読書習慣



阿部和重「インディヴィジュアル・プロジェクション」。

以前読みづらかった覚えがあるが、今回はすいすい進んだ。話題は本くらいしかないので、あれを読んだこれを読んだとここで語るけれど、そもそも私は量、質ともに読書の足りない人生を長く送ってきた。この1,2年でようやく、そう小説ならば読む快楽の裏門くらいには辿り着いたのかもしれない。

さて、その「インディヴィジュアル・プロジェクション」。「個人的な映写」と訳せばよいらしい。フィルムを一部勝手につぎはぎして上映する映写技師が主人公にして語り手。日記の形式をとっているが、日記こそは、日付順に一方向に秩序正しく流れている、上映されているようでいて、実は、たとえば29日に25日のことを28日の日付で振り返るといった虫のいい操作をずっとやっているわけだ。しかも日記とは、私について私が語ることであり、昔について今が語ることである。それでいて、そうした記述においては、「昔の私について今の私が語っているところの新しい私」のようなものが生まれてしまう、ということに注意せよ。そして、「私」は、「私の記述」は、いちじるしくねじれていく。それが読書「インディヴィジュアル・プロジェクション」全体のイメージとなった。

この小説を再び手にとったきっかけは、渡部直己(文芸評論家)の対談本「現代文学の読み方・書かれ方」を再び手にしたことだった。この本で阿部和重は、「インディヴィジュアル・プロジェクション」についてかなり決定的な種あかしを正直に行っている。五・一五事件のあった1932年の日付で文中の日記が綴られていること。登場人物の名もファシズムと関わる実在者から借りているらしいこと。高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」をたまたま読んで、「それならぼくは、このもうちょっと先をやらなければいけないんだろうな」と思ってデビュー作「アメリカの夜」を書いたこと。「インディヴィジュアル・プロジェクション」の構想における日記という形式への拘りも印象的だった。それらの種明かしが、この食えない印象だったはずの小説を今一度観察してみる意欲につながったと思う。

ただし、この小説が観察できたからこの小説が面白かったのではない。逆だ。小説が面白かったから観察が行き届いたのだ。面白くもない小説を無理して読んでも気が散るだけで観察などおぼつかない。そして、面白くもなく観察もしないのであれば、小説を読むのは時間の無駄だ。有名な観光地をたいして興味の引かれぬままずいぶん歩き回ってみたがひどく疲れただけだった、ということに似ている。

ガイドブックのない探検をしよう、と意気込むその一方で、こうした事前の入れ知恵があれば、旅や小説への快楽はたしかに向上する。ただし、渡部直己は旅行者を戸惑わせるばかりのガイドだ。スケジュール説明もなくいきなりメインの観光スポットに立つ。すなわち老獪なのかというと、そうではない。純真だ。きっと彼はガイドではなく、いまだに町歩きの好きな一人の旅行者、一人の読書者なのだろう。

「インディヴィジュアル・プロジェクション」は家の階段に積んでありました。「現代文学の読み方・書かれ方」もその下あたりに隠れていました。宝物の見つかった室内探検でした。さて、この文章は、あなたがむかし行ったことのある本を再び訪ねてみようと思い立つだけの良きガイドとなるでしょうか。

*画像は、「インディヴィジュアル・プロジェクション」の内容と全く関係のない「インディヴィジュアル・プロジェクション」の表紙と全く関係のない辻仁成の芥川賞受賞作「海峡の光」の表紙。


Junky
2000.10.28

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