追想 '99夏
旅先でことさら
思い当たらなく
てもいいことに
思い当たる旅先
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10.7 第57日 ヒバ 伝家の宝薬
朝からチケットのことで電話をかけまくった。ウズベク航空にアシアナ航空、サイラムツーリズムに別の旅行会社CATS。乗りたいのは11日のウズベク航空便、または15日のアシアナ航空便。どちらもタシュケントからソウルに向かう飛行機だ。日本への直行便はキルギスの拉致事件の影響で飛ばなくなっている。旅の最後にソウルへ立ち寄ることは最初から想定していたので、それはいいのだが、とにかくウズベキスタンを出ないといけない。 ビザ切れは、前に書いたように、15日だ。しかしこの日も、チケットは確実にはならなかった。そんなこんなで午後になり、やっと観光に出たが、今度は連れの者の体調が悪くなり、途中で宿に引き返した。食事もままならず、正露丸を飲んで伏せっている。旅行者の間でも万能薬として名高い正露丸、実は、リュックの中にありながらなんとなくここまで使わずにいたのだが、それは日本を出発する前に本屋でちらっと眺めた「買ってはいけない」に名を連ねていたせいもある。
私は、「島田雅彦のポリティーク」という雑誌国文学の増刊号を読むことにした。島田と柄谷行人の対談、島田と宮台真司の対談など読む。島田雅彦は、私と同世代であり、かつ、同時代をその都度鋭く意識してきた作家であることが、年代を追って作品名を眺めていくと、よくわかる。島田雅彦も、またまとめて読みたい気になってきた。
10.8 第58日 ヒバ→タシュケント Samurai Fiction
帰国の飛行機がやっぱりはっきりしないまま、ヒバ最終日。というか、きょうの夜は、タシュケントに飛ぶのだ。午前午後と分けてようやく見どころを回った。ヒバはモスクなどの歴史的建築物が狭い城壁の中に密集しているため、すぐ回れる。イスラム映画村と呼んだゆえんである。宿でサンフランシスコから観光に来ている実年男性と話をした。ブハラでも一度顔を会わせた人で、この人は移動に障害を生じる人なので、通訳兼ガイドの男(ウズベク人)との二人旅だ。政府の仕事で地震に関する調査が仕事だという。この人冗談ばっかり言う人で、いろいろ笑わせてもらった。なんというか文明国のエスプリというものを感じさせる。我々も積極的に話したので、向こうも喜んでくれたようだ。通訳兼ガイドの男も、この男性にこびへつらうことのない接し方で、話に加わる。彼は日本映画(というより、どうやら日本のことを描いた映画らしいが)が好きでよく見るという。「ある映画の中でサムライが巻紙みたいなものを端からちぎっていく方式の紙幣を使っていたけけど、あれはなに?」と笑う。それってほんとになんだろう。
また、この日、日本から来た若いカップルが宿に到着した。そろって会社を辞め、なんと1年をかけて旅をする計画で、今9ヶ月目。韓国、中国、ベトナム、カンボジア、ラオス、チベット、ネパール、ブータン、インド、パキスタン、中国、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン。すごい。女性の元気な関西弁が印象的だった。じゃあ駆け足で見て回ったヒバの歴史的建築物は印象深くなかったのかというと、そうではないが、いちいち日記に書くほどの新鮮さは、人の方が勝ったのかもしれない。
夕方5時、宿を発つ。タクシーで空港へ。空港は隣町のウルゲンチにある。タクシーは小さなワゴン車。ウズベキスタンでは、韓国DAWOO社から技術提供を受けて自動車を国内生産している。このワゴン車もその一つ。ほかに普通乗用車と軽乗用車も合わせて3種がある。ワゴン車はDAMASとかいう名前で、価格はたしか3千ドルだと言っていた。
空港はヒバの隣町のウルゲンチにあるのだが、これがまあ悲しくなってしまうようなさびれた建物で、トイレの汚さに驚き、辺りを飛び回るハエに驚き、チケット売場のおばさんが手にしていたハエ叩きに笑った。待合い室も薄暗い。真っ暗な中を飛行機まで歩きタラップで乗り込んでいく。席は早い者勝ちだった。しかも狭い。おまけに私の前の座席はリクライニングが壊れ、まさに目の前、膝の前まで傾いている。隣には大きな袋を持った大きな体格の女性。まるでバス。狭さもバス。途中でエンジンが妙なうなりをあげていたのもバスと同じだ。しかし一人前にパンとお茶、ワインまで出る。しかしほとんど手をつけず。というのも、実は空港の薄暗い待合い室に座っている頃から腹痛とだるさに襲われだし、機上では最悪の体調だったのだ。タシュケントまで1時間ちょっと。とにかくじっと我慢のフライトだった。
降り立ったタシュケントの空港では、飛行機を降りると、トランスポートのバスが空港の建物ではなく、空港のゲートまで乗客を運んでしまい、我々はそのゲートの外で、暗い中、預けた荷物が届くのを待つという、変な仕組みだった。まあ私の場合そうしょっちゅう旅行しているわけではないこともあり、変でない普通の空港の仕組みにも全然慣れていないのだが。そういう人はいませんか。飛行機の乗り継ぎで降りただけの空港で漫然と人の流れに着いていったらうっかり出国してしまっていて、パスポートに同じ日付の出入国スタンプが残った人とか。その際空港税を取られてしまうのがイヤで、そのほかいろいろ心配で、「すいませんトランスファーなのに入っちゃったんですがまた入れて下さい」と係官に頼み込んで入れてもらった人とか。
とにかく体が辛く、タクシーでハドラ(ウズベキスタンに入国した9月24日にも泊まった安ボロホテル)へ。ぐったり。
10.9 第59日 タシュケント 病みあがりの体をおして
体調は昨日以上にひどいが、きょうは帰国便のことで動かないといけない。15日のアシアナは絶望的なので、目指すのは11日のウズベキスタン便だ。重くきしむからだを抱えて、CATSという会社へ。それまで頼んでいたサイラムツーリズムからの入手はもう諦めている。CATSの担当者は、最初に電話した時からとても親身になってくれ、とにかく直接出向くことにしたのだ。タクシーで近くまで行ってから、住所を頼りに歩いて探す。どうにも場所が分からず焦ったが、電話したら迎えに来てくれた。明るいオフィス。キャリアのありそうなしかし腰の低い女性担当者、そして、カジュアルな服装の若い女性アシスタント。日本との関わりがある会社だとかで、にこやかに対応してくれた。もちろんすべて電話ですませることもできたのだろうが、11日のチケットを買うにはこの日9日(土曜日)がリミットのようで、しかもこの便を逃すとビザ切れを迎えるとあって、直接話さないことには心配でしょうがなかったのだ。まそんなわけでとにかく不安だったが、結果としては、CATSのスタッフが、11日のウズベキスタン便(タシュケント〜ソウル)のチケットと、ソウルから日本までのアシアナ便をなんとか手配してくれた。
さて、このタシュケントからソウルまでのウズベキスタン航空便は、ソム払いが可能だ。バックパッカーにとって、いくら国内を安く旅行してきても、比重の最も高い航空券を安く買えなければ、それまでの努力が水の泡だから、この辺の情報は丹念に集めて賢く立ち回るのである。私のチケットは9万9千ソム。 自らウズベキスタン航空の窓口に行って買うという方法もあったのだろうが、タシュケントでの滞在が短いので、はじめから旅行社を頼る形にしたわけだ。この値段が正当なのかどうか、 個人でちゃんとブッキングできるのかどうか、そのあたりのことは分からずじまいとなった。
そのあとはインスタントみそ汁、ビタミン剤、風邪薬を飲んで休む。夜まで寝ていたら少し体が楽になり、よしじゃあなにかちゃんと食べよう、と中心街にあるウズベキスタンホテルまで出向く。ここに日本食レストランがあるというからだ。口に合うものをしっかり食べて栄養不足を補い気分も変えようとの狙い。食べるなら、カレーライスか天ぷらうどんにしよう。かなり具体的に決めていた。ウズベキスタンホテルはいかにも旧ソ連時代のムードが残る重厚な古いホテル。ところが、残念なことに日本食レストランは消えていた。というか、店が入っているはずのフロアー(ずいぶん上の方だった)は、エレベーターが開くと全体が真っ暗だった。なんとなく諦めがつかず、今度は韓国食のレストランへタクシーに頼んで連れていってもらった。石焼きビビンバと焼き肉。焼き肉はむしろ西洋風のステーキだ。味はよいが、量が多すぎ。でも調子にのってかなり食べたため、再び腹が痛み出した。ホテルに戻って倒れ伏し、寝てしまう。飲んではいけない正露丸をついに私も飲んだ。
10.10 第60日 タシュケント さようなら
最後の目的地だったウズベキスタンを去る日。ブハラ以降きょうまですべて快晴だった。日本も体育の日できっとよい天気だろう。朝、チョルスーという名のバザールを歩く。勢い。
体調は回復したが日中は部屋にいた。多和田葉子の「文字移植」読む。旅先の雑貨屋でパンやチーズを買ったり郵便局に行ったりするシーンに、妙な親近感。
外に出てアパート群のあたりを歩き、メトロ駅近くの食堂でラグマン(汁かけの麺)を食べたりして帰る。
ウズベキスタンの通貨ソムが余っているので、タシュケントの中心街に出て、ウズベキスタンホテルの土産物コーナーを覗いたが、土日は休み。そこでブロードウェイに。ここはキルギスからタシュケントに着いた初日に歩いた場所。道路脇にずらっと並ぶ物売りと売り物。気にいった皿などを買った。
夜同じ食堂で、シャシリク(羊バーベキュー)、ナン、チャイ。思えばいつもこればかり。もはや珍しくもなんともないが、いよいよこれが最後になるだろう。
さて、飛行機は夜中の午前1時40分の発である。ハドラは追加料金なしで夜10時まで部屋を使わせてくれた。ありがたい。ゆっくり荷造りしてタクシーでタシュケント空港へ。2日前ウルゲンチからここに着いた時は、前に書いたように飛行機から直接空港の外に出されたので、タシュケント空港の中はまだ見ていない。首都の国際線空港であるからには、いくらなんでもウルゲンチのかのハエ空港のようなひどい居心地ではなかろうと期待していたが、今度はなんと、出国手続き開始の時間まで空港建物に入れず玄関の外で待たされるという仕打ちを受けた。まあしかし、チェックインと荷物調べ、パスポートコントロールは、仕事が面倒くさそうな係員によって、難なく終了。
タシュケント。中央アジア、遠い国。慌ただしく去っていく。旅をもう少し引き延ばしたい気分も増してきている。
10.11 第61日 タシュケント→ソウル 極東の花咲く
日付が変わって11日。ウズベキスタン航空ソウル便は午前1時40分に飛び立った。食事も出たし、「文字移植」を読み終えたりと、あまり眠らなかった。飛行機は地球の回転と逆に進むので、夜明けがとても近いはず。たしかにあっという間に外が明るくなっていた。窓を覗く。まさに砂漠の上をずうっと飛び続けた。世界的な乾燥地帯を巡った今回のルートを東向きに一気に戻っていく。地形はやがて山に変わり、海を越え、朝鮮半島が見えてきた。 6時間20分の飛行。ソウル到着は韓国時間の正午ごろだった。キンポ空港。パスポートチェック、荷物受け取り、両替とすべて流れるように進むと、一休みできる場所とホットドッグとコーヒーにありつけ、日本語OKの観光案内で市内地図と安い旅館情報が手に入り、じゃあ予約でもと目の前を見ると50ウォン硬貨の公衆電話。空港を一歩出れば市中へ向かう地下鉄の乗り場にそのままアクセスできる。このスムーズさ、能率。中央アジアから来ればソウルは別世界だ。日本にいるのと変わらない。だいいち辺りには日本人を迎えるツアーコンダクターが勢ぞろいし、おまけにコギャル卒業係の若い日本女性集団も登場。彼女たちの出で立ち振る舞いを目にし「ああわが祖国ニッポンに再会した」との実感。
この旅行の始まりは船で少しづつ中国に入ったわけだが、帰りはソウルというショックアブソーバーを経て日本入りすることになったのだ。
ソウル中心街の一つチョンノで地下鉄を降りる。格安のWOO JANG旅館は、飲食店がたくさんひしめいている一角にあった。一部屋二人計2万ウォンで落ち着く。1万円=11万1千ウォンのレート。部屋のテレビにはなんとNHKのBS1が入ってきていた。外に出て、キムチ入りのチャーハンを食べた。それと夜中になってからもキムチ、ごはん、牛腸スープ。どちらもうまい。
ソウルの印象。ニッポンのパラレルワールド。3年前に会社の慰安旅行で来たときと同じだ。変わっているとしたら、町中に漢字が全くと言っていいほど消え失せていること、それに、いっそう都市化したように見えることか。
ここの日記は、深夜、旅館の近くにあるダンキンドーナツ(懐かしい)で、ノーマルだがやや薄味のコーヒー1200ウォンを飲みながら書いている。もう2時半。この大都市もまた眠らない街だ。カジュアルでポップな曲が続けてかかる。西洋でも日本でもなくコリアンソング。私は中央アジアから帰ってきた。もちろんここはまだ私の国ではない。それでもここは私がふつうの気持ちでいられるところだ。なんかCDを買ってポップミュージックをたくさん聞きたくなってきた。しかも面白いことに、同じビルの4階にはインターネットカフェと漫画喫茶が合体した店があるのだ。旅行前に2,3度行った高円寺の漫画喫茶を思い出す。曲は今度はジャジーなものに変わった。日本語ではないが英語でもない。朝鮮語?。よくわからない。
ソウルとトウキョウ。文化や民族は違うが、文明が同質、同根なのであろう。いや文明とはいずこの国も同根か。いや違う。ここは明らかに東アジア、極東に花咲くチープでコンビニエントな文明である。
10.12 第62日 ソウル ショクジ?
帰国の飛行機は16日である。ソウル滞在は当初の計画よりやや長くなった。しかも東京ではなく大阪便。というのも、私の出身地福井の劇団「シベリア寒気団」が16日に大阪で公演をするのである。それを旅先の電子メールで知り、それならば大阪に飛んで芝居を見て、それから東京に帰ろうと考えたのだ。その飛行機の手続きをアシアナ航空のオフィスで完了させたあと、ミョンドン(これもソウルの繁華街)を見て歩く。渋谷、新宿の生き写しである。プリクラもある。南大門市場も通った。
部屋へ戻ったら眠ってしまい、また夜に外出する。トンコツスープのようなラーメンとキムチ、ライスの夜食。「ショクジ?」とおじさんに日本語で誘われて。繁華街では日本人買い物客向けに日本語を操る若い人、および古い市中ではかつて教えられた(といふ)日本語をまだ覚えていて話しかけてくる老人たち。
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