アメリカ同時多発テロ


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批評コンビニ幕の内(6)
内田樹『ためらいの倫理学』から


きのうは「対アメリカ自爆戦」のことを「作品」に喩えたが、その「作品」というのを、こんどは「他者」と言い換えてみてはどうかと考えた。いやまあ「他者」というのが小難しければ「わけのわからんやつ」ぐらいでいいのだが。ともあれ私がきょう「他者」という単語に出会ったのは、『ためらいの倫理学』(内田樹)という書の「越境・他者・言語」という章だ。

<「他者」。それは原理的に私たちの統制や支配が及ばず、私たちの理解や共感を絶しているもののことである。「他者」は名づけえず、分類しえず、私たちの知的射程の限界として、私たちの眼前に圧倒的な具体性を持って立ち現れる。>

ここを読んでいて私は、これって今回の自爆戦のイメージそのものじゃないか!と思ったのだ。とりわけ、正体不明でありながら「圧倒的な具体性を持って立ち現れる」というあたりだろうか。今回の事件を「すごい作品」と呼んだ所以でもある。もうちょい引用を続ける。

<他者に対して、私たちは「中立的」あるいは「学術的な」まなざしを向けることができない。というのも、「中立的」であったり「学術的」であったりするためには、「私」と他者を同時に包摂する「パラダイム」の存在が前提になるからだ。そのような包括的な視座を想定してはじめて「中立性」という考え方は存在するのだが、他者の「他者」を構成するのは、「他者は『私』と同じパラダイムには属さない」という事実なのである。「私」と他者のあいだには「共通分母」がない。>

こういう他者つまり「わけのわからんやつ」に対しては、「つぶしてしまえ」という態度がありうる。おそらくイスラム原理主義やアメリカ軍事主義にしばしば見られる態度だろう。それを非難するのは簡単なことだ。

<「他者」に対する倫理的な責務や罪責感を感じることの「できる」自我がある。これは「倫理的主体」である。一方に、他者を単なる理解・支配・所有の対象とみなし、倫理的有責性を引き受けることの「できない」自我がいる。前者は「よい自我」であり、後者は「悪い自我」である。倫理的な「よい自我」は、自己省察的であり、知的に誠実であり、思想的に前衛である。エゴサントリックな「悪い自我」は。無反省的であり、知的に不誠実であり、思想的に反動的である。>

話がこれだけなら、きょうもウェブ日記に適当なことを(たとえば当然所謂戦争忌避とか)書き込んで寝てしまえばいい。しかしことはそう単純ではない。内田樹は、こういういかにも良心的な「他者」の引き受け方を「他者による自我の審問」と呼び、そこにこそ知性の落とし穴があると批判する。

<自己審問の主体」という立場が知的位階制において非常に有利であることは理解に難くない。というのも、「自己審問」は単なる有責性の告白や、無能性の認知であるにとどまらず、「そのように厳しく自らの倫理的有責性を告発し、自らの知的貧困を認識することができるくらいに倫理的に誠実で、知的に卓越している」という「一回ひねり」の自己肯定を論理的に帰結するからである。彼らはこの威信を「自己審問という苦役」に対する知的報酬と理解した。「他者」の現前に屈服し、「他者」に拝跪したものは、その代償として、「同類たち」を威圧するカードを手に入れるのである。>

<「私は自らの暴力性を審問しつつ弱者に共感する」、「私はわが自己同一性を引き裂きつつ異質なものを受け容れる」という柔弱の語法が、倫理的な高さと知的な優越性の指標として公共的に認知され、その一方で、「他者の痛みに対する想像力の欠如」、「おのれの権力性についての無自覚」といったクリシェが論争の「切り札」となったのである。被差別者、非抑圧者、人種的少数派、障害者、あらゆる種類の社会的「弱者」をおのれの証人として召喚し、「彼らは<私の他者>である。彼らの現前は私が無反省に<私>に安住していることを許さない」と宣言することによって、「自己審問者」はめでたく「改悛」を成就する。>

てなかんじだが、引用だけでは難解かもしれない。この書物全体が批判の対象にするのは主に上野千鶴子や高橋哲哉であるといえば、なんとなく理解できるだろうか。ただし内田樹は、<それは彼らが私にとって最大の敵であるからではなく、一番近しい隣人だからである>とも書いている。

さてさて、引用しかしなかったみたいだし、しかも内田樹の思考の途中でしかなくしたがって曲解になるかもしれないのだが、ともあれここまでの話をちょっと今回の事件に結びつけてみよう。すなわち。「アメリカという他者などつぶしてしまえ、なんていうテロリストという他者こそつぶしてしまうべきだ、なんていうアメリカという他者」に対する態度がいま問われている。しかし、その態度は「一回ひねりの自己肯定にすぎない」ような、すなわちアメリカ軍事主義やグローバル経済や戦争を「審問」することで安住するような態度は結局ダメなんじゃなかろうか。テロリズムを「審問」することで安住するような態度がそもそもダメなように。

他者ということで、もう少し考える。

神社に初参りしクリスマスにケーキを食べ葬式で焼香などする平均的日本人にしてみれば、たとえば一日に何度も神様に礼拝する人や、信仰や信念のためにパイロットをナイフで刺したうえ旅客機を自ら操縦して高層ビルディングに飛び込めるような人は、そうとう他者だろう。

それならば、マンハッタン勤務のエリート銀行員だって、たとえば引きこもり自分探しフリーターのネットサーファーというこれもある種の平均的日本人にしてみれば、けっこう他者だろう。

同じ他者でもその他者性の度合いには差があるのだろうか。でも、その差は、単なる生活習慣や想像習慣の差ではないのか。私がボストンからサンフランシスコに向かう旅客機の乗客になったり世界貿易センタービルに勤務したりすることは、なさそうではあるものの、私がその旅客機をハイジャックして高層ビルに激突させるようなことはそれ以上にもっともっとないと、断言できるだろうか。生まれ変わってもそういうことはないと、断言できるだろうか。

また、南京やアウシュビッツや広島における死は忌まわしいけれども、直接の恐怖に繋がらないの何故か。それが遠い過去の事件だからだろう。パレスチナやコソボにおける死も忌まわしいけれども、直接の恐怖に繋がらないのは何故か。それが知らない場所の事件だからだろう。それにひきかえ、アメリカの旅客機がニューヨークの高層ビルに激突するという死は、忌まわしいだけでなく、やっぱり本当に恐ろしい。しかしその理由は、第二次大戦やパレスチナ戦争に比べて、私が遭遇する場面を具体的なディテールを伴って想像できるからに過ぎない。

あるいは、アメリカのブッシュ大統領やその報復を支持するアメリカ国民はどの程度他者なのだろうか。これから空爆に行くかもしれないアメリカの兵隊や、空爆されるかもしれない地域の住民は、どの程度他者なのだろうか。

しかし一方で、こういうことも言えるだろう。原発の近くで事故が怖いと思って暮らす人だからといって、たとえばチェルノブイリの事故で死んでしまった人を理解共感できるかというと、全然できないかもしれない。関東大地震が来たら怖いなと思って暮らす人だからといって、たとえば阪神淡路大地震で死んでしまった人を理解できるかというと、全然できないかもしれない。テロや戦争にまつわる話においても、実は犠牲者こそが完全な他者なのかもしれない。世界貿易センター勤務の彼も、ハイジャック犯の彼も、炎上する旅客機と高層ビルの中で命を落とした瞬間からは、間違いなく彼らはあちらに行ってしまった。限りなく他者になってしまったのだ。ということは、逆に、彼らはどちらもこのあいだまでは、私からみてそれほどの他者ではなかったのだ。ということは・・・・。

あるいはこういうことも言えるだろう。アメリカに対するイスラム(?)の自爆戦という今回の出来事がまだ起こっていなかった9月11日以前の世界の私から見れば、すでにそれが起こってしまってビルも崩れてしまってそれらがテレビで放映されてしまった現在の世界の私は、はっきり他者なのかもしれない。

どこにもなかなか行きつかない・・・(未完)


Junky
2001.9.13

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