著作=Junky@迷宮旅行社(http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html)
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迷宮旅行社・目次

これ以後


2000.6.30 -- 阿呆読書 --

●枕元で読み始めた内田百ケン「鹿児島阿房列車」は、東京駅を六月晦日に出発している。なんたる偶然。阿房列車とは、百ケンが、なんの用もないのに列車に乗って出かけることを、あえて行った道中記シリーズ。移動することそれ自体が目的という旅の究極、原点は百ケンにあり?。さて宵の九時に動き出した博多行き急行筑紫号の一等コンパートメントで良いかげんの酔いを得て眠りに落ちた百ケンは、はや岡山あたりで顔を洗っている。私も日付だけは1日に変わっているが、こちらは夜更かし続きのクセでまだ寝付けもしない。これだけ書き留めたから、もう本当に電気を消そう。あしたは土曜だというのに早朝から仕事に出なければならない。


2000.6.27 -- 仕事噴火予知連絡会 --

●火曜日から週が始まったのですぐ水曜日の折り返し。それでも読む内田百ケン「阿房列車」シリーズ。


2000.6.26 -- 迷子にならなきゃ小説じゃないとも言える --

後藤明生という作家はやっぱりヘンテコすぎる。「挟み撃ち」「行方不明」に続いて「吉野太夫」という作品を読んで、またもやそう思った。「小説についての小説」「小説をめぐる小説」と位置づければ、「ポストモダン」とかいう語がつきものだが、そういう批評くささ学術かぶれの印象とも違う。気がつくと泥濘などまったく予期せぬままに足を取られていて、そのままズブズブはまりこんだ感じ。推理小説は事件が示され犯人を当てながら読むが、この「吉野太夫」は犯人を当てる以前にいわば事件も当てながら読まねばならないといった風の迷子読み。●そんなことをやっていたら、本来スピードを上げるべき週にさしかかった仕事を、それでも完璧に阻んでしまった畏るべき小説の力よ。火曜日から頑張ろう。


2000.6.25 -- テレビ三昧 --

選挙速報やっぱりずっと見てしまう。その前には映画「スケアクロウ」も見てしまい、クライマックスに泣けてそのままエンディングで泣き笑いになること必定と知っていて、まったくその通りになってしまう。その前にはNHKシルクロード紀行で懐かしのトルコはイスタンブールとカッパドキア。


2000.6.23 -- どういう一週間だ --

●今週は髭を剃ったり靴下をはいたりする日が多かったが、ビールを飲んだ日もけっこう多かった。


2000.6.19 -- どうしてもこれはリンク --

●その1=民主党・菅直人氏より2ちゃんねるへの通知 。その2=『終る世界』とは何だったのか?

●きょう誕生日だった人はおめでとう。


2000.6.18 -- 清き一食 --

●きのう所用で出向いた相模原市は人口密集地。帰りの宵闇の駅前で王将に入ろうかガストに入ろうか思案する私に、選挙チラシ。くれたのは候補者本人だったようだ。書いてあったURLをのぞいてわかった。う〜む偉いねえと冷やかしでなく思う。代議士の選択は夕飯の選択と同様に大事である。しかし私にはもっと重大な選択があるのだ。それをさておいて代議士など誰でもよかろう。じゃその重大な選択とはいったい何だ。いや実はそれがその都度はっきりしない。それに比べて、こうして高潔なこころざしにて立ち上がる人は、とりあえずかなり偉い。投票に行く人も、それなりに偉い。


2000.6.17 -- 敬意 --

●さいきん読んで印象深かった本といえば、筒井康隆さまの「邪眼鳥」。解説で東浩紀さまが深読みしておられます。中上健次さま(すでにご逝去)が芥川賞をお取りになった「岬」。骨と肉が実在する小説とでも申しましょうか。小谷野敦さまが自らのお若いころを告白なさっている「もてない男」。貧乏旅行ライターであらせられる下川裕治さまが10年ほど前にリポートあそばされた「12万円で世界を歩く」。志賀直哉さまの短編集。志賀さまは小説の神様でいらっしゃいますので、お名前も一発変換にございます。しかしこれらの本にもまして、既に示させていただいたミランクンデラさまの「存在の耐えられない軽さ」さま、後藤明生さま(昨年崩御)の「行方不明」さまは、いっそうおもしろおかしゅうございました。


2000.6.16 -- 皇太后さまさま --

●新聞(インターネット)の見出しはたいてい「皇太后さま、ご逝去」。産経新聞は「皇太后陛下崩御」。今夜見逃したニュース23はどうだったろう。前夜は、テレビの報道に携わる人たちの中にあって本当の良心というものをちっとは感じさせてくれるごくごく数少ない一人である佐古氏が、「皇太后さまが呼吸困難...」とたぶん仕方なくだろうが読んでいた。こういう場合は筑紫哲也氏が他人任せにせず自ら「皇太后さま」と顔をさらし恥をしのんで読むべきだろうと私はつくづく思うが、どうだろう。●普段ラフな格好のある報道会社スタッフが皇室を取材するというんでなぜかネクタイにスーツを命じられて出かけていく光景を目撃したことがある。目撃するだけですんだのがラッキーだったとも言える。あなたならどうする。私ならどうする。●このあいだ噂の真相編集部が襲われたのは、一行記事で「雅子」と呼び捨てにしたのが理由らしいが、それよりも最近になって知って驚いたのは、昨年末の皇太子妃懐妊兆候の報があった時、なんと沖縄タイムズだけは紙面に「雅子さん」と書いていたという事実だ。ただ「雅子さん」は一日だけで、あとは「雅子さま」に戻ったようだが。じゃあ明日の沖縄タイムズはどうかとページを覗いてみたが、まだ更新されていなかった。で、天皇制反対の運動を長く続けている天野恵一という人が、この沖縄タイムズの決断を評価した上で、それでも「雅子さま」と呼ぶのをやめて代わりに「雅子さん」と呼ぶのが定着したとしたら、それは現状以上に問題だといった、とても興味深い指摘をしていた。●天野氏は、私はなにがあろうとマサコと呼び捨てにしかしない、と言う。その理由はとても深いもので、それまで公の場では「雅子さん」と呼ばない理由もないんじゃないかと思っていた私の論理が揺れている。


2000.6.15 -- もう週末だ --

●会社時代、難しそうな仕事にはなかなか本腰が入らず、ついどうでもよい経費の精算とか引き出しの整理を始めてしまったものだが、これが家で仕事の場合、ついタンスの整理とか。久々のお天気で洗濯までしてしまった。


2000.6.14 -- 雨ときどき仕事 --

●傘をさして図書館に出かけた。業務用2冊、暇つぶし用8冊を借りて館を出ると、雨も上がっている。じゃあ読みながら帰ろう。しかし手が伸びるのはどうしても暇本だ。家に戻ると、選挙のお知らせハガキが届いていた。ついでに住民税の通知もある。まとめて放棄していいような気もする国民の権利と義務。


2000.6.12 -- 将来に対する漠然とした呑気 --

●そういえば会社勤めをやめて、そろそろ1年。総括的にいえばフワフワというかフラフラというかワラワラというかそういう感じのままけっこう長持ちするもんだという実感。これじゃ1年後の自分だってほとんど不透明不確定。それはある意味楽しみなことでもある。


2000.6.11 -- 廃墟の安楽 --

●廃業したホテルや病院といった廃墟の写真と遺物を並べた小さな展覧会を渋谷パルコ地下で見たのは、もう一週間も前のことです。ともかく私は昔からこういった廃墟写真にはやけに強く惹きつけられてきたのです。ポストカードとして買ってきた一枚は、ソファーなどの残骸だけが残るがらんとしたホテルのロビーです。もう誰を迎えることもしなくていい、きちんとかたずけたりもしなくていい場所なわけで、おそらくそういった、なにかをがんばってやる必要が永遠に失われたという妙な安楽感があるのでしょうか。かつて、工事が始まったばかりの建築現場を見るのが好きだという美術作家に会ったことがありますが、それに比べると、あまり前向きとは言い難い傾向ですね。しかしながら、このポストカードの廃墟ホテルは、昨年旅行した中央アジアのある地方都市で知人が泊まっていた国営ホテルを訪れた時の、廃墟ではもちろんないはずなのにまるで手入れを放棄したようで、人影もほとんど見えず静まりかえった寂しさを、ふと思い出させて懐かしい。


2000.6.8 -- ハーイ、ジャック! --

ひきこもりが負い目を感じねばならないとしたら、それはつまり、でしゃばりがのさばる世の中だからでしょう。そんなものと律儀に付き合う義理はありません。家にいて好きなように時をつぶして暮れていく日々の、えもいわれぬ甘美さ。そのために生きている。いやそれが生きていることである。

●インターネットにおける言葉やコミュニティに、合いかわらず筑紫哲也や村上龍は「バーチャル」という鈍感な枠をはめるけれど、私の実感とすれば、きょうの日常現実社会における仕事打ち合わせとか、そこで与えられた役割なんていうことにだって、全部ゲームみたいな浮遊感と、同時に執拗な真面目さを共存させている自分が、面白いといえば面白い、危ういといえば危うい。いや、別に危うくない。のんきにいこう。

名指すけれども描写しない。これは先日ある人が日本の皇室報道の本質を見抜いて批判したフレーズ。接近しつつ回避する、とも。これはあらゆるモノゴトに当てはまる。名指すより描写せよ。なにごとによらず。時に愚鈍に饒舌に。私について、他人について、社会について、世界について。まるで小説のごとく。


2000.6.7 -- コメント --

●バスジャック少年が入院していた精神病院のスタッフが記者会見するのをテレビで見た。「現在われわれは少年に全く接触できないので、今のことについては全くわからない」「臨床医は直接みていない患者についてコメントすべきではない」(記憶不鮮明)といった言葉が印象的だった。読んでもいない本についてついコメントしたくなる私。見てもいないゴダール「映画史」についてもコメントしてはいけない。しかしそもそも「映画史」は私が見たからといって何かコメントできる代物なのだろうか。「映画史」第1部は渋谷ユーロスペースで8日まで。さてどうしようか。


2000.6.5 -- 小説を生きる --

●小説を読むというのはそもそも体験なのだ。それを読んでどう理解したかどう感動したかよりも、なによりその小説を1ページずつ読んで進めていくという時間を過ごした、そのことが本質であるような気が最近している。それは、旅行のような、あるいは人付き合いのようなものか。 ●ミランクンデラ「存在の耐えられない軽さ」はときどき気が散るので、ちょっと一休みして、きょうは後藤明生の「行方不明」という福武文庫の短編集を読んだ。ミランクンデラの小説が斬新なレストランで徐々に出てくる創作料理を丁寧に吟味して食べ進めるような感じだとすれば、後藤明生の小説は、大皿に盛られた得体のしれない山芋あるいは麺状の料理を、どう味わうべきかわからぬままずるずるずるずる飲み込んでいってなかなか席を立てないような、そんな感じ。


2000.6.3 -- やっと暇ができた --

「バラの花を見るとバラの花が見えること」と「バラという言葉がバラという意味であること」の類似について。


2000.6.1 -- わざわざ否定はしない --

●深夜の仕事帰りに雨が振り、自転車帰宅を諦めタクシーを拾う。ベテラン運転手。タクシー内の会話はいつも同じよう。「勤務時間ってどうなってるんですか」「朝8時から翌朝5時ごろまで。これが一日おきです」「大変ですね」「もう34年も乗ってますから。お客さんが生まれる前からかな、わっはっは」「え?いや・・・わっはっは」●ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」


2000.5.27 -- 外出しても雨になりそうだったので --

高橋源一郎に関してこれまで書いたものをまとめてみました。


2000.5.26 -- 因果な自転車 --

●金曜週末帰り道に月曜朝のことを思い浮かべ、気が重い。そんな人生はいやですね。●その帰り道、なんと自転車がない!。かの警察官の謀略から必死で守ったボロ自転車がない。いくら探してもない。がっくり。とぼとぼ家にたどりつく。するとなんと、家の前にそのボロ自転車が置いてあるではないか。判明した事実。きょうは家にもう一台あるニュウ自転車を乗っていったのだった。鞄からたしかにそのニュウ自転車のカギが出てきた。

だめ連のメンバーの語り書き的な著書「だめ」をやっと読む。気が楽になる本だ。「もう一生服は買わなくてもすむかもしれない」とかいうあたりに、ポンと膝を打った。彼らは、現代的な社会思想の原理に内緒で支えられている気がするが、そういうものの実質が、こういう言葉に顔を出した。というほどのこと、であると思う。


2000.5.19 -- --

●なにか書いて送信するだけの元気、寝てしまう以外の知恵が出ないまま週末を迎えました。それでもおとといくらいか、テレビで見た林家三平のとても新鮮だったこと。落語というのか講談というのかそういう古典的な話をとにかくしているのですが、その話の本筋がいくらも進まないうちに、必ずや逸脱、言い訳、そして客の反応待ち、さらにそれに対する反応、それらすべてに対する論評、などなど。理由はともあれ真顔の一本調子では絶対持ちこたえられないその事態が、私にはとてもとても正当なことに思えたのでした。理想的な小説というものについていくら説明されてもピンとこなかった私ですが、三平のこの語りは、少なくとも語りの本当に望ましき形ではあるのではないか、と思ったり。●あと、きょうテレビをザッピングしていたら妙に目に留まってしまったイタリア映画「そして船は行く」(だったか)、たまに巡ってくる数カットだけが絶対極上映像。たまには映画行かないと。それともう一つだけ、やっぱり四方田犬彦「旅の王様」は味わい深い。きょうこそちゃんとそれを説明しようと思ったが、また力尽く。


2000.5.15 -- 雨の日と月曜日は --

●熟慮の末に生活の糧と位置づけたパチンコの、なんでも半年間にわたる攻略情報が25万円で入手できるとかで、すでにその情報受信端末としての携帯電話をわざわざ買い求めたうえ、これから新宿にその25万円を払い込みに行くという人にばったり。●曇天の月曜、もうストレス仕事になどひとつも立ち向かいたくない、あわよくば怠けて忘れたい、そういった実践傾向を生来の勤勉さが抑えようとして逆にケバ立ってくる心が、なでさすられる一時。●そして聞く、北西アフリカ縦断の話。そして読む、四方田犬彦「旅の王様」。


2000.5.13 -- バスチーユ襲撃 --

●一見たわむれ小手先仕事のようなこの人のページは、実は手堅く本気なネット活用実験に富む。のに、結局のところ革命的なわくわく感には達しないのは、つまり20世紀文化言論アンシャンレジウムの身分の高い人ばかり出てくるせいだろうか。それよりもたとえば、この人がロフトプラスワンにこの人なんかを伴って出演したところ、客があふれて入れなかったという話の方に、私などは、もっとこう、バスジャック以上に、不穏なものを感じるね。

●サッカーも哲学する...というか、哲学はサッカーする。

●私のホームページがhttp://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.htmlに変わって半年。http://hot.netizen.or.jp/~junky(旧)からはいよいよ飛べなくなります。...いやもう消えたかも。え〜その場合は、Yahoo「迷宮旅行社」で探してください。...あ、だから今さら言っても遅いのか。●同様にメールアドレスはjunky@speed.co.jpに変わっています。junky@netizen.or.jp(旧)は完全に消えます。


2000.5.12 -- なにかと仕事しない --

●始めてしまえばさほど苦ではないのだが、始めるまでが異様に長い。仕事。本読み。映画館や美術館に出かけるのもけっこう腰が重い。逆に始めるのが簡単なのは、テレビそしてネットサーフィンあるいはコンビニ。しかしこれらはやめるのが相当難しい。日記を書くのはどちらに近いか。


2000.5.10 -- 推薦立ち読み情報ふたたび --

●学校の黒板にある子供が平仮名の「み」を裏返した「*」(ワープロでは出せない)を書いて「新しい字を作りました」と言う。先生らしき人が「どう読むのだ」と尋ねると、子供は「*と読みます」と答える。こんなのが吉田戦車「伝染るんです」にありました。登場キャラクターは、かの全身包帯をした秀才少年です。覚えていますか。この作品がウィトゲンシュタイン前期の書「論理哲学論考」を思わせると彼は言うのです。「論理哲学論考」は「語りえないことについては沈黙しなくてはならない」という最後の謎めいた文言で有名です。まあなんというか、「*」は「*」以外のなにものでもないのであって、「*」を示すことはできるが、「*」について語ることなどできない、とかいうようなことでしょうかね。●もう一つ。「きょうはひとつ、とりかえしのつかないことをしてみるか」と呟く頑固そうな和服親父が、自分のオーディオ機器の上部を開いて、そこにねとねと糸を引く納豆をぐちゃあっと落とし「ああ取り返しのつかないことをしてしまった」と頭を抱えるという作品があります。似たバージョンで「そういえば最近、じだんだを踏んでいないな」と呟いて、実際にじだんだを踏んでみるというのもありました。で、彼は、こっちはもうまさしくウィトゲンシュタイン後期の「哲学探究」だと断言するのであります。●彼は、吉田戦車にともかく痛く感動しつつも、このマンガの哲学性を感じ取れる哲学者は、私の知る限り日本には一人もいない。でもそれも仕方ない、ウィトゲンシュタインくらいじゃないとわからないようなことなのだから、てなことをさらに述べていきます。●私はウィトゲンシュタインの本などをうっかり開くと、その奇妙さに立ち止まらずにはいられない(書店でということではなく)。いくら頑張って読み返しても、ああこれはいったいどういうことなんだ、こういうことなのか、ああいうことなのか、自問自答の言葉がどこまでも渦を巻いて永遠に抜け出せない。吉田戦車にもそれに負けない奇妙さがある。しかし我々はあのころビッグコミックスピリッツで毎週毎週「伝染るんです」の奇妙さに触れていたわけだが、べつに考え込んで哲学を始めたりはしなかった。ああこれはいったいどういうことなんだ、という思考溶解はたしかに生じたように思うが、それはすぐさま「こりゃ面白いや」と笑えたことで、すっかりカンカクのフに落ちてしまっていたわけである。では、ウィトゲンシュタインと同じであるかもしれない吉田戦車の奇妙さは、その時どこへ飛んでいったのだろう。あるいは何に変化したのだろう。少なくとも哲学の言葉に着地したわけではない。哲学の言葉に着地させなくてはいられないような煩わしさとは無縁だった。●永井均「マンガは哲学する」。黄色い薄目の本です。


2000.5.8 -- 勝負! --

加藤典洋「言語表現法講義」を読んで思った。文章を書くとは、なにかを表すというよりも、そのたくらみをすりぬけて、はからずもなにかが露わになってしまう見せ物なのだ。しかし、そのなにかは、生産限りなく流通休みなき文章メディアあぶくの中にあって、ごく希にだれかをグウッと引きつける。小説であれWEB日記であれ、なお文章を晒すとは、つまりそういう勝ち目の少ない、しかし勝ち目の全くないわけではない闘いなのだ。技巧や体裁ではない、ともかく文章を流し始めてみたところがそれをあっちの方ではなくどうしてもこっちの方に流し進めずにはいられなかった論理、というよりやっぱり「倫理」という言葉が似つかわしい、なにか。●加藤氏は明治学院大学でこの名の講義を実際におこなっている。そのエッセンスが模擬体験できるこの本を96年に出した。私には10年に一冊という本になった。この本を知らなかった方、せめて第六回「言葉はどこで考えることと出会うか」あたりの立ち読みを勧めます。そうすると結局買ってしまうかもしれません。私のように。


2000.5.7 -- 犬も歩けば --

●運動不足の解消には散歩。本日は下北沢まで。古本屋100円均一のカゴに、なんと高橋源一郎の絶版「ジョン・レノン対火星人」が。しかも初版(あるいは初版しか存在しないとか?)帯付き。同じカゴに「虹の彼方に」「ジェイムズ・ジョイスを読んだ猫」(ともに高橋源一郎)まで見つかって、ラッキーな外出。


2000.5.6 -- 蕩尽 --

●きょうは図書館が開いていたのでいくらか借りてきた。蓮実重彦「饗宴」2冊、深沢七郎「余録の人生」、赤瀬川原平「悩ましき買い物」、村上春樹「レキシントンの幽霊」、浅田彰「映画の世紀末」、川崎徹「ヌケガラ」などなど。たぶんたいして読まない。赤瀬川本は「物を買う楽しさは、じつはお金を払うことにあるんじゃないか」などと始まるが、本の楽しみもさんざん選んで借り集め家に持ち帰ってどんとテーブルに置いたあたりで燃え尽きているんじゃなかろうか。


2000.5.5 -- 黄金週間いかがです? --

「A」というタイトルのドキュメンタリーを知っているだろうか。地下鉄サリン事件で主だった幹部が逮捕された後にオウム真理教(現アレフ)の広報担当を引き受けた荒木浩氏の行動と心情を追った記録映像だ。それをBOX東中野に見に行った。オウム信者が日本社会から追いつめられ居場所をなくしていく実感が伝わってくる。その時荒木氏の側からみてまさに理不尽で暴力的な存在として立ちはだかる存在が、なにを隠そう警察でありかつワイドショー的マスコミであったことがありありとわかる。あるオウム信者が警察官から通行を妨害されついには路上に押し倒され、しかもあろうことか公務執行妨害で逮捕されてしまうという「白昼組織謀略」の現場もカメラはおさめている。べつにそういうことを期待して行ったわけではないのだが、私としては、過日の警察官のやり口のひどさとそれに対する怒りがいやでもよみがえる場面であった。●この作品は1998年ヤマガタ国際ドキュメンタリー映画祭に出品され、けっこう有名だと思う。それにしても黄金週間の真ん中にレジャー的とは言いがたいこの映画で100枚の整理券がなくなってしまう程度には、オウムの行く末への我々の関心は深いのか。上映後に森達也監督と宮崎学氏のトークがあったせいもあるかもしれないが。


2000.5.3 -- 一般性に解消されない --

●ヴィムヴェンダースの長編第一作とも言われる「ゴールキーパーの不安」。出てくる人物と起こる出来事が「ああ、ああいう人か」「ああ、そういうことね」という一般性に絶対解消されない。だから最後まで落ち着かない。おさまりが悪い。しかし「ああ、これはまさにヴェンダースの映画だ」という言い方だけはあまりにぴったりくる。まったく同じストーリーをアキカウリスマキが撮ったら全然違うだろう、などと当たり前のことを思ったり。

●「「弱者」とはだれか」という本(PHP新書)を読んだ。小浜逸郎著。先日のニュース23に出演し同和地区に対する施策の錯誤性を指摘していた人。差別はいけない差別はなくせという言動が、差別について丁寧に考えることに逆行してしまう側面をえぐる。差別のことは、歴史や社会構造といった旧来の定理で演繹的に証明した模範解答では腑に落ちないことが多いのだ。この私が今このことをどうして差別っぽく感じるのかという疑問から始めることがもっと重要なのだ。その際、この人のたどっている思考の小道を一緒に行くことは、意義があると思う。

●クラシックの有名曲やジャズの名盤は、図書館のCDでけっこう間にあったりする。このところドボルザークのピアノ三重奏曲「ドゥムキー」をさんざん聴いた。今は「イパネマの娘」(スタン・ゲッツとアントニオ・カルロス・ジョビン)をかけている。


2000.5.2 -- こんなことをホームページに出すのはどこかヘンだとしても、あんな態度が全く問題にされないとしたら、それはもっとはっきりヘンだ --

警察官に泥棒あつかいされたことに対する怒り。


2000.5.1 -- 5月です。 --

祝開通「99夏の旅」。書く旅行は歩く旅行と同じように楽しいものでした。もっと昔の旅日記もそのうち。●この時期レンタルビデオ旧作は2泊3日99円。「ある愛の詩」「爆笑問題のハッピータイム」「ゴールキーパーの不安」


2000.4.29 -- ゴールデンウィーク(仕事の) --

●今週はあまりに忙しかった。やっと休めたきょうは睡眠ばかりで一日が終わる。●渋谷にマークシティという新しい物売り店街が出来た。食器とか時計とか衣服とかを軽めに見て回った。物がすさまじくあふれていることをいつも思う。100作られて、そのうちいくつが実際に使われるんだろうという素朴な疑問。売れなかったものは、その後どうなってしまうのか。私にくれてもいいけど。


2000.4.22 -- 書くたび --

●99年夏の旅行記、いよいよ最後の局面。また同じことをいうけれど、旅日記を終わらせる気分とは、旅を終わらせる気分にこれほど似ているものか。


2000.4.20 -- 一息 --

●一息つくだけの余裕ができた、と書くだけの余裕。


2000.4.17 -- 弱気 --

●弱気、と書いてみるだけの気力はあったと。


2000.4.14 -- かまびす --

●キャンパスでは新入生勧誘(ワープロだとつい加入してしまうので注意しよう)がかまびすしい。私はべつに紺のハイソックスとGジャンの女子ではなく、文房具を買いに生協に寄っただけだが、「新入生ですか」と声を掛けられる。同時に笑い声も掛けられたような気がしたが。「学生自治を破壊するファシスト集団、勝共連合=原理研が出没します。きっぱりと拒否しましょう」という親切な立て看板があった。見るものすべてが新しい若者も、こうして周りが○と×を決めてくれると、未成熟な自分の頭でいちいち考えていかなくてもよいので、楽だね。


2000.4.13 -- 法則 --

●デジカメを持って出なかったときに限ってこれはという場面に出くわす法則というのがある。先日も午前中いい天気なので桜でも写そうかとカメラを持って出かけたところが、けっこう散っていてあまり絵にならず、午後に再び散歩に出る頃にはもう青空でもないので、かの法則を気にしながらも結局手ぶらで外に出たところ、近くの何でもない駐車場に猫が1、かと思ったら、猫2、猫3、猫4、猫5まで現れ、ああやっぱりあの法則だと悔やんだが、悔やんでばかりでもいけないので、家にデジカメを取りに戻った。▼雑景24kb。●近ごろ早起き(といっても9時起床くらい)なので日中はトクした気分だが、夜眠くなるのが早くてアテが外れる。●クレジットカードのローンを返さないまま月日がすぎ、それなのにカードをためしにまたキャッシュコーナーで使おうとしたところ、カードが吸い取られて戻ってこなかった、という人がいた。都市伝説。●自転車でちょっと遠出をして見慣れない緑地を見つけたので中に入ると、静かでしっとりした良い場所。これはラッキーと思っていると、「どこへ行くのですか」「いやどこってこともないんですが」「ここ一般の人は入ってもらっては困るので」「あ、そうでしたか」。私は一般の人なので素直に従った。入り口の門には「××銀行××運動場」とシックなプレートが付いていた。住まいでも緑地でもここぞという佳きところは必ず銀行が社用に囲っていらっしゃる。もういいかげんに忘却していた例の銀行救済税金十兆円(だっかたかな)を、またしつこくねちねちと思い出す。そうだ都に払う税金の変わりにここをおとなしく一般に開放してもいいのでは。●下になかなか際どいことを書いたようなので、きょうは徒にたくさん書いて薄めた。


2000.4.12 -- 綿皺 --

●まず手元の辞書を引きマスコミにおうかがいを立ててからでないと差別をしてはなりませぬ。●というか、サリン事件の犯人に対しても親子殺しの犯人に対しても死刑はやめたほうがいい。それと同様に、言葉に対してもやっぱり死刑はいけないのだ。と日記には書いておこう。きょうは石原知事も日記には本心を書いたかな?●記者会見がニュースを作った。日記が本心を作った。言葉が差別を作った。言葉が意味を作った。言葉がニュースを作ったのではなく、ニュースが言葉を作った。噴火が火山を作ったのではなく、火山が噴火を作った。作ったとは捏造したということだ。しかし捏造する以外の作るがあるなら、どうぞ私に教えてください。私は。私は。


2000.4.10 -- もじゃもじゃ頭と不正アクセントの甲高い声 --

加藤典洋ニュース23に出てきた。オウム信者に対する人々の対処について、小林節(弁護士・慶応大学教授)という人と議論。「公共の福祉のためなら現在のオウム信者の人権は少々制限されても仕方ない」との趣旨を落ち着いて主張する小林節は、正直に言うと、とても正しく響いた。それに必死で反論を試みる加藤典洋は、腕組みをしながら不器用になにかしゃべり続けたが、論理的にも倫理的にもさほど目新しいことはなかったように見えた。ただ、「考えるということは、どもるということに似ている」という誰かの指摘を、イヤでも思い出すひとときだった。加藤典洋がどもることで、「公共の福祉のためなら現在のオウム信者の人権は少々制限されても仕方ない」という主張の揺るぎなさが、ますますくっきりした。加藤典洋がどもることで、「公共の福祉のためなら現在のオウム信者の人権は少々制限されても仕方ない」という主張の揺るぎなさが、ますますくっきりした。加藤典洋がどもることで、「公共の福祉のためなら現在のオウム信者の人権は少々制限されても仕方ない」という主張の揺るぎなさが、ますますくっきりした。●明日は、なんと匿名報道についての議論があるらしい。しかし「徹底して話し合っていただきます」ということを本当に目指すなら、演出なしで、だらだらだらだらいつまでもうんざりするほど、議論してどうなるんだと議論好きな人ですらいらつくくらい、議論を続けるというのは、どうだろうか。


2000.4.8 -- ブレンド --

●少しずつ残っていたコーヒー豆3種(しかもうち2種はブレンド)を、試しに全部混ぜていれてみた。けっこういける。こういうことは本でも起こるか。3冊を1ページづつ読んだり、朝日と産経と東スポを1日おきに取ったり。でも同時に読むのではないから「混ぜた」とは言えないか。いや、コーヒーのブレンドだって各豆の元の成分はそのままのはずだが...。ブレンドに向くのは音楽か。エニグマ。ディープフォレスト。今聴いているドボルザーク陽水(ポリドール時代)も、ともにエスニックで意外に重なりやすいのでは。ジミヘン&ブラームスは、混ぜるな危険。小学生のころ給食でパンもシチューもプリンも全部混ぜて食べる奴がいた。政権も再び3党連立なり。そもそも物質の究極からしてクオーク・ミックス、とか。●ちかごろ「ウェブで日記を書くこと」についてよく考えます。その第1弾。●「経済ってそういうことだったのか会議」という本。「経済」をなんとなく敬遠していたという佐藤雅彦の事務所に竹中平蔵が深夜出かけていって素朴な疑問に答える。易しく、優しい。私の所にも来てくれないだろうか。佐藤雅彦は「だんご三兄弟」の人、あるいはバザールでござーるの人、コイケヤポテトチップスの人。それと、横溝正史の「悪魔の手毬歌」も読んだ。こっちの方が「本陣殺人事件」より何倍もよく出来ていると思う。しかし、こういう楽しい読書週間もあっけなく幕切れを迎えた。遊びと凌ぎのブレンド生活。


2000.4.5 -- 人生の棒にふり方 --

●猫に心はあるか。ロボットは心をもつか。また、人の心にとって言葉はどのくらい重要か。そもそも言葉の正体とは。このあたりの問いに、このところの私は、メシなんか食ってる場合じゃない興味を感じます。そうしたところ、図書館で「心はどこにあるのか」(ダニエル・デネット著、1997年、土屋俊訳、草思社)という一冊に行きあたりました。心というもの(意識や自我と呼んでもいいと思います)は、われわれにとっては「私の存在そのもの、私の根拠そのもの」と言いたいくらい当たり前で絶対的です。しかしこの本は、<心とは、生物がどんどん進化していく過程で神経反応や知覚の総体としてようやく立ち上がってきたものにすぎない。しかも、人の場合だけは神経反応や知覚に言語という要素が絡んでいることが心の在り方を決定的にしている。>---とだいたいこういう方向で心を分析します。したがって結論としては、<人が持つような心は、他のどんな動物も持たない>ということになりました。●私の直感としては、人間の心と猫のココロは、実は、猫のココロとアメーバのココロの違いに匹敵するくらい違うが、そもそも猫のココロとアメーバのココロでは、アメーバのココロとチューインガムのココロの違いに匹敵するくらい相当違うという気もするので、大丈夫です。●読書感想を書くとは、伝達や共感を求めていることをあらわしてしまうのかもしれませんが、それにしては要点がうまく書けない。本の要点も感想の要点も、これで伝えられるとは到底思えない。これを読んでなにか伝わったと感じた人がいたら、そのなにかは、いったいどこから出現しどうやって伝達されたのだろう。●と、私の場合こういう風に常に謎を拡散するから謎がいつまでも謎のままなのだ、という反省もあります。しかし、謎に対して一点集中型で、たとえば上に紹介した本のように、追求したからといって、謎はやっぱり深まるばかりという気もします。謎が深まるのと、謎が広まるのとでは、違うとも言えますが。●それにしてもここ数日、一日の3分の1は本で文字を読んでいます。3分の1はパソコンで文字を読んでいます。残りは、本屋や図書館で背表紙の文字を読んでいます。そのような暮らしです。「本なんか読んでる場合か、それとも、メシなんか食ってる場合か」というジレンマは、今後の人生設計に関わる問題とも言えます。それで気がついたが、今私が住んでいるのは「首相が過労死なんかしてる場合」の国なのだ。(もちろん回復を祈っています)


2000.4.4-- まるで春雨--

●本陣殺人事件はまるでカラクリ屋敷だった。宮部みゆきは松本清張だ。日曜日みたいな火曜日。年寄りっぽい若者。女のような男。バナナ的ネコ。比喩とは、たとえる元(本陣殺人事件、宮部みゆき、火曜日、若者、男、ネコ)のイメージを瞬時に飛翔させるが、同時に、たとえた先(カラクリ屋敷、松本清張、日曜日、年寄り、女、バナナ)のイメージを陳腐に塗り固める暴挙でもあることを、忘れてはいけない。しかし、われわれが「いいたいこと」を言葉にしたというのは、常に「いいたいこと」をなにかにたとえたことでしかないのだ。頭にある図鑑や辞書を使いまわして当てはめる。それ以外、われわれになすすべはない。ヘーイ!


2000.4.3-- 脳梗塞心配--

●古本を買う。宮部みゆき「火車」を一気読了。横溝正史「本陣殺人事件」に手を伸ばす。その間、読み進みがたいトマスピンチョン「ヴァインランド」は中断。同じ読書とはいえ遊園地と博物館のような違い。web上の日記も読みやすいものと読みにくいものがある。必ずしも読みやすい文章を選ぶわけではないが、わざわざ読みにくい文章を好んでもいない。自分の書いた文章は内容を知っているがゆえに理解を超えて読みやすい。漫然と同じ回路をメリーゴーラウンドがぐるぐると。平易。ヘーイ!


2000.4.2-- 桜さらに咲く--

●この時期web日記に桜のことを書く人は100人中87人。この時期もらった桜餅を食べながらテレホーダイする人は100人中41人。


2000.4.1-- 桜咲く--

ブルータス「コンビニな現代美術111人特集」。扉に、<アートへのアクセス法は、そう、コンビニに行くのに似ています。とても日常で、それでいて発見です。>という触れ込み。各コンビニのツートンカラー電飾をギャラリーに展示した中村政人の作品を提示しつつ。●また中ザワヒデキが「千年紀末アート総括」として、<美術は至近距離からみればいつも「多様性の時代」です。ですからあえて言葉で語ろうとする限りは、その時代を「多様」の一言で片づけることには懐疑的でなければなりません。しかし、それでもあえて多様としか呼びようがないとしたら、それは、その時代全体としての精神がいくぶん低迷しているからかもしれません。>と断った上で、1990年代から近未来に至る現在は、二十世紀美術において三回目の「多様性の時代」であると述べる。●この一冊、インデックス的に使用可。どうせなら、福田和也「作家の値打ち」のごとく、作品を点数評価で白黒つけてくれたら、もっと便利なのに。その「作家の値打ち」は立ち読みした。この本、たとえば、作家モンゴルの作品「ジープをチャーターして草原へ」は87点、タイの「カオサンで買い物」は46点、という感じで、ベテランうるさ型トラベラーが書いた旅行ガイド風に読むと、楽しいかも。

●カオサンというのは、バンコクの西洋人向け安宿街の名前。東京だと六本木に近いか。だからカオサンなどでつい旅情を感じたなら、それはついアメリカ映画に生き方を学ぶようなもの。●で、私は先日その六本木にタイの屋台風ラーメンを食べに行ったりしたので、これはもう旅情にとても近いのかとても遠いのか分からなくなってくる。それはそれとして、ラーメンはリアルな懐かしい味。しかもランチセットで500円〜の安さ。ただし最新情報によれば現地では今一杯60〜70円らしい。

●アメリカ映画といえば、デビッドリンチの「ストレート・ストーリー」を見た。ストレートとは主人公の名字だが、話の単純さおよび劇中の一直線移動も同時に指していると思われる。アメリカ老人の、あきらめない一徹さが輝かしい。のだとしたら、日本老人の場合は、あきらめた寂しさに美がある、ということはないだろうか。小津安二郎の笠智衆を見たくなった。


これ以前