浮かぶのは量子力学だ。ハイゼンベルグは、時空上の質点はたんなる質点ではなく行列だ、ととらえたが、それに似ているではないか。これは素敵な思い付きだ! しかし、こんなことを書いても、量子力学を知らない人には「なにまた難しいこと言って」と飽きられるだけだし、だからといって、量子力学を知る人が紛れ込んでいたら、「知の欺瞞ってわかる?ていうか痴の欺瞞?」と言われるのが落ちか。徒労だったな。ちよっと悲しい。では元に戻る)
語るものは座標軸であり、語られるものは点である。この関係は固定的で覆せないのか。座標軸の上に点を置くのではなく、座標軸の上でさらに座標軸を展開させるような、そんな作業はありえないのか。
イメージをもっと膨らませるために、「座標軸」を「計算機」に、「点」を「データ」に置き換えてみよう。すなわち。批評家が独自にこしらえた計算機に、各作品というデータを入力し、そうしてその計算機が行った計算式と計算結果を記述していったものが批評である。そう仮定するのだ。しかし、データとして扱われた作品も、本来は計算機として機能していたのである。ただ、計算機に入力できるのはデータだけなので、作品の計算機としての有り様は、そのとき無化されてしまう。
・・・・このあたりから、私の文章がまさしく「誤魔化」されてきたと感じるが、毒をくらわば皿まで・・・・
新しい戦略
しからば、作品のデータとしての有り様ではなく、作品の同じく計算機としての在り様を、無理やりにでも、そのまま入力すること。そのためには、批評家は少なくとも、自らの計算機を分解し中身を改めてみる必要があろう。自らの計算がどんなアルゴリズムで働いているかを見極めるのである。それは、各作品を入力計算するのと同時に、しかも各作品を入力計算するたびに、見極める必要がある。
さらに新しい戦略
それができたら、こんどは、批評家自らの計算機そのものを、逆に、作品という計算機に入力して計算してみる、なんてのはどうだろう。こうした戦略によって初めて示されるのは、作品というデータを自在に展開させた華麗なる「計算式と計算結果」ではない。批評も作品もどちらもが知らず知らず立脚していた「計算機の危うい内部」である。
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高橋源一郎の『文学がこんなにわかっていいかしら』が特異なのは、いってみれば、そうした事情なのではないか。蓮實重彦が取ってきた大きな戦略も、おおざっぱにいえば、そういうことなのではないか。
高橋源一郎や蓮實重彦が書いていく批評という座標軸や計算機において、取り上げられた作品は、点やデータとしてではなく、批評と同じ資格の座標軸や計算機として作動させられる。・・・こういう言い方で、私がどういうことを伝えようとしているのかは、『文学がこんなにわかっていいかしら』を実際に読んでもらうのがてっとり早い。どの章でもいい。
とりわけ、蓮實重彦『凡庸なる芸術家の肖像』を取り上げた「蓮實先生の大著を論ず」は、ズバリこうした戦略がテーマであり、なおかつ、その戦略がその文章の中で実践されてしまうという、とんでもない文章だ。
なんだかややこしい話だが、私がいまここで「誤魔化」していることのエッセンスは、「蓮實先生の大著を論ず」で、高橋源一郎が引用した次の一文に凝縮されている。それをここでまた引用しておく。
<「戦略的に倒錯すること」それは、「現代的な言説の構造そのものを周到になぞることになるだろう」だが、「物語の解読は、その説話論的な構造を明らかにするだけでは終わりはしない。物語が、意図的な錯誤が誘発する楽天的で抽象的な幻惑作用にほかならぬことを実践的に示しえぬかぎり、その解読は実施されえないのだ」>
(蓮實重彦『物語批判序説』より)一方、高橋源一郎が、こうした戦略の対極にあるものとして取り上げるのが、平野謙の『文藝時評』というわけだ。
<平野謙の『文藝時評』を読んで感じる印象の第一は、ここには恐らく誤りというものの存在する余地がないだろうということであり、第二は、文学に関するあらゆる問題はただ蒸し返すために存在しているかの如く見えるということであり、第三は、ここに挙げられている夥しい数の作品や作家の名前が墓碑銘の羅列のようにしか見えないことであり、第四は、この国では批評とは要するに「文芸時評」なのだということであり、・・>
<平野謙の『文藝時評』を読んで感じるのは、「芸」としての小説が次々と生まれ消費されていく様子とその全てに対して誠実に判定していった「芸」としての批評があったということなのだ。>
(『文学がこんなに・・・』の「批評家失格」より)平野謙の『文藝時評』こそは、文学という微動だにしない座標軸に、作品という点を延々配置していくやり方である。言い換えれば、批評という完全無欠の計算機に、作品というデータをどんどん打ち込んでいった、計算ドリルの問題と解答なのである。