猫 算
どちらを選ぶべきか。
すくなくとも、
●●●<●●●●
ということくらい、
彼ならわかりそうな気がするが・・・
いややっぱり「数える」ということは、
そう簡単ではないのだろうか。ましてや、
●●●
●●●
●●●
●●●
=
●●●●
●●●●
●●●●
と「かけ算」しているなんてことは、
絶対ありえないのだろうか。われわれ人なら、
缶の数はどちらも同じだとすぐわかる。
それは、
●=1、●●=2、●●●=3、●●●●=4・・・を
まず理解し、さらに、
●●●+●●●+●●●+●●●=
●●●●+●●●●+●●●●
すなわち、3×4=12、4×3=12を
理解しているからだろう。
そのうち3個や4個の物が並んだ形を覚え、
さらには12個の物が並んだ形も覚えてしまうだろう。しかし、われわれも大昔の大昔は、
満腹の度合いで比べるしかなかったのだろうか。
でもあるとき誰かが、
「数える」ことに気づき、
さらにあるとき誰かが
「かけ算」をあみだす。
そしてわれわれは九九を覚えさせられる。もういっかい彼の頭の中に戻ろう。
彼の頭の働きと、われわれの頭の働きとの
決定的な違いの一つは「言語」の有無だろう。だがしかし、
●●●<●●●●
とか、
●●●×●●●●=
●●●●×●●●
ということが「わかる」ために、
言語は絶対に不可欠なのだろうか。
どうもそうではないような気がしてくる。あるいは
A>BかつB>CならA>C
といったことも、
もともと言語とは無関係の法則なのではなかろうか。
どうなんだろうか。野矢茂樹が『はじめて考えるときのように』で、
「足し算に答えるのに考える必要なんかない」
「論理は考えないためにある」
と述べていたことを思い出す。一方、信原幸弘という人が、
『考える脳・考えない脳』(講談社現代新書)で、
暗算は脳の中ではなく外で操作されている、
といった趣旨のことを述べていたことも思い出す。
これは、
たとえば4×3を計算するとき、
あるいは24×7を計算するとき、
ニューロンにおいて、
4単位や3単位、あるいは24単位や7単位の
目盛りに対応するような反応が起こっているわけではない、
ということだろう。いや、ぐだぐだ述べたけれど、
3缶×4と、4缶×3が、同じであるということに
彼はなんらか独自のやり方で気付けるのではないか。
しかもそのやり方は、
根っこのところでは、われわれのやり方と同一なのではないか。
そうした疑問が頭を離れないのです。
どう思いますか。