斎藤美奈子 妊娠小説


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批評コンビニ幕の内(4)
斎藤美奈子『妊娠小説』


斎藤美奈子といえば、ふだんは『週刊朝日』の短い書評欄で接する。サッサと事もなげに筆を運んでいるせいか、その破壊力に気づかず読み飛ばしもしよう。しかし斎藤美奈子ほど大胆不敵なやつはいない。『妊娠小説』では、その全貌が明らかになる(というかこれデビュー作なので、最初にどーんとかまして、あとは余力で十分飛べているということかもしれないが)。

文学史を思いもよらぬ視点ですっかり語り変えてしまう、語り抜いてしまう『妊娠小説』。福田和也ならまさに「贋金を流通させた」と言うに違いない。こうなると、絵画史だろうと映画史だろうと、あるいは政治史だろうと、歴史なんてものは、どれも瞬時に改編可能、しかも何回でも改編可能なのだ。そう夢想させる力に満ち満ちている。

いつだったか「ロード・ムービー」という映画への接近法をはじめて知った日のことを思い出す。「妊娠小説」を読んだ体験はそれに似ているかもしれない。ただし「ロード・ムービー」は実在する。「ロード・ムービー」を標榜したヴィム・ヴェンダースは、実際に「ロード・ムービー」の名を冠して映画を作っていたからだ。では「妊娠小説」の場合は。斎藤美奈子は作家ではないから「妊娠小説」の名で創作をしたわけではない。それなのにどうだろう。斎藤美奈子は「妊娠小説」と名指すだけで「妊娠小説」を実在させてしまった。

<日本の近現代文学には「病気小説」や「貧乏小説」とならんで「妊娠小説」という伝統的なジャンルがあります。結核の治療法が発見されて「病気小説」が急速にすたれ、赤貧の駆除が進んで「貧乏小説もいつのまにか姿を消してしまいましたが、幸いまだこれといった特効薬のない「妊娠小説」は、今日もなお、文学業界の現役として第一線で活躍しています。>

<妊娠小説の転換期は、一九五〇年代にやってきた。いよいよ「妊娠中絶」をフィーチャーした本格的な妊娠小説があらわれたのである。>

<妊娠小説史では、六〇年代初頭〜七〇年代末をまとめて「成熟期」と定めている。高度経済成長期をはさんだこの二十年弱は、妊娠小説がもっとも安定して栄えた時期である。しかし、それは激動の二十年でもあった。>

いかにも正統な口調。だからこそ我々は「ああこれは遊戯なんだ」と感づかねばならない。有名作家の有名小説に「妊娠」という観点をためしに当てはめ、サクっと括ってみたんだけど、どうよ。そういう軽いサインを受け取るべきである。ぬけぬけと人を食った態度こそ斎藤美奈子流だ、喝采しよう。そこから先は遊園地のように楽しめばいい。「妊娠小説のあゆみ」「妊娠小説のしくみ」「妊娠小説のなかみ」。本格的に構成された各ステージは、どれも虚仮おどしでないアトラクションを伴っているから、いつまで遊んでいても飽きない。

しかし我々は、いくつになっても、ファンタジーから完全に逃れることはできない。こんなもの張りボテと縫いぐるみにすぎないと重々わかっていても、このテーマパークがもしやもしや本当に実在する世界であったなら・・・。そんな幻想が捨てきれない。

そう思い直してみると、ジェットコースターやメリーゴーラウンドに酔いしれながらも、「妊娠」という因数こそ、文学という方程式を解くために、おそろしく本質的であったのだと、だんだん身にしみてくる。文学はこれまで「恋愛」や「青春」という因数でしか分解されてこなかった。そのせいで「妊娠」の因数が隠されたままだったのだ。そこにこそ文学と批評の陥穽と制度を見なければならない。我々は、初めて調査・発掘された古生物の化石を、しかも形態を進化させて現代まで生き延びた生物の骨格を見ているのだ。『妊娠小説』は、遊園地ではなく博物館だったのではないか。

てなぐあいに、我々は斎藤美奈子に2度騙されるのである。まず「妊娠小説」という歴史が実在しているというウソに。次に「妊娠小説」という歴史が仮想にすぎないというウソに。いやそれとも私は3度騙されたのか。

斎藤美奈子は後書きでこんなことを述べている。

<もし本書になんらかの取り柄があるとしたら、筑摩書房の間宮幹彦氏の多大な助力によるものです。氏は「ここは笑えました」「ここはちょっと笑えません」という、およそ(文学製品の)バイヤーズガイドにはふさわしからぬ絶妙の評価基準で、細部にわたる助言をしてくださいました。>

かつて文学にはかけがえのない「なにか」があった。しかしそれはいつしか失われてしまった。その「なにか」を文学はどうしても取り戻さなければならない。丹生谷貴志が「マッチョ」と呼ぶのは、そのような強迫観念のことだろうか。たとえば高橋源一郎の評論なら、常にどうだといわんばかりの奇妙な外観と中身のせいで誰の目にも「普通じゃない」と感じられ「ああこれは文学マッチョ信仰を批判しているんだな」と受け止められる。しかしそこが逆に「隠れ信者ゆえの韜晦じゃないのか」と深読みされないこともない。それに比べて斎藤美奈子は、実にあっさりばっさり文学を切り捨てる。小気味よい。「古き良き文学の香り」なんぞ、はなっから遊び道具としてしか扱いません。そういうふうに見える。こうした遊戯に徹する冷めた態度があってこそ、たとえば文学に「妊娠小説」という仮想体系を大胆に当てはめるような戦略も可能になったのだろう。

(以下蛇足)
しかしこのことは、作品を作品そのものとしては批評しないということになるのか。一般に、あるものを評するときに、別のあるものに喩えるという方法はしばしば使われる。このページで「方程式」の「因数」だの、「遊園地」に「博物館」だのと言ったのも、文学や批評をなんとなくそう喩えたわけだ。斎藤美奈子は小説をことごとく「妊娠小説」に喩えた。「妊娠小説」という仮説を使って説明した。あるものをそのまま論じ続けるとどうにも煮詰まってくるので、それを別のものに喩えてみると、ふっと何か新しい真実が見えたりするのだ。しかし。真実が見えた?、それはもしかしたら錯覚ではないのか。そんな疑問がつきまとう。しかしまた、批評という営みは、いや言葉を使って何かの真実を理解するという営みそのものが、この「なにかに喩える」という方法なしには成立しないということはないのか。そのような全く逆の疑問も頭をもたげてくるのだった。だいたい作品を作品そのものとして批評するとはどういうことなのだ。そもそもそのようなことは可能なのか。どんどん話が飛んで、大杉重男「知の不良債権」にあった、やっぱ贋金じゃ駄目だ本物の金を流通させろ、という過ちに重っていくみたいだが。それはそうと、あの論もまた批評を貨幣経済に喩えていたのだなあ・・・。

(蛇足の蛇足)
文章というのはけっこう「ごまかしがきく」のだ。「喩えてみたら真実みたい」というのもその一種だろう。そんな「ごまかし」にごまかされるものか!この執念が異常に強い批評家が鎌田哲哉なんだろうか(と、根拠なく断定する、これもごまかし)。じゃあその「ごまかし」を暴くための文章だったら完璧に分析的な論理だけで出来ているのかというと、やっぱりどうしてもどこか「ごまかし」めいてくる。それは書く側や読む側の問題なのか、それとも言語が原理的にはらむ問題なのか。ああこうして同型の問いがまた腕(足?)をのばしてくる。

(そのまた蛇足でフラクタル状態)
あるいみ、いま斎藤美奈子調のサイトといえば、たとえば、  

追加:斎藤美奈子『モダンガール論』


Junky
2001.9.5

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