著作=Junky@迷宮旅行社(http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html)
▼ From Junky
日誌および更新

迷宮旅行社・目次

これ以後


2000.12.31 -- 親に死なれた気分で、さようなら20世紀 --

本ウェブサイトのご利用に際し、次の行為をしてはならないものとします。ものとしますってなんだ?物年升?

2000.12.30 -- まるでガンのように早かった世紀末 --

●勢いよくTV番組雑誌を買ってきたが、めちゃイケと三億円事件ドラマを見ただけで、眠入ってしまう。●「いや〜おしつまりましたねえ」と書く気分もとっくに逸してしまった。最適日はいつだったのか。

●20世紀のまとめは、21世紀に持ち越し。年賀状も持ち越し、あるいは時空のねじれに消えていく。


2000.12.28 -- 想像力と数クリック --

●20世紀の不思議、まだあると教えられた。それがクラフト・エヴィング商會『らくだこぶ書房21世紀古書目録』。こういう手の込んだ本は、しばしばそうだが、やはり筑摩書房。●じゃあ「色恋連邦」という所が、この世に存在しているのは知っていますか。「色恋?冗談だろ。スプートニクの真相解明とごっちゃにするな」「鼻行類なら標本を見たことがあります。ですから、色恋連邦もまずは証拠を示していただきたい」?さあて。

●仕事が納まるとメーリングリストも納まったりする傾向。


2000.12.27 -- 世紀の奇書 --

●『スプートニク』という、友人から聞いて猛烈に興味がわいていた本に、きのう図書館でばったり。ついでというわけではないが、『鼻行類』というこれまたその存在を知らずに生きていくのは損だと思える一冊を、同日同所で手に取った。この両者、中身に関して一つ、気がつくと楽しいが気がつかないともっと楽しい構造上の共通点がある。初耳の人はサーチエンジンで調べてみよう。きっとよけいわからなくなる。●それらを携えた帰り道コンビニに寄って週刊朝日を立ち読みしたところ、21世紀に持っていく本とかなんとかいう特集で、きょうび一番の売れっ子といえる読書案内人、斎藤美奈子が『鼻行類』をナンバー1にあげていたのは、なんたる偶然!というより、たんなる必然か。●もうひとつ言えば、『スプートニク』の解説は荒俣宏が書いているのだが、その荒俣夫妻がその週刊朝日にて対談で登場し、あらまたビックリな日常生活ぶりを明かしていたのも面白かった。●もちろん、週刊朝日といえば高橋源一郎「退屈な読書」であり、そのへんについては、かの掲示板に書き込んだ。さらに高橋源一郎といえば『惑星P-13の秘密』があって、これを読んだとき私は即座に『鼻行類』を思い出すべきだった。ほかのあらゆる本も思い出すべきだった。しかしそれは無理だった。時間は逆には流れない、ことになっている。●たぐい稀なる書物たち。新たに誕生することなど、今世紀中は、もはやあるまい。断言していい。

2000.12.26 -- 人間工学 --

●パソコン本体を机の上から机の下に置くようにしたら、騒音が解消されて快適だ。こういうことは、CPUのスピード以上に大事だ。さらに今夜あたりはストーブの代わりに足下を温めてくれたりすると、もっとありがたいのに。携帯電話で音楽が聴ける時代なのだから。・・・と思ったら、G4キューブはそれを実現しつつある。

●『考える脳・考えない脳』(講談社現代新書)を図書館に返す前にもう一度ぱらぱらと読み直し、衝撃の大きさを改めて思い知る。ポイントはこういうこと。<言葉で思考したり(例:人間はみな死ぬ、ソクラテスは人間だ、だからソクラテスは死ぬ)、数学で計算したり(例:12×13=156)するとき、思考や計算の骨格ともいうべき論理や数式という「形式」が操作されているわけだが、脳のニューロンは、そういう「形式」に当てはまるような結合をしているのではない。てことは、論理とか数式という「形式」はいわば脳の外部にあるといってよいのだ>。こういうことが、どうしても気にかかる。しかも、こうした論理や数式は過去も未来も宇宙の果てでも外でも成り立っているように思えるところが、そもそも不思議だ。養老孟司なら、そのミナモトはそれでもやっぱり脳の中にあると言うだろうが。●著者の信原幸弘氏は1954年生まれ。東大助教授。この人ブレイクしないかな。裏表紙に載るネクタイ姿の正面顔写真(駅前3分間写真?)は、研究一筋の実直さを醸しているように思うが。


2000.12.19 -- ロングセラー?...金属バット --

●このところ、渋谷では金属バットの高校生が通行人を襲い、福井県では老朽電車のブレーキが壊れて暴走衝突。なんだか屑のような事件だが、私にはどちらもごく近い話であって、巻き込まれたかもしれないなおさら屑のような可能性を想う。過疎の町をしかたなく走らねばならない赤字路線に、整備新幹線予算の1パーセントでいいから渡してやってくれ。運輸省の中部運輸局とかも急に出てきてたけど、ふだんは何やってる人か、ちょっと自己紹介くらいしてくれ。

2000.12.18 -- 深爪 --

●日誌がちょっと空いた理由

●本を数冊平行して読んだりする。なかなか集中が続かないのと、つい隣に目移りするのとで。テレビのザッピングと同じか。この癖はおそらくネットサーフィンによって悪化した。●カフカ「審判」や中上健次「枯木灘」もある。いわば世界遺産を観光している気分だ。この遺跡は訪ねておいて損はないよと。ただし苦労して出かけたはいいが、体調が悪くてさんざんだったとか、ひどい天気で何も見えなかったとか、そういう不幸に遭うと悔しい。単に行けばいい、読めばいいってものでもないのだろうか。とはいえ「審判」「枯木灘」はどちらも純粋に面白い。行った所は無理にでも面白かったことにする貧乏性というのもあるけれど。●栄養剤のように本のエッセンスをぐいっと一飲みできたら時間が節約できるのにと思ったりもする。MP3に圧縮して頭の中にダウンロードとか。しかし読書とは、文字を直に追って読むこと、つまり読むことそのものが楽しいということで、どうにかやっていっているのだ。そういう、建前なのか本音なのかしらないが、読書の理想を私は信じたい。それに、そうであれば、読んだ端からどんどん中身を忘れていくこの空しい現実もなんのそのだ。


2000.12.14 -- クリスマスは実在する --

●ふと思い立ち日中FMラジオを付けるようになった。そうしたら、クリスマスソングばかりではないか。 あっちの局でもこっちの局でも。テレビのニュースでもツリーが点灯したとかどうとか。日本はやっぱりキリストを中心とした神の国であるとの印象、改めて濃くする。●どうせなら、忠臣蔵記念でケーキやプレゼントとか。

2000.12.13 -- 長いこと映画に行っていない --

映画をサクッと総覧できるページ(リンク)があった。大勢の短いコメントが集積していくところがポイント。映画の事典がいわば自動的に出来上がっていく。賢いシステム。自分の好きな映画をめぐって様々なつながりを探すことになる。

●いまさらながら『表層批評宣言』を読んでいる。蓮実重彦文体を強く印象付けた代表作として知られる。冒頭22行(ちくま文庫の場合)にわたる息の長い一文。主語述語修飾の構造を図示してみたくなるのは正当なことだ。結論は「あちゃーなんだこのひどい言葉使い(自分に)! 読んだり書いたりって必ずワケがわかんなくなって気が滅入るね。でもそれは誰しも同じ。しかたないさ」(通常語訳)。それはともかく、おもしろいのは、この結論に到るまでの大半(22行のうち20行目の途中まで)が、「・・・・であるとすれば」で括られていること。しかも、文頭「たとえば」の一語が「・・・・であるとすれば」全体にかかっている。つまり、いかにも論証的確信的なこの文章も、形式だけでみれば、長い長い仮の話しかもたとえ話を踏まえた戯言にすぎないともいえるのだ。●「たとえば・・・・であるならば」という言葉使いの傾向は、私にもあるなあ、そういえば。というか前から気がついていたけれど。いや、だからどうだというのではない。そもそも「だからどうだというのではない文章」をあえて繰り返し書いていく方法と実践をこの本は伝授しているともいえる、こともない。は?。


2000.12.8 -- リメンバーもんじゅ --

●動力炉核燃料開発事業団高速増殖炉といえば、福井県民には早口言葉としておなじみだった。その「もんじゅ」が、ふたたび息を吹き返す。事故から5年。月日はたしかに過ぎた。事業団の名も核燃料サイクル開発機構と変わった。しかし「もんじゅ」自体は、あるいは国や事業団の姿勢は、ちゃんと改良されたのだろうか。その間私は東京に移り住み、1995年12月8日は時間も距離も遠くなった。つまり私の曖昧な姿勢も改良されないままだった。●扇千景大臣によれば、もんじゅ再開でまた迷惑をかけるから福井空港建設でお礼をしておこう、ということらしい。これは普通「ホンネ」と言われる。扇大臣は「常識」と呼ぶ。でもそれは違う。もんじゅ事故で恐怖や侮辱を本当に感じていた数少ない福井県民は空港建設くらいで引き下がるわけがない。また、もんじゅ事故を実は野次馬として眺めていた数多くの福井県民は空港建設のごたごただって野次馬として眺めているだけだ。もんじゅ再開と空港建設が実質的な取引たりうるというのは、政治上の空論。つまり錯覚ですよ、栗田知事。●私は福井にいたころ、原発事故をどこかで意識していた。大きいのが起こったらシャレではすまないと知っていた。そして、ときどき本当に事故があった。しかしまあこの程度ですむのかとタカをくくってもいた。私は今東京にいて、地震をどこかで意識している。大きいのが起こったらシャレではすまないと知っている。そして、ときどき本当に地震がある。しかしまあこの程度ですむのかとタカをくくってもいる。●BGMはジョンレノン。

2000.12.6 -- 噂の真実 --

●JR東京駅銀の鈴で大切な友人を待っていたら、目の前にもっと大切な室井佑月・高橋源一郎夫妻が現れてびっくり。高橋源一郎といえば、夫妻のスキャンダラスな日常も匂わせる「官能小説家」という小説を朝日新聞夕刊に連載している。その中では、現代の文壇バーに明治の文豪森鴎外が突如現れるという展開になっているのだが、きょうはそれに匹敵する唐突さだった。こんなこともあるんだな。めんどくさがらず東京駅までやってきてよかった。ついでに友人も現れたので、それなりに話をしてからさっさと見送った。

2000.12.5 -- きょうも長文、恐縮 --

●異色ミステリーとして有名な「ウロボロスの偽書」(竹本健一)を読んだ。作者の近辺で実際に起きている連続殺人事件のことを書いている事実の章。架空の登場人物によって架空の殺人事件が展開する虚構の章。実際の殺人事件の犯人のようであり作者のニセモノのようでもある誰かが小説内に紛れ込ませてしまった事実とも虚構ともつかない「幻」の章。この3つが並列する中で、虚構の人物が事実の作者の前に現れてしまったり、作者が書いているはずの事実の章とニセモノが書いているはずの幻の章とで区別がつかなくなったりと、小説内において事実・虚構・幻が入り乱れてくる。なによりこの快感を味わう本である。実際、手元にチャートでも作らないともうごちゃごちゃだ。犯人は誰なのかよりも、小説の構造がどうなっているのか、さらには「ミステリーを成り立たせる者とは誰なのか」とでもいうべきメタフィクショナルな追求を主眼に創作されたと思われる。●ところで、この手の紹介文は、今どきサーチエンジンで書名検索すればいくらでも出てくる。わかっちゃいるけど、またひとつ、漫然と加えてしまったわけで。●では、他ではそれほど触れられていなかったことを一つ。小説の中で「ゲーデルの不完全性定理」が易しいたとえ話で語られる。それを考え込んでいるのが宴席で客を前にした芸者だったりするのがおかしい。しかも、読者がこの小説を読み解いていく作業が「そっちの章が本物ならば、こっちの章はニセモノということになるから、その場合は、あっちの章が虚構でないといけないのに、そうなっていないから矛盾が生じる、ということはつまり」といった論理学の演習をしている気になる。そうしてついには、「この小説に矛盾がないとするならば、正しいにもかかわらずこの小説の中だけではその正しさを証明できないような章が存在する」といった、どうしても不完全性定理っぽいコンセプトに、この小説の趣向全体が収斂してくるのを感じたのであった。だから、人参(不完全性定理)のぶつ切りが生煮えで入っているようではあるが、実はスープのベースも実は人参(不完全性定理)だったというような。●不完全性定理については、サーチエンジンをどうぞ。

●異色ついでに、少し前に読んだ「プラトン学園」(奥泉光)のことも書いておく。これは、日本海の孤島にあるプラトン学園に新任教師が船で赴任していくシーンから始まる。そうなると本格探偵小説の趣きだから、もう明るいうちから雨戸でも閉めて電話線も切ってひたすら読み耽りたい心境になるのだが、内容はやがて、プラトン学園で起こる事件とパソコンのRPG「プラトン学園」内で起こる事件とが渾然一体となり、結局は「ウロボロス」と同じような小説構造の謎というか壁に突き当たるのだ。そこが面白いと思わない人は作品全体が面白くない結果となるだろう。このあたりもサーチエンジンであたってみるとよくわかる。なおこの構造は、「山田さん日記」(竹野雅人)という高橋源一郎がむかし誉めていた小説も一緒だ、そういえば。●ひとこと付け加えると、「プラトン学園」では最初ナレーターがいる。そのへんの迫り方がまた松本清張の映画みたいに重厚なのだ。ところが、そのナレーター、いつの間にか消えている。最後でいいからもう一度ナレーターが出てきて、全体の説明をしてくれた方が収まりがよいとも思えるが、それはあえてそうしないのか。

●この文章はいつ誰が書いていたことになるのか、しかしそれを証明する手がかりはない。というような読後感は、阿部和重も同じだ。竹本健一はその読後感がその小説自体をも覆ってしまう力を期待して「ウロボロス」を書いたのだろうが、仕掛けをこうまで凝らしていながら「結局これ全部、竹本健一がこしらえたお話じゃないか」ということに収まってしまって、もう外には出ていかない。少なくとも私はそうだった。ところが阿部和重小説は、「ウロボロス」の豪華大皿に比べればすっきりしたすまし汁のような小説なのに、その読後感は、阿部和重という作者や「ヴェロニカ・ハートの幻影」という作品を超えて破って外にまで広がってしまう。それがおそらく阿部和重の独自性なのだ。ということにしておこう。なお、「プラトン学園」は、ちょうどその中間あたりをずっとさまよっている。


2000.12.4 -- 21世紀の漠然と曖昧 --

●21世紀の生活と思想=きもち悪く生きるか、きもち良く死ぬか、どちらかを選びなさい。さもなくば、きもち悪く死ぬことになります。もちろん、できることなら、きもち良く生きたい。それはわかります。が、それは難しい。NAMはきもち良く生きようとしている、とか?
←こちら(リンク)は漠然とも曖昧とも違うので、ぜひ参考に。

2000.12.2 -- テレビ新時代 --

ちょっと息抜きに

阿部和重ってなんて面白いんだ。「公爵夫人邸の午後のパーティー」「ヴェロニカ・ハートの幻影」、もう読んだつもりで実はまだだったこの二作によって、初めて視界がさあっと開けた。しかも、私のなかでこれまでの阿部体験、「アメリカの夜」「インディヴィジュアル・プロジェクション」「無情の世界」「トライアングルズ」「みなごろし」と、かつてどこか霧のかかった印象だった山山が、きょうはどれも頂上までくっきりしかも見事な連峰となって姿を現した。阿部和重とはこうだったんだ。ていうかおまえ、今までどんなつもりで読んでたのよ。あまりにポイント外してたんじゃないか。情けない。周りの人々が「うわあこのリンゴ赤いな」「うん強い赤だねえ」「こわいほど赤いよ、まったく」と口々に話しているから、私としては、内心ではその「赤い」ってのがどういう意味なのかさっぱり把握できていないくせに、「赤い、か、う〜ん、どうだろう。赤い、っていうのは、そうかなあ、これが、赤いっていうやつなのかなあ。そうだねえ、赤い、かなあ。うん、まあ、赤いな。赤い、赤い」と、かようなデッチアゲによって皆の仲間入りを果たした気になっていたところ、後日たいへんなことが判明した。それはもうあまりの馬鹿馬鹿しさにあきれかえるしかないなのだが、実は、私は視力を生まれつき全く失っており、見えるということを知らず、見えることを知らないことすら知らなかったのだ。ところが、せんだって目の手術を受けましてね、巻き付けてあった包帯がいよいよ外された瞬間、その驚きといったら、そりゃあなた。はああああっ、これかああああっ、ものがみえるってのは、こういうことだったのかああああっ。ずっと当たり前だった方にはなかなか得られない感覚でした。あの「りんごが赤い」っていう、あれ。みんなが言ってたあれも、このことだったんですね。とすると、まてよ、いったい私は、今まで何のことを指して「赤い」なんて言ってたんでしょう。というくらい、阿部和重の凄さが、きょうは突然わかった。ややウソ。


2000.12.1 -- コマーシャルのあとは、きょうの読書です。 --

●小説を読むというのは、考えてみれば、孤独な行為だ。誰もいないスタジアムで全く知らない競技を黙々と見続けるような。どんなルールで、何が展開して、どうなったら終わりか。実況や解説はしてくれない。歓声も聞こえない。勝敗があるかどうかすらわからない。では何故。わけのわからないこのページを、退屈も戸惑いも振りはらい、一行たりとも目をそらさず観戦しようとするけれど、それはいったい何のためだ。●しかし。そもそもプレイをしている作家という人こそが、競技成立への疑念と信念に怯えつつぎりぎりの球を一人打ち続けているにちがいないのだ。孤独というならば、小説を書くことほど孤独な作業はないのではないか。私たちは、球の動きを丹念に追っていくくらいの面倒には、耐えなければならない。かもね。

2000.11.29 -- 世紀を超えて --

●このところ日に一章ずつ丁寧に読んでいた本は、アントニオ・ダマシオ生存する脳』(講談社)。中身については言いません。「魅惑の情動〜こころ発祥の秘境を探ねる11日間の旅」と誘い文句だけ。あとは正月休みにでも実際に出かけてください。近ごろはアジアもアメリカも数万円で往復できる安さですね。でもこの本は2800円。●思い返せば今年、下に書いた金沢創『他者の心は存在するか』という本あたりから始まって、その手の「認知便で行く10日間〜意識の謎にせまる」「ニューロンの島、思うぞんぶん!」といった月日を費やした。ダマシオの本がまた壮大かつ豊饒。そこで眺められる心と身体の景観は初めて体験する種類のもので、大収穫だった。さあもうこれで気分的には満腹、これら一年の軌跡をホウム頁にまとめて、20世紀も幕切れだ。

●しかし、そのダマシオ読書の余勢をかって、渡辺茂『認知の起源をさぐる』(岩波科学ライブラリー)に寄り道。この人は例の、ピカソとモネの絵画を見分けるハトの研究をした人。わたくし的には「言葉とはとりあえずヒト特有の認知システムと思うしかないだろう」という地点に来ていたところに、じゃ動物の認知ってどんなのかという問いに、きっちりとした実験でリアルに答えてくれる本だった。

●ついでみたいにしてもう一冊、信原幸弘『考える脳・考えない脳』(講談社現代新書)もひもとく。・・・しかし知らない本の話ばっかりでつまらんゾと思う方に、本の中身とは別にして耳より情報。永井均『これがニーチェだ』、野矢茂樹『哲学の謎』、川口和久『投球論』これら全部なんと同一の編集者による本だったんですね。その辺の事情は、こちら(リンク)で知りました。なるほどなあ本の編集者という括り方もあるなと思っていたところが、この『考える脳・考えない脳』もなんとその人の担当だった。・・・でその本に戻りますが、著者の信原氏は先に読んだチャーチランド『認知哲学』の訳者であり、同書で展開されていたニューラルネットワークの話が、新たによく理解できた、得したな、さていよいよ帰国か。と楽観していたところ、最終章にきて、<暗算による計算とか「つぎの日曜日は給料日前だ」といった発話をともなう思考とかは、脳のなかで行われているのではなく、脳の外、環境のなかでおこなわれるのです>などということをそれなりの説得力ある理屈でもって述べはじめた!。こりゃもう天地がひっくりかえるほどの驚きの理論だ。「極地探検〜厚い氷を割ってなぜか沸きだす温泉」

●そんなわけで、やっとそれなりにまとまりかけていたこの1年の私の考えが、師も走ろうという時季に、根本的に揺れだしてしまった。困った。これじゃ21世紀に間に合わない。しかたない、年賀状は無理だ。


2000.11.28 -- "愚鈍ながら渾身" --

●上記標語、思いつく。このスタイルで考えようと。魯鈍という言葉もありますね。魯鈍というと私はつい魯迅を思い出す。そういえば「阿Q正伝」というのも変なタイトルだ。私の頁もいずれ迷Qにしようかとか。いろいろ思いつく日。

2000.11.27 -- みなトモダ〜チ --

●「いかなる旅人も一夜を請うたら泊める」じゃ私もお願いします、曾野綾子様。●それにしても「政府は27日、日本での長期滞在の意向を示している前ペルー大統領フジモリ氏日本国籍を持っていることを確認した。フジモリ氏が日本人として 滞在することを希望すれば、法的には認められることになる。しかし、フジモリ氏自身がどのような資格で滞在を望むのかは不明で、」(朝日新聞より・以下略)。このへん、なにがどうなってるのか、私の堅い頭ではわからない。国籍なんてテキトウでいいんだよとアナーキーなことをわめくのは私は好きですが、日本国もそういう方針に転じたかというと、そうではない証拠に、定住外国人の参政権法案が一方で先送りになったりしている。う〜む、やっぱりわからない。わからないついでに、どうだろう、モリ総理に変わってフジモリ総理とか。いやいっそのことフジモリ天皇!。その場合、来年からの皇位を現職のアキヒト氏と争うということで。やはりアメリカ式に国民直接選挙だ。日本のいちばん唐突な日。

2000.11.26 -- これでどうだ --

●このところ脳がどうとか心がどうとか息巻いていますが、それで何が言いたいのだ?と思う場合は、「ブック1」のページに今ちょうど金沢創氏がコラムを書いていて、その第1回あたりが素晴らしき簡潔まとめとして利用できる感じなので、ぜひともリンク(修正)しておきます。

●ついでにどうしても息巻いておきたいのは、すでに触れましたが、清水良典の『作文する小説家』。前述の高橋源一郎や島尾利雄や谷崎潤一郎の話が出てきますが、実は「彼らを小説を書く専門家としてではなく、一環して<書く>ことの本質を問いかけてくる存在として読み続けてきた。」と著者が述べていることからも推測されるように、この本は、つい書かずにいられない人々、さらには、その書くということについてなおさら書かずにいられない人々、たとえばそういう癖のごとくにホウム頁の日記を書かずにいられない人々なら、きっと共感するところ大でしょう。

●息巻き本、まだあって、丹生谷貴志天皇と倒錯』。これはほんの少し読んだだけ、インドでいえば「ボンベイは観光したけど」というくらいですが、鮮烈な印象。「インドは一週間じゃだめだ」「せめて一ヶ月いないと」「いや、住んでみないとわからない」。しかし、あまりだめだだめだと言ってもなあ。ボンベイならボンベイの分だけインドを知った。一週間あれば一週間分だけ、一ヶ月いたら一ヶ月分だけはインドがわかる。ガイドブックならガイドブック分だけインドがわかる。一生住んでもわからないことはやっぱりわからないのだろうし。本もそういうものだ。一冊まるごとでなくとも、一章なら一章分はその本がわかる。表紙とあとがきと書評で、表紙とあとがきと書評の分だけその本がわかる。なお丹生谷貴志は「にぶやたかし」です。丹古母鬼馬二(たんこぼきばじ)ではありません。


2000.11.24 -- 中国では国営企業リストラが熾烈なようですが --

●省庁の大規模な再編が近いそうですね。この前テレビで舛添要一が「国なんて1府4省で充分だ」と大胆に具体的に示していた。内閣府、防衛省、財務省、法務省、外務省あたりは必要だとしても、他はぜんぶ要らないんだと言う。そんなものどれも地方ごとに分割しろと。むしろその方がいいんだと。特に農林省なんて北海道の畑と沖縄の田んぼで全く質が違うというのに、国で一括してどうするんだとあきれ顔。族議員や官僚の利権の温床にしかならないというわけだ。そういわれればその通り。べつに森政権でも加藤幻政権でもいい、なんだったら社民共産政権でもいい、そういうことを一度スカッと断行してくれないものか。●ただ農林省をなくすということは、農林省の偉い役人も偉くない役人もそろって失職するということだ。私は他人事は気にしないのだけれど、それでも、筑紫哲也が「リストラ、リストラというけれど、早い話がクビ切りだ。そんなことが優秀な経営であるかのように、かっこいいことであるかのように語られている。きょうびリストラがファッションのようだが、実はリストラというファッショが横行しているのだ。余計な人員を抱え込まないことしか考えない会社、社会がはびこってはたまらない」といった趣旨のことを述べていて、これも大いに同感だ。●じゃまあ、私がオーナーをしている団体で、元農林省の役人様を雇ってあげよう。今までと違ってちっとは人の心を持った人の身になった働きをしてもらうことを前提として。私がオーナーをしている団体というのは、都庁や区役所や近所自治会のこと。これまで国が独占浪費していた農林省予算を、都や区や自治会が分割して管理するわけだから、君たちの食い扶持くらいなんとでもしてあげる。机と椅子は農林省から持参してきてもらおうか。●つまらぬ話でした。

2000.11.23 -- 使い道 --

●ミリオネアとかいうクイズ番組。司会はみのもんた。問題:紙幣の肖像画で髭のないのは誰? A板垣退助 B福沢諭吉 C夏目漱石 D伊藤博文。手にしなくなって久しいAやDがすぐ思い浮かばないのは仕方ないとしても、Bまでがどこか馴染み薄になってきているのは、いったいどうしたことか。最高賞金1千万円。もらったら、どのくらい仕事しなくていいだろう。

2000.11.22 -- 他人の痛み --

こういうことをすると私の胸も痛む。何故だろう。

2000.11.21 -- 中心点 --

清水良典作文する小説家』(1993)。この中にある「作文のアルケオロジー」という一章は、<近代口語文をいつのまにか「自然」のごとく普及させるに到った巨大な力>の話。何か思い出す。そう柄谷行人の『日本近代文学の起源』だ。あの難しかった柄谷の指摘を具体例で噛み砕いてくれた印象で、こころワクワク。●同書には、高橋源一郎について書かれた「にぎやかな黙示録」という章もある。高橋源一郎が失語症に陥らざるをえなかった事態とはどういうものなのか、そしてその高橋源一郎がそれでも文学を綴り出しそれを我々が消費すらしている事態とはどういうことなのか、その両方について刮目すべき、しかし必ずしも楽観的な絶賛ではない論が展開される。ありがたくて手を合わせたい気がした。●柄谷行人と高橋源一郎。言論が持つ本質的な落とし穴を最も鋭く見抜いていると思えるこの二人。彼らがそれぞれ照らし出そうとしているものは、その強烈な反射光のゆえか、私はなかなか視野に捉えられないが、『作文する小説家』を通して、それぞれの中心点が少し見えてくる。しかも二人の光線の先は実は重なっているのだ、さらには彼らの多くはないがけっして少なくもない先人たちの問題意識とも重なっているのだと信じたくなる。それは清水良典の中心点でもあろう。偉大。

2000.11.20 -- 加藤! --

●熱いフライパンの上で踊らされる猫にコップの水をかける

2000.11.19 -- IT技術で勝手に遊んだり目上の人を責めたりする 100点 --

●素晴らしい→リンクそしてリロードせよ。点取り占いでもあるわけで。

2000.11.17 -- 380円が100円と違うホントの理由 --

●回転寿司に入っていて、ふと、食べ終わって重ねた皿を見ると、380円の皿が交じっている。それも2枚。わざわざ途中下車した駅の街で。

●「人間がサルやコンピューターと違うホントの理由」。長ったらしいが、目下いちばん知りたいことといったらたぶんそういうことだから、こんなはっきりした書名の本があったら手にしないわけにはいかない。で実際、ピンポイントで無駄なく攻めてきて読みやすい。今3分の1まで来たところ。もちろん、その「理由」自体がきっちり示されるわけはないに決まってるが、この究極の「問い」の正体くらいは、いったん見せてくれるのではと期待している。著者ジェームズ・トレフィルという人が物理学者で専門分野とはちょいと違うなあというところも面白い。日本経済新聞社。この本、以前に本屋で遭遇したが購入せず、先日新しく開拓した図書館で再会できた。2000円の価格は、普通に働いているなら高くない。が、普通に働いているなら時間がなくてじっくり読めなかったりする。●関連の読書で、「心にいどむ認知脳科学」(酒井邦嘉著)という本も大当たりだった。これは簡潔にして安価な岩波科学ライブラリーだが、改めて自分で買って階段に積んでいずれ古本屋行きというものナンなので、借りた図書館に逆に預けておいたつもり貯金。


2000.11.13 -- 喋る男 --

さるイベントにて東浩紀氏の話を聞いた。2年あまり前「存在論的、郵便的」の発刊時に見に行って以来のこと。往時に比べれば落ちついて思慮深い口調が印象的、往時に比べれば。●「存在論的、郵便的」は私には難しく未読のまま家の階段に置いてあるのだが、本人が直接語ってくれる話は、2年前も今回も、最後までそれなりに面白くフォローできる。これは何故だろう。もちろん書物の方が講演より内容量が多く高度であるせいかもしれない。しかしもっと本質的なことは、本や論文を介した思考の生成伝達は東氏のような研究者どうしには日常的だろうが、一般人が互いの考えをやりとりするインターフェースといえば、それはやっぱり本や論文ではなく「喋り」であるからなのではないか。●逆に言えば、「喋り」というインターフェースだって、いろいろ無理や省略を重ねたうえで作りあげる人工システムのひとつにすぎない。ただ「喋り」はあまりに平易であまりに普及しているため、天然自然の体系であるかのごとく錯覚されている。なにかの都合で「喋り」というシステムが封じられたなら、我々も仕方なく論文とか小説とか芝居とか掲示板とかそういうインターフェースを使って思考をやりとりするかもしれない。では、もしも言語というインターフェース全体が失われてしまったならば。我々はいったい何を頼りにすればいいのか。そのとき我々は、猿や猫や海豚のようだった時代に持っていたかもしれない旧式の思考生成伝達システムに戻るのだろうか。あるいは、同じ人間の脳の原理から、言語とは全く違った思考生成伝達システムが新たに浮かび上がってこないとも限らない。そう考えるのは、すこぶる刺激的だ。しかしそれって実際どんなシステムなんだ???わからない。ワカルハズガナイ?●この日のイベントは「ハマるメカニズム?」云々と題されたもので、脳科学者やクリエーターに交じって思想系の東氏が登壇するという形だった。イベント本体も東氏の指摘も、私の関心の核心を確実にヒットした。今後半に書いたことはそれに近い。そのあたり、いずれまとめてみたいですが。

●自分の世界観が実はひとつの短い時代や狭い地域に限定されていたかもしれないことに、きょうまでずっと気がつかずにいた者が重信房子であるならば、そのようなことに気が付くきっかけを永遠に失なわれていることを私は恐れる。アナクロな重信房子が横井さんや小野田さんのようにかわいそうな人であるとするならば、ユニクロな私はかわいそうとの同情すら得られない人なのだ。


2000.11.10 -- 文化生活部 --

●このところ繰り返し聴いていたCDは、マーラーの交響曲第5番第4楽章アダージェット(アバド指揮ベルリンフィル)。麗しの旋律。ごぞんじの方は多いでしょう。ただし第1楽章から聴き始めると第4楽章まではなかなか遠い。中国の山奥の村に向かう旅に似て。うねる細道をバスは揺れまくる。上に下に。右に左に。窓には険しい風景が絶えずうつろう。好奇と忍耐の力をいいかげん使い果たしたころ、ようやくたどり着く桃源郷。●中国にはありとあらゆるものがある。いや、そうではなくて、世界の方が、森羅万象の方こそが、中国世界の暗喩なのではなかろうか、現前なのではなかろうか。そんなことを思ったりもする傍らには、辻原登「村の名前」。1990年の芥川賞。読みの魔境に分け入っていく感覚。それは中国を旅行する者だけが信じられる幻。

2000.11.8 -- 大阪にいたとは --

●べつに同時代を生きたわけではないにもかかわらず私はどういうわけかアナクロな左翼の立場をそれでも多少なりとも理解していると自らを理解したい一人である。だからもちろん「重信房子」は「戦後日本革命」や「戦後日本英雄」の正史に位置づけたい。しかしその一方で、共通項を持ちながら「日本赤軍」に比べてはるかに貶められている「オウム」という同時代の出来事があって、この不公平への反感として私はどちらかといえば「ブッシュ」よりも「ゴア」、ではなくて、「日本赤軍」より「オウム」に心の一票を投じていた。ところが「重信房子逮捕」をテレビで見る限り、「日本赤軍」もまた「オウム」と同じく「わからない集団」「はやく始末しなさい」それ一辺倒の扱いではありませんか。アナクロな左翼の立場をそれでも多少なりとも理解していると自らを理解したいのは、私なんかよりむしろニュースを長年扱ってきたあなた達ではなかったのか。●結論。国家はアナクロだが日本赤軍もアナクロで、ついでに私もアナクロだ。こうなったら我々はテレビに合わせてユニクロを着よう!重信房子をフリースのコマーシャルに。撮影地は大阪西成もしくは東京警視庁。

2000.11.7 -- 秋深し隣は何を更新ぞ、と思いきや、もう立冬 --

●この季節、食や眠りが太くなるのは自然の摂理らしい。体重を計ってみよう。●読書も進む時期。しかし記憶知識の皺だけは計量する術がない。パソコン内のデータ量なら常に正確にわかる。質は?

養老孟司が、最近は、人間を脳と遺伝子二つの情報系としてみる、というようなことを言う。「細胞という絶えず変化してやまない存在が、DNAという固定した記号を利用する。脳という絶えず変化する存在が、言葉という固定した記号を使う」=『脳+心+遺伝子 サムシンググレート』(徳間書店・共著)より=。●情報が繰り返し使えるということは、情報や表現というものが流動しているようで実は固定しているということであり、では日夜動いているのは何なのかというと、それが人間のほうである、と。書いた言葉はいつまでも変わらず残るが、書いた人間はどんどん変わってそのうち消える、と。脳や細胞という流動的なものが、言葉とかDNAという固定的なものに合わせているのだと。すなわち人間とは現象であると。

●私という流動的な現象が、時代や地理や職業や通貨やニュースの時間や町内会の決まりやコンビニの商品に合わせて生きている。 ●体も動かそう。しかし流動的であるべき散歩も、自転車という機械や道路や喫茶店というルートに合わせて実施される。


2000.11.5 -- 教科書が書き換えられるような大発見 --

●そろそろなにか出さないと、という焦りからホラ話を埋め込んでしまった、ホーム頁の日記、的?

2000.11.3 -- 人の名前 --

●きょう電車の中で見かけた人。短髪、口髭。メタルフレームの眼鏡。ああどこかで会ったなあ。うーん誰だっけ。思い出せない。トレンチコートの袖から白いシャツのカウスボタンがのぞいている。渋めながら洒落っけのある人だ。たぶん仕事で、打ち合わせのみで成立しなかったような仕事で、一度同席した程度の関わりだったろうか。その人に対面している時の気持ちだけがおぼろによみがえる。彼はフリーのクリエーターかなにかで、私は仕事を依頼したいのだ。こちらが金を払う側だから立場は上だが、境遇や才能はむこうが数段上でそれが羨ましいような、あるいは彼のセンスに合致した発注でもないことが恥ずかしいような。微細に復元されてくるこの体の記憶。しかもどうやら明るく静かなオフィスに私と彼はいる。だったらなんの仕事だ。いつのことだ。いや、これは今思いついた幻なのか、あるいはそういう夢でも見たのか。不思議だ。誰だったのか、まだわからない。

●「情報を捨てる技術」(諏訪邦夫・ブルーバックス)。ちょうど我が頁を整理したばかりであり、参考、共感、多かった。思いついたことをちょっとでも実行するのは「出力」であって、しかも、「出力」こそが最高の捨て方なんだ、などなど。


2000.11.2 -- なんでもメタ化すればいいってもんだ --

奥泉光の「虚構まみれ」というエッセイ集に、こんな一節があった。(引用ここから)・・・何か書きたいことがあって書いたのではなくて、最初からぼくは「小説」を書こうとしていたのであり、その意味では、「小説」を知るために小説を書いているのだとさえいいうるかもしれない。だから、面白い小説が書きたいとぼくが口にした場合、それは小説というものの面白さを発見したいという意味である。小説の面白さは、作り出すものではなくて、書く行為のなかで発見されるものだろうとの直感がぼくにはあって、・・・(引用おわり)●この文の「小説」のところを「旅行」に置き換えると、僕には納得しやすい。・・・何処か行きたいところがあって行ったのではなくて、最初からぼくは「旅行」をしようとしていたのであり、その意味では、「旅行」を知るために旅行に出かけるのだとさえいいうるかもしれない。だから、面白い旅行がしたいとぼくが口にした場合、それは旅行というものの面白さを発見したいという意味である。旅行の面白さは、作り出すものではなくて、旅行をする行為のなかで発見されるものだろうとの直感がぼくにはあって・・・・●同エッセイ集では、彼が最初に小説を書いたときの事情がけっこう素朴に明かされていて、作家の気持ちが本当にのぞけるような気がする。この辺は、高橋源一郎が、常に「なぞをかける人」であるとすれば、奥泉光は、きっと「なぞをとく人」なのだろう。対照的だ。ただし、かける、とく、の違いよりも、そのなぞが何のなぞであるかの違いのほうが重要であって、この二人がかけたりといたりしている小説の謎は同質だと私は思う。昔「ノヴァーリスの引用」(奥泉光の小説)を読んだ時には親近感といったものはあまり感じなかったが、この本を読んで印象が変わった。

2000.10.31 -- 出がらしアメリカン --

●狭さの極地、家の本棚を整理して、古本屋行きの書物をまとめた。その勢いをかって、ホーム頁に載せてきたファイルを整理分類。こちらは物質ではないので、古本屋に出す必要はない。のはずだが、しかし、いろいろがんばって書いてきたつもりが、ちょいと読み直してみると、生来のテキトウさはもとより、なによりあまりの薄味に驚いてしまった。そう思うと、便利なインデックスをこしらえたものの、改めて公表する気が失せてしまう。それでも、デジタル化された私の大半が、このホーム頁に放り込んであるわけだから、ともあれ頁はいずれ私の思考体験の薄味な集積となってそれでよし。●薄味ではない濃いものとは、たとえばこういう頁(リンク)を指す。

2000.10.29 -- ストーカー --

●散歩の成果は種々あって、たとえばかなり前だが、思いがけず蓮実重彦邸を見つけたりとか。そこは幹線道路から離れた通りで、静かで緑が多く、以来定番のコースとなった。なぜわかったかというと表札に「蓮実重彦」とあった。「実」はちゃんと旧字体だった。住宅は小さく上品な造り。ところが、先日そこを歩いたところ、なんと表札がなくなっているのを発見。そういえば、その数日前、玄関前に雑誌らしきゴミの山が二つほど置き捨てられてあったのを思い出した。そうか引っ越していかれたか。●私の本読みとは、どれもまったく蓮実重彦という流れに巻き込まれている。いいかげんにここから抜けだしたく願うが、もがけど、もがけど、清流か濁流かわからぬこの大河の渦は、依然として激しい。●蓮実重彦と柄谷行人の対談「闘争のエチカ」を拾い読みしたりする。1988年。昔の本だ。最後にこんなことが蓮実によって書かれている。(引用ここから)装置でありながら、何の装置だか使用法がわからないものとして小説が存在しているのでなければいけない。そして批評家は、その目的や使用法を心得た人間ではないはずです。ましてや、装置を解読する装置が批評なのでもないでしょう。小説という装置は、おそらく小説家にとってさえ、それが何に役立つか見当もつかない粗暴な装置であり、であるが故に、小説は自由なのです。批評家は、使用法もわからぬままにその小説を作動させる。それが小説を擁護するということの意味なのだと思います。ものわかりのよい小説とは、小説家が、その使用法や目的を知った上で書かれたものにほかなりません。その使用法を心得顔に作動させる批評家が、あたりに安易な納得の風土を蔓延させる。柄谷行人は、そしてある程度までは蓮実重彦も、使用法を知った上で装置を作動させているのだと思われている。だが、われわれが小説を擁護しようとするのは、少なくとも批評が小説の解読装置ではないことを知っており、小説こそが装置だと意識しているからではないでしょうか。(引用おわり)長くなったから、ここまで。●しかし、きょうは冷たい雨ばかりで散歩どころじゃなかった。こちらは半月ほど前に大久保あたりから新宿にかけて歩いた時の成果。▼雑景「1」「2」。使用法や目的はわからない。

2000.10.28 -- まるで旅先の探検のごとく --

●きょうは自転車のカゴに本一冊だけ入れて朝飯に出たが、そのまま家に戻らずうろうろしていて知らない路に出たので、ずっと行ってみたくなった。そうして行き着いたのは、青梅街道と山手通りが交差する中野坂上。ごちゃごちゃした地上げ町だ。背景に新宿の高層ビルが張り付いて迫るだけでなく、近ごろは古い家並みのすぐ脇、右からも左からも新しいビルがにょきにょきと乱立している。今をときめく地下鉄大江戸線の新ピン駅もご近所さんである。さらに、山手通りがどうやら地下との二段構えの首都高速に生まれ変わるとかで、そのための工事もタケナワ。大小たくさんのクレーンが散らばっているのは、まるで途上国のダウンタウン周辺のようで、経済停滞などウソかと思う。そばの一角は東京都自らがサイカイハツを進めていた。陣取りのようにフェンスで少しずつ囲い込まれていく空き地には、猫とカラスしかいない。この殺風景さを写したいと思うけれど、そのつもりでなかった散歩なので、デジカメがないのであった。帰りには中野区中央図書館に出くわす。かなりの蔵書に驚いた。ただし、これもそのつもりで来たのではないから身分証もなく、借りられず。●室内探検の成果もどうぞ。

2000.10.26 -- 放送開始 --

●田中康夫主演「渡る役所は鬼ばかり」第1回「しなやかな名刺」

2000.10.25 -- 0001 --

●トップページにカウンターを付けた。外から見えない仕組み。こちらから無料で提供していただいた。便利。●実はこのページにも別のカウンターがある。いちばん下。こちらも無料だが、小さいバナーを出す必要がある。●独自ドメインもそうだったが、こういうことを知りたい、やってみたいと思うと、情報やサービスはあふれているものだ。

●昼は下北沢を散歩して、夜はネットを散歩する。しだいに中心がどこだかわからなくなる。下北やネットに中心がないのは仕方ないとしても、自分の関心や進路に中心がないのはどうか。


2000.10.24 -- そういえば雑誌「広告」がネットネタの特集をしている --

●我が頁も長くやってると、書き残したものが量だけはともかく膨らんでくる。どうせなら全体を総覧でき、かつ効率よく各所にたどり着ける仕組みを、いまから工夫しておきたい。私はいったい何をぐずぐずといつまでも考えているのか、他人であっても自分であってもそれをすぐ把握できるような。その際、新しく加わった考えは最表面にすぐ反映させたいし、適所に配置して他とのリンクも生かしたい。かといって更新作業にあまり手間どるのはよくない。あときっと大事なのは、こんなことをやりだすと切りがなくなるので、テキトウなところでやめても使え、さらに後から追加もできること。●結局のところ「散らばっていたファイルをフォルダに入れて分類する」というシンプルな手法におちつくのか。そんなわけで、まずはフォルダ「インターネット」を作ってみました。今後増やしていきます。●インデックス構築への熱望は、我が頁だけでなく、もちろん我がパソコンディスクについても、ひいては我が脳についても同様。新しく吸収したつもりの知識情報体験が、ええっとあれどこだっけ、なんだっけ、おやこんなところからあれが、そんなことばかり。●こういうことに着手するのは、やはり独自ドメインを取って気分のみ一新したことや、その話題で坊さん、じゃなくて某さんと会ったせいもある。

2000.10.22 -- タイトル秀逸 --

土屋賢二の「棚から哲学」は、週刊文春の連載エッセーをまとめた一冊。身辺の雑事をめぐる短い文章の中に、ひねたはぐらかしの理屈と文脈が無限ループしていく。ああこれはポストモダン小説の印象か。くくと笑って落ちとなる。●しかし、この人、書き方が軽妙であればあるほど、実際は意外にマジメな人で、それでいて、そういうマジメな大事な領域はここでは出すつもりはないし、出さなくてもエッセーの文章は成り立つんだ、と考えているフシがある。自分の抱える正当な迷いと悩みに対処する際には、ひねたり、はぐらかしたりして、なおさら深みに落ち込むような人では、たぶんない。このエッセーはあくまで良性哲学教授の一芸売文にすぎない。そういうところが文春ぽいか。まあすべて憶測だが、そうであるとして。●一方、ポストモダン小説とは、「ほんとうの迷いや悩み?、あなたそんなものがこの世に実在するとでも思ってるんですか。だいいちそんな恥ずかしいものを、とても人前にさらせ出せるわけがないでしょ」といったフリを大げさにしつつ、そのくせ、書かれた悪ふざけのヘンテコな世界からは、その人を完璧に包み込んでいるとおぼしき心底の迷いや悩みが、それこそぼろぼろぼろぼろこぼれ落ちてくる。小説全体が悪性の迷いと悩みそのものであったという感じで。●ただし、そのようなポストモダン小説を、私はまだあまり読んだことはない。


2000.10.18 -- 着地しない --

●神田川。といえば早稲田からお茶の水といった学生街を流れて隅田川に注ぐ。「あなたはもう忘れたかしら」の歌の舞台も、おそらくその界隈だろう。しかし、この川の始まりはというと、実はもっと西の方、武蔵野の風情を残す井の頭公園にあり、そんなわけで、私の住まいがある杉並区内を、この神田川は地図上では右方向に横切っていく。住宅密集の東京にあっては、ほそぼそとしたこの河川も潤いのオアシスと言ってよく、近ごろ私の散歩コースにうってつけだ。先日も流れに沿った遊歩道をずんずん歩いた。もちろん、なんの変哲もない都会のドブ川、まあ近ごろは下水道が完備したせいか水はそれなりに澄んでいるものの、川底と両脇は例によってコンクリートで固められ、遊歩道を隔てる鉄の柵がぬかりなくどこまでも築かれている。ただ、そういう人工水路の姿としては年季が入っているようで、コンクリの底には藻が生えて、鯉も泳げば、鳥も来る。コンクリの両壁にはペンペンと草も伸びてくる。遊歩道には老人と犬も歩く。犬も歩けばフンをする。フンも落ちればビニール袋に詰められる。ここにはなんらか有機的な循環や法則があるのかもしれない。と思ったら、長靴を履いた男三人がざぶざぶと川に入っているのが見えてきた。彼らはその壁面の草をむしり取る作業に黙々と励んでいる・・・。いやべつに私は人為のサンクチュアリが天然の大河に劣るとか勝るとか言いたいのではないんだ。さて。散歩の帰りは、川から少し外れた路を行く。するとそこには、似たような進化を遂げた似たような顔つきの住宅が繁殖している。屋根からはアンテナが生え、ベランダには植木鉢が咲き、電線や新聞による代謝があり、ガレージには車が一台ずつ生まれ・・・。そのとき私の頭に浮かんだのは、生態系という言葉でありました。●公共事業というのも、食物連鎖の巨大生態系だ。ピラミッドの頂点は官僚かゼネコンか亀井静か。長野県に田中康夫知事が誕生したということは、その揺るぎなき生態系にもいよいよ崩壊の兆しかもしれない。税金を撒いて利権を育てる。そういう自然環境にとって、これは由々しき事態で・・・●なんだか長くなった。体操の床運動のように華麗に文章を綴りたい。しかもフィニッシュを決めると審査採点されてしまうので、いつまでもいつまでもエンドレスで舞い続けたい・・・


2000.10.17 -- 業務連絡 --

●新しいアドレスへようこそ。
●ホームページ=
www.MayQ.net
●メール=略


2000.10.15 -- まるで大リーグボール3号 --

●ドキュメンタリー映画を二つ見た。「あんにょんキムチ」そして「新しい神様」。もうだいぶ前のこと。しかし、感想なかなか複雑にして書きあぐね、しかも私の文章は、毎度のことながら、核心に迫るつもりが、するっと脇にそれていく。勝負を避けるかのように。したがって、あまり期待せずこちらを。それはそれとして、この2作品そのものは、超おすすめであり、中でリンクもしてある。


2000.10.14 -- 言いよどむ --

●最近どんな本を読んでます? 業務上の宴席でそう聞かれた。・・・伊井直行「草のかんむり」、池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」、ダニエル・デネット「解明される意識」、吉本隆明と辺見庸の対談「夜と女と毛沢東」・・・しかし、しゃぶしゃぶ食べ放題の最中に書名以上の説明は難しく、言いよどむ。●「言い淀む」とは、実は、辺見庸が上記の対談で、テレビ番組に出たくない理由を述べる際に使っていた言葉。「人をゆっくり喋らせないでしょう、あの番組は。あれが嫌なんです。テレビに出て一番嫌なのはそれなんです。所与の単位時間でモノを喋らせる。テレビは言い淀むということを許さない世界ですから。しかし人間はやっぱり言い淀むものだと思う」

こちらのページから、私のホームページをリンクしてくださるとの連絡あり。感謝感謝。さっそくブラウズしてみると、たくさんの旅行記のリンク集になっている。●その中に、なんと、昨年の中央アジア旅行で知り合った方を見つけた。ホームページを開き克明な記録を残している。ビザなどの関係でなかなかスムーズに旅行できないこの地域に、単身ガイドブックなど持たずに飛び込み、思いきり翻弄されつつも絶対に引き下がらない執念の道中記は、涙なくしては読めない。しかも私と出会ったあとには、強盗にやられ怪我まで負うという最悪のアクシデントに見舞われる。●実は、むこうも私のホームページの存在を知っていた。サーチエンジンで「狂牛病」を検索したら、私のページが出てきたと言う。旅先で彼は、アメリカの大学に在籍して狂牛病の研究をしていることを私に話してくれた。私はそのことを自分の旅行記に書いていた。狂牛病が取り持つ不思議な再会。


2000.10.10 -- いまさらの読書 --

「薔薇の名前」読み終えた。イタリアの作家ウンベルト・エーコの小説。かねてより評判だけは随所で耳にしつつ、実のところどのような話であるのか、長く見当がつかずにいた。そういう体勢で書物をひもとくというのは、幸せなことだったかもしれない。あるいは小説とは、本来こうした地図なき探検でなければならないのかもしれない。しかも、読み進んでも読み進んでもなお、地図なき探検が深まるばかりのものでなければならないのかもしれない。●読了後すぐさま、「バラの名前」覚書、という本を手にした。なぜこれを書いたのか、どうやったらこう書けたのか。そういう核心に近いことを、なんと作者自らが綴っている。●そうしてついに、「薔薇の名前」およびこの副読本が、じわじわと、しかしはっきりと私に告げてくれる。「この小説はいったい何なのだ」いやそもそも「小説とはいったい何なのだ」という問いが読む者の頭を埋めつくしてしまわないような小説など、ぜんぜん小説の名に値しないのだということを。さらには、それらの問いが、いくら時間を費やして考えても足りないくらい大きく魅惑的な謎であるということを。●あと、浅田次郎の「鉄道員」も読んでます。


2000.10.5 -- ショップのドンキよりドンキな奴 --

柄谷行人がマルクス研究者にとどまる御方ではないことくらい、皆わかっていただろう。ところが、ここにきて、柄谷はついに「マルクス」そのものになってしまった。 革命理論および実践のリーダーである。う〜む。●柄谷の動向が近ごろ不穏だ。このページ(リンク)あたりを覗きつつ興味津々ではあったものの、例によって小難しそうで敬遠するばかりだったところが、そのエッセンスらしきものに、文学界10月号で触れることができた。巻頭に載せられた「言語と国家」がそれだ。ことし6月に行われた講演が元になっているせいか、読みやすい。●そもそも、この論文、はじめは、音声中心でない文字による言語および文学こそが近代国家の形成に不可欠であった、といった話がずっと続く。あいかわらずの鋭く示唆に富んだ切り込みに、読む者の思索はぐいぐい開かれていく。かつて「日本近代文学の起源」を著した意図もあっさり明かしていくのでけっこうラッキーだ。その果てに、やや唐突ながら論戦の方向が変わり、これまでの資本主義経済を支えてきた交換原理がどのような構造になっていたのかの解説へと移る。そして、現代においては「資本=ネーション=国家が三位一体である」と分析する資本主義に、冗談抜きの本気で対抗するため、新しい交換原理として「アソシエーショニズム」というのを打ち出すのだ。「諸個人の自由な契約にもとづき、相互扶助的だが排他的でない、貨幣を用いるがそれが資本に転化しないような、交換」。しかもそれは「もはや表象の批判ではなく、実践の問題」と結ぶあたりが、聞き捨てならない。●やっぱり、あれだろうか、歴史って、けっきょく、まだ終わっていなかったということか。●さあ、みなさまも、文学界10月号を手に入れ、アソシエーショニズム革命に参加しよう。しかし、900円を支払って購入するのでは、文芸春秋の資本主義を利することになりかねない。そこは踏みとどまって、私は図書館コピー機にて柄谷論文を100円と交換した。う〜む。


これ以前