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路地に迷う自転車のごとく
▼迷宮旅行社・目次■これ以後
2003.6.30 -- 最後の一線 --
●憲法を尊重したまま自衛隊をイラクに「出す」のは、どう考えても理屈に合わない。放送業界の規制は知ってますが解釈によっては鶴瓶の**をテレビに「出す」のもアリですね、というくらい無理がある。そうすると、「だったら決まりを変えたうえで堂々と出せ」という主張は筋が通っている。「そもそもそれを出して何が悪いんだ」という根本的な問いも避けられない。●その一方で、わざわざイラクまで行ったけど「気分が乗らないから出ない」「帰る」という反則もいいのではないか。それはいくらなんでも非常識か。しかし、きょうび常識なんてどこにあるだろう。常識なんてどこでだれが守っているだろう。●それにしても、鶴瓶の騒動もタトゥーの騒動もたいへんな事件だった。誰もがついつい意見を持ってしまう。自衛隊の派兵をめぐる騒動も、似たような関心を誘うのかもしれない。しかし、「出てもいい」のかどうか、「出るべき」なのかどうか、と問われると、答えに窮してしまう。だいいち、そんなの、出ようが出まいが、どっちだっていいじゃないか。素人がまじめに論じても馬鹿をみる。鶴瓶も、タトゥーも、自衛隊も。……自衛隊も?? ●いや、自衛隊のイラク派兵は、戦争や人の生死に直接かかわることなので、どっちでもいいわけではない。それが常識だ。……常識?●ところで、『a_gent』というサイトにはこうあった(6.28)。《フジテレビ27時間テレビにおける鶴瓶の「チンコ丸出し」事件は、まるでそんな事件などなかった「かのように」すすめられるその後の番組進行の自然さを装った不自然さが、送り手と受け手(視聴者)との間の齟齬を際立たせるかぎりにおいて、件の「t.A.T.u.のMステボイコット事件」とは全く異質のものである。それこそ、番組内において鶴瓶の事件が全くないものとして黙殺されているのと好対照に、さんまを始め番組出演者の何人かがt.A.T.u.のそれを好んでネタに取り上げようとしていた事実からも、それは明らかである。一方は確実に存在しているのに「なかったもの」とされ、他方は人々の俎上に我先にとばかりに載せられる。t.A.T.u.ボイコット事件が明るみにしているのは、その事件を(たとえ「反感」というかたちとしてではあれ)「ネタ」として共有しあうことにより温存される「日本的共同性」でしかない。》ふむふむ。
●さてさて。自衛隊は軍隊なのか。戦地に行っていいのか。戦闘していいのか。――そのような議論こそ、アメリカを筆頭にした「普通の国家」からみれば、まさに共同体内の嵐にすぎないのだ。はい、そのことは、我々自身もさすがに気がついています。しかし、それに加えて、そうした「普通の国家」という発想だって、ちょっと枠の大きな共同体の幻想かもしれないという疑いにも、我々は気がついています。●以上を踏まえたうえで――。国際政治にかかわり生死にかかわる自衛隊の問題だけは、鶴瓶の問題やタトゥーの問題とはちがって、軽んじたり曖昧にしたりしてはいけない問題なのだろうか。まあ「いけない」というのが常識のように思うが、無条件で「いけない」と思ってしまうところに、なにかもっとタチの悪い共同体性がひそんでいる、ということはないだろうか?
●それにしても、鶴瓶の事件もタトゥーの事件も、実際にテレビで目撃できなかったのが残念だ。『タイタニック』は二晩ともずるずる見てしまったのに。こうした映画にアメリカ大衆文化の総力が結集しているとしたら、わが邦のそういうものは27時間テレビなどに粋をきわめているのかもしれない。
2003.6.28 -- 片づけできない --
●こうして日記を書きとめることで、毎日の思考や気分を循環させているところがある。とはいえ、すべてその日のうちに処分できるわけではない。気がかりなものは、とりあえず寝かせておく。するとやがて収まるところに収まる。しかし、ときには、いつまでもラチのあかないことがある。それがあまり長くなったり、いくつも積み重なったりすると、頭の中やデスクトップ、あるいは部屋の中や机の上は、どんどん散らかってしまう。そうして思考や気分の吸入と排出がうまくいなかくなるのだ。つまり日記の循環が滞ってしまう。●今回は、久しぶりに読んた後藤明生の小説『挟み撃ち』が最大のネックだった。もちろん感想をまとめておきたいのだけれど、どうにもうまく処分できない。通常の度をはるかに越えた気がかりなので、そう簡単に袋詰めできないのだ。燃やせるのか燃やせないのかもわからない。蓮實重彦の『挟み撃ち』評(『小説論=批評論』所収)も読んでみたが、やぶへびになった。ゴミ屋敷に埋もれていく人の気持ちが少しわかる。●『挟み撃ち』昔の感想。
2003.6.22 -- やせ細らない作家 --
●島田雅彦『自由死刑』(1月に文庫化)。自殺を決意した男が、AV女優と温泉めぐり、グルメ三昧、アイドルと逃避行、銀座で買い物、等々。ちなみに主人公は35歳で、連作開始時(96年)の作家と同年。悪辣で豪勢な夢想とサスペンスに浸るのは楽しいが、これはもしやセレブな島田雅彦の本気願望かもと思うと、ちょっとバカバカしい。●自由死(自殺)という深遠な問いを徹底追及しつつ娯楽性も忘れない、というよりは、休暇ドライブを楽しみつつ深刻ムードも味わえる作品。『東京カレンダー』『サライ』『一個人』といった中年贅沢雑誌に、パブリシティーを兼ねて連載したとしても成立しそう。まあ堅苦しくなくかえって面白かったのだけれど。●島田雅彦の知性と文才は、今なお「時代を担う」のポジションとして余人には代えがたいようなことになっている。このくらいの意地悪な感想など平気、平気。さらに期待。
2003.6.20 -- ただの小説の話 --
●吉田修一『熱帯魚』(文庫化)。表題作のほか「グリンピース」「突風」が収められている。●どの作品も、人物と情景がきっちりした実在感で迫ってくる。けっこうヘンテコな人物像や関係性がちりばめられ、ややこしい事態がどんどん移り変わっていくのだが、いずれの場面も、その心情や関係の微妙な彩りや変化が、いうなれば小説を読む「頭」より「心」のほうにスムーズに浸透してくる感じなのだ。なぜかというと、たぶん、それぞれの出来事すなわち人物・事物・情景とその動きを、絶妙に切り取ったうえで等身大に描写していく文章のほうが、語りや独白で肥大化させて説明するような文章を十分に上回っていることの成果だろう。それによって読者は、この小説の世界から目をそらす隙がなくなってしまう。滞りなく共感しながら最後まで読み進んでしまう。…とまあ、このような説明ではない描写に浸れる状態こそが、幸福な小説読みの「心」というものなのだ。というわけで、私の説明よりも、具体的に『熱帯魚』を読むべし。●吉田修一の株、急上昇。前に『パークライフ』をあっさり貶してしまったので、もう一回読み直そうかとも思う。●ところで、ブログ化の傾向を強めるウェブサイトを語るのに、「分散」という重要なキーワードが浮上してきた。ウェブでは今や、話題や議論は、あるいは認識や概念も、それぞれ分散しながら生成し、常に更新をくりかえすといってよい。中心や境界や終点を探しても見当たらない。ブラウズする側も、好きなところを好きなように読み、もちろん何かを書き加えて拡張してもよい。●これは、一冊の小説本を読むのとは明らかに対照的だ。小説を読む者は、見知らぬひとつの世界だけに時間や意識を没入させながら、たった一筋の文章を初めから終りまでリニアにたどるしかない。だから、いまどき悠長に小説を読んでみるかという選択に、かなり慎重になるのは仕方がないことかもしれない。●それでも、ときには、自律性なんて否応なく奪われてしまうような一方的な小説の読書にこそ、ひたってみたくもある。もちろんそこまで委ねられる相手はめったにいない。吉田修一はその数少ない一人になったかも。次は長い長い小説を読ませてほしい。
●分散のキーワードは、ごぞんじかもしれないが、次のページなどに。→(1)分散ジャーナリズムとしてのウェブログ(2)「自律分散」を考える
●(以下またもや長い…)なお、『熱帯魚』を読んで感じたことは、たったひとつの小説世界にも実に多様な要素が含まれているなあという、当たり前の事実だった。そうなると、ウェブ上のコミュニティーにおいても、たとえば新聞などに載った政治や社会やITのニュースが話題になる程度には、一遍の小説がもっと話題になっていいんじゃないかと思えてくる。ところが実際は、小説というトピックは、あまりそうした広がりを成していないように見える。これはなぜだろう。●理由1=小説はニュースほど読まれていない? 理由2=最近の小説の世界は、私たちの実際の世界をあまり反映していない? さあどうだろう。●あるいはこうも考えられるのではないか――。ニュースの場合、私たちが共有する現実という一般的な世界がまずあって、個別のニュースはどれも、その世界にだいたいうまく配置して議論できる。そうして一般的な世界がまたひとつ編みあげられていく。しかしそのとき、ニュースの当事者がまとっているはずの特殊な内実は、詳しく知りえないし、私たちが一般的な世界を理解したり議論したりするにはむしろ邪魔なので、捨て去られてしまうところがある。●ところが、小説に表れてくる個別の主人公、個別の事情、個別の出来事は、一般的な世界の材料として登場するのではなく、まさに特殊性や個別性そのものとしてありありと描かれる。良い小説であるかぎり、主人公は、架空のなんでもない人物にすぎないのだが、その人物でしかないような世界をまざまざと生きている。だから、その具体性について理解したり議論したりすることで、一般的な世界がうまく編みあげられていくとは、必ずしも言えない。●まあ早い話が、小説は、ニュースを理解し議論するシステムやスタイルでは語りにくい、あるいは小説は理解や議論がそもそも難しい、ということになるのかもしれない。
2003.6.19-2 -- 当たり前の報道? --
●男子大学生5人が集団で女子大学生をレイプしたというニュース(読売・朝日・毎日)。こういう事件にかぎり女性のプライバシーは報じられずにすむ。これが5人に殴られたとか、5人に財布を奪われたといった被害なら、マスコミは女性の名前と住所を迷わず暴露したのではないだろうか。まあ、財布を盗んだくらいなら、事件そのものがニュースにならず世間も騒がないのかもしれないが。●強姦だけは暴行や窃盗とはちがって特別に卑劣だ、特別に悲惨だ。我々はなんとなくそう感じている。でももしかしたら、そこには、女性という特殊な性を守ろうという漠然とした善意だけでなく、女性という特殊な性を守ろうという漠然とした悪意もまた横たわっているのではないか。●この問題をくっきり照らすような見解があった。松浦理英子が、いみじくもこう述べたというのだ。「レイプは女性に対する最大の侮辱」であるとは「私は口が裂けても強姦されて膣が裂けても言いたくない」。その内容とフェミニストがそれに反論した詳しい経過が、次のサイトにまとまっている。ぜひ読んでみてほしい→(1)「強姦研究」。(2)レイプ神話と「性」。松浦のこの図抜けた洞察は、もうむかし92年のものなのだが、積年の疑問をついに氷解させる閃きを有している。先日『ヘリオテロリズム』で紹介されていて初めて知った。●それはそうと、レイプ容疑の男どもは名前と住所がそろって暴露される。「ざまみろ」と我々はつい思う。法律を犯して逮捕された者にはこのルールが一律適用されているようだ。しかし、警察に捕まったからといって、ついでにマスコミにも捕まったからといって、どうして名前が勝手に公表されてしまうのか。そういう根本的な疑問がある。私の頭がおかしいのだろうか。でもこの疑問は捨て去らないでおこう。今はまだ納得できる答に達しなくても、いつか、先ほどの松浦のような慧眼に出会って、謎が解けるかもしれないのだから。
●これにちょっと関連する話が、アサヒ・コムの子供向けページにあったので、それも紹介しておこう。池田中学校の事件で、死亡した児童や家族の写真を掲載した理由は何か、との問いに、こう答えている。《このような場合は、「肖像権より報道の自由が上回る」として写っている人の承諾なしに新聞に載せています。社会に広く知らせる必要があると考えるからです》。う〜む、子供だましとはこのことではないか。《事件や事故が社会的関心が高いもので、報道することに相当な理由がある場合は、本人の承諾なしに撮影・公表することが認められてきました》というのだが、少なくとも私は認めたおぼえがない。●なんでもかんでも知りたいという本音と、なんでもかんでも知られたくないという本音とは、まず相いれない。それだけのことではないか。だから、勝手に知らせる側は、勝手に知られる側をどうあっても踏みにじってしまうのだ。その自覚だけをちゃんと示せばいいのだ。レイプ容疑の5人が、どこに住むどんな奴で、どんな大学に通っているのかを、もちろん私はくだらない関心から知りたいと思う。かといって、それを社会に広く知らしめることに「相当の理由がある」などとは全く考えない。
●ところで「強姦」という用語は、昔は新聞では禁じられていたと記憶するが、今は使うようだ。良いのか悪いのかはともかく、なにごとも変化するということだ。報道の当たり前感覚もずっと今のままではないだろう。
2003.6.19 -- 薄味が濃い? --
●久しぶりに小説をいくつか読んだ。まず伊井直行『お母さんの恋人』(新刊)。●実は私はこの人の隠れファンだ。いや、ちがう、私はべつに隠れていない。隠れているのは伊井直行のほうだ。デビュー20年。こんなに面白いのに、こんなに話題にならない。なぜだ。甘いとも苦いとも決めかねるうっすら独特の味わいが、読後の評価を定めにくくしているのだろうか。前作の『濁った激流にかかる橋』も、ひとつの町を舞台にした連作だったせいか、「誰が何をする話」とひと括りにはできず、ぼんやり不可解な後味を残した。もちろんそれが『濁った激流にかかる橋』の魅力で、収まりどころが見えないからかえって、どこまで読んでもやめるわけにいかないのだった。●そこへいくと、今回の『お母さんの恋人』は、17歳の高校生が36歳の見ず知らずの女性に恋い焦がれ追いかけるという物語だ。「噛めば噛むほど変な味」は同じだが、甘酸っぱさがひとつ引き立っている。今度こそ「おいしい」と評判を呼ぶかもしれない。ドラマ化も可能。●この小説を読んでいく楽しみは、たとえば『センセイの鞄』に近いかなと思っていたら、川上弘美が朝日新聞に書評を書いていた。『お母さんの恋人』の奇妙さを、《幸福への指針》がない、つまり《作者自身の考えや社会的前提や小説それ自体から自然にわき出てきてしまうものとしての、ある指針》が希薄なのだ、と評している。なるほど〜。
2003.6.17 -- 誰が何に囚われているのか --
●公園トイレ壁に「戦争反対」で起訴 初公判で「不当だ」 (アサヒ・コム)。●「こういう奴には、ひとこと言ってやりたい!」。そう思った人も多いだろう。でもその前に、このサイト『落書き反戦救援会』をざっと眺めてみよう。もしかしたら、ひとこと言う気が薄れるかもしれない。あるいは、人によっては、なおさら激しいひとことを言いたくなるかもしれない。●同サイトによれば、《落書きの内容は「戦争反対」、「反戦」。そして大きく「スペクタクル社会」》だったという。もし、この落書きが「夜露死苦」とかだったら、ここまで騒動になったり、救援会が立ち上がったりはしなかったのだろう。ということは、この一件は「反戦問題」なのか? ●いや、これはやはり「落書き問題」だ。というのは、落書きが、まったく後ろめたくなく、ハタ迷惑でもなく、書けば書くほど世間や警官に褒めてもらえるような行いだったなら、「戦争反対」であれ「夜露死苦」であれ、誰もトイレの壁に書きつけたりはしないのだから。●落書きの当人は、イラク攻撃当時の社会情勢について、こう述べている。《文化も政治も経済も「専門家」に任せきりで、「観客」であるしかないばかりか、茶番劇の「エキストラ」に動員されてしまいかねない。この社会がスペクタクル社会だということ。それ(=スペクタクル社会)は退屈だということは知っている。知っていることを知らないふりをする必要はない。不当な人々はいない! スペクタクル社会が廃棄されるのだ! ・・・・・・といったような思いがあり、たぶん落書きをしたのです。》●ちなみに、同サイトによれば「スペクタクル社会」とは《多くの人々が受動的な観客の位置に押し込められた世界、映画の観客のようにただ眺めることしか残されていない、資本主義の究極の統治形態》とのこと。●私は、彼の洞察や動機がおおよそうなずける。しかし、そうした茶番と退屈の社会が、落書きによっていくらかでも廃棄できるのだとしたら、それは、落書きという行為が、見つかれば叱られたり捕まったりする非日常的な冒険であるからにほかならない。だから、この程度の咎めは初めから覚悟のうえだったはずだ。検察の仕打ちはやりすぎだと思うが、「やりすぎだからいけない」というのでは、落書きの本義は死んでしまうのではないか。●とまあ適当なことを書きながら、つくづく思う。イラクは遠い。この世界が「スペクタクル社会」なら、アメリカ軍もイラク市民も、こんど赴くかもしれない自衛隊員も、落書きの彼も、私にとっては、見せ物の域を出ない。彼を救うことも必要だ。しかし、彼はいわばスペクタクル社会から現実の裁判へと一歩脱けだしたのだ。あいかわらず救いがたいのは、むしろ私たち、私かもしれない。
2003.6.15 -- 悪態の系譜 --
●ナンシー関が死んで1年(12日)という。河出書房の特集本(2月刊)にうながされ、『秘宝耳』『耳部長』などを堪能していたところだった。加えて、町山広美のインタビュー(99年)が最近ネットで話題だったことがあり、二人の共著『隣家全焼』も噛みしめるように読んだ。●悪態のかぎりをつくせば批評に至るのか、批評をとぎすませば悪態に至るのか、ともあれ、この容赦ない正確さが薫陶したものは大きい。ナンシーの血脈は、たとえばウェブサイトに、一定の口調や態度を特徴づける形でまちがいなく受け継がれている。●ただし、テレビという宿痾は、ナンシーや町山の毒薬に、勝るとも劣らない。芸能人のおぞましい瘴気は日々絶えることなく、ナンシーは24時間、孤軍奮闘だったことだろう。●それに比べると、日々ウェブサイトで接する非有名人のコンテンツには、おぞましいものもあるけれど、素晴らしいものも実に多い。テレビと違い、悪態よりため息をつく毎日だ。
2003.6.13 -- 右や左の論者さま --
●『〈癒し〉のナショナリズム』(小熊英二・上野陽子)。●小熊さんによる第一章「「左」を忌避するポピュリズム」。新しい歴史教科書をつくる会が、なぜ「右」に、なぜ国家や歴史といったナショナリズムに傾いたのか。そのメカニズムを「なるほど」とうなずける的確さで説明している。●藤岡信勝さん、大月隆寛さん、小林よしのりさんの発言を取り上げ、彼らはたいして「右」でもなかったのに、「左」を嫌ったがゆえに「右」を好んだのだ、と分析するところがポイント。しかも、旧来の「右」は旧来の「右」の言葉で彼らをひきつけ、旧来の「左」は旧来の「左」の言葉で彼らをたたいた。だからその言葉はピントぴったりではなかったにもかかわらず、彼らはその影響をかぶって、結局よけい「右」に傾いてしまった、というのだ。《…批判のまなざしを浴びるなかで、まなざされるとおりの存在、すなわちまなざす側が想定したとおりの存在となっていった》。●このほか、社会の現状への異議、あるいは「戦後民主主義」への批判が、60〜70年代なら「左」の言葉に回収されたのに対し、つくる会のそれは「右」の言葉に回収された、という見方も示されている。●しかし、小熊さんの『〈民主〉と〈愛国〉』は、「悪いナショナリズム」だけでなく「良いナショナリズム」も可能ではないか、といった立場を打ち出していたように思う。で、つくる会はもちろん「悪いナショナリズム」というわけだろう。しかし、つくる会のナショナリズムの、どこがどう悪いのかの説明は、この章では不十分だ。だから、つくる会に新しい良いナショナリズムを見つけたと考えた人々には、この論考は本格的な議論の提案とはならなかったのではないか(初出は『世界』98年12月号)。それとも、つくる会なんてトンデモ集団なんだから「なぜ悪いのかなんていちいち説明しなくてよし」というのが、今や私たちの共通認識なのだろうか? ●それと、つくる会は「左」を忌避したというけれど、小熊さん自身は中立的なようでやっぱりどこか「右」を忌避していないだろうか。詳しく例示できないが、同論の結論部分や同書の序文からはそう思える。しかも、「左」の忌避は理由を検証すべきだが、「右」の忌避は良識的な選択だから検証はいらない、と考えているようにもとれる。つまり、つくる会がもしも「右」ではなく「左」に回収されていたなら、小熊さんはこれほど危惧しただろうか、という疑問はわいてくるのだ。●もしかしたら、つくる会は、そうした、なぜ「右」の忌避は当然なのか、なぜ「右」の忌避は問題にされないのか、という問いも投げ掛けていたのではないだろうか。
●ところで、貴方は「右」ですか「左」ですか。――それは「右」や「左」が何を指すのかによります。――だいいち「根源的な思想」が聞きたいのか、「表面的な好き嫌い」が聞きたいのか、どっちですか。ごもっとも。だが、そこをあえて漠然としたまま質問に答えるならどっちだろう。●私は、どちらかといえば「左」に入れてもらったほうがマシだ。でもそれは、せいぜいマシという程度だ。実際に、新聞やテレビで有識者や運動家、政治家の言動に触れているかぎり、「左」とみなされる言論や運動の多くは、つまらない、くだらない。「右」とみなされる言論や運動の多くも、つまらない、くだらない。そんななかで、つまらない「右」やくだらない「右」が非難されるほどには、つまらない「左」やくだらない「左」は、なぜか非難されない。私には、全体の状況がそういうふうに映っている。たぶんそこが小熊さんとはちょっとずれているのだろう。
●上野さんの卒論だったという第三章。つくる会に完全に批判的でもなかった上野さんは、地元の末端グループにいわば二重スパイとして潜入し、グループの集まりにたびたび顔を出しながら、メンバーの生活や思想の調査を敢行する。ある日、会合のあとの二次会で、しこたま飲んだ上野さんは、幹事T氏(44歳)のアパートに誘われ、そして……。そういう展開ではないので注意。しかし、どこか民俗調査風、あるいは、仮に主人公の語りをどんどん入れたら小説風にもなるなあと思いつつ、面白く読んだ。
●訂正連絡(毎度毎度もうしわけありません)
×藤原信勝さん→○藤岡信勝さん
2003.6.12 -- KIMIGAYO総覧騒乱(というほどでもないけれど) --
●6.8に「君が代」のオルタナティブ、とか書いた。じゃあその実体かもしれないものをまず直感しよう、ということで、→「君が代」編曲、変奏 小リンク集
2003.6.10 -- 完璧カツカレー --
●稲葉振一郎『地図と磁石』(HotWired Japan)で紹介されていた、岩井克人『貨幣論』。読んで見た。もう10年も前の本だが、貨幣の本質を完璧かつ華麗に捉えきっているという印象だ。論述のきわみが味わえる。●こちらに書評をまとめた。「論理そのもののような貨幣」。
2003.6.9 -- 俺様おどり --
《このページはリンクフリーではありません》「株式会社yosanet」
《このページはリンクフリーではありません》「YOSAKOIソーラン祭り公式サイト」
《このページはリンクフリーではありません》「Infomation Guide」
《このページはリンクフリーではありません》「YOSAKOIソーラン厳選100選」
《このページはリンクフリーではありません》「お祭りサポート企業」
《このページはリンクフリーではありません》「オフィシャルビデオ4000円」
《このページはリンクフリーではありません》「yosanet 理念」
・・・・・・・・・・・・・・・・・●見るページ、見るぺージ、ことごとくなので、唖然というか、藁然としてしまった。●さて、どうしてYOSAKOIのサイトなんか見たのかというと、以下のネタを知ったことによる。(ネタ元=『wtbw』「YOSAKOIソーラン祭りの何様きどり」←『クー。』)
●YOSAKOIソーラン祭りの開催を、『Brain News Network』というサイトが報じたところ、組織委員会から、ものすごい勢いでお叱りがきたというのだ。●《広報委員会に所属していない団体がまつりに関する写真を掲載することは「写真肖像権の侵害」に当たる》《まつりの取材に関わる報道各社は全社「広報委員会」に所属し、同委員会での取り決めに従って取材活動を行っているため、所属外の団体に対しては一切取材を認めていない》●何様きどりというか、俺様おどり。●ちなみに、この祭りは、共催=北海道新聞社・読売新聞社北海道支社・朝日新聞北海道支社・北海道日刊スポーツ新聞社・札幌テレビ放送・北海道放送・北海道テレビ放送・北海道文化放送・テレビ北海道・エフエム北海道、後援=NHK札幌放送局、という。●もうひとつちなみに、『Brain News Network』は、過去、YOSAKOIソーラン祭りについて、「腐敗の源泉」と題する連載記事を書き続けてきたようで、おもしろい。●なお、今回の一件について、『Brain News Network』は読者には詫びているが、べつにYOSAKOIソーラン祭りの組織委員会には謝っていない(そりゃまあ、当たり前だろう)。
●まあ、もうどうでもいいのだが、公式サイトには、こんなことも書いてある。《【YOSAKOIソーランの祭りの意義】・自由でかつ自己実現が可能な、貢献ができ、存在意義を感じられる全く新しいコミュニティである。・都市社会における市民性の回復を目指したコミュニティである。》●そんなこと言いながら、やっぱり、《このページはリンクフリーではありません》。
2003.6.8 -- 7:20キックオフ --
●近ごろ「君が代」が歌われるシーンといえば、サッカー日本代表、テレビの試合中継だ。各選手は、なんでそこまでというほどカメラに迫られるが、歌うでもなく、歌わないでもなく、モジモジ、モゴモゴ。いつもこれを見るのが、なんだか、いたたまれない。●…もし「君が代」とは別の歌が国歌に制定されていたなら、この場は収まりがつくのだろうか。…でも、それは「君が代」問題の解決ではなく、回避にすぎないのかもしれない。…まあべつに、「君が代」の問題を今ここで解決しなければならないわけではないのだから、素知らぬふりでサッカー観戦したからといって、ことさら非難される筋合いもなかろうが。…ただ、「君が代」をいったん忘れると、こんどは国歌の是非という根本問題が浮上してくる。「君が代」をスルーできても、国歌はスルーできない。ゴールは遠い。…いや、そんなサッカー用語にたとえたからといって…。●と、毎度このあたりまで首をひねっていると、「君が代」セレモニーは終わる。●いつだったか、工藤静香の「君が代」独唱というのもあった。しかし、ああいうのはよけい複雑に居心地悪い、というのは私だけだろうか。誰がどう歌っても「君が代」は聴きようがないのか。それで思い出すのは、やっぱり忌野清志郎の「君が代」だ。→こちらのサイトから視聴できる。この熱唱だけは、直感的にすがすがしい。どういうことなのだろう。錯覚か(単に清志郎が好きなだけ?)。
●「君が代」のオールタナティブというのは、ありえるのか? ありえたとして、それにはどんな意義があるのか?
2003.6.5 -- 落ちついたので、蒸しかえし --
●在日コリアンとは、この国にとってどのような存在なのだろう。前々からいろいろ思案しているけれど、先日「はてなダイアリー」のキーワード「日本人」が話題になったことがきっかけで、またあれこれ首をひねっている。
2003.6.1 -- 結線館 --
●『圏外からのひとこと』が、現代を幕末や明治維新になぞらえていたけれど、さしずめ『Hot Wired Japan』などは藩校に似た役割が期待されるのかもしれない。風雲急。そんな時代変化を察知し、中央の支配層(幕府やマスコミ)とは別個に、新しい知性、人材を登用して改革を思案する。「黒船なにするものぞ」。そう、黒船とはたとえばブログだ。いや、ブログの黒船は『Hot Wired Japan』が手先になって呼び寄せたとの噂も瓦版にはあった。じゃあ「尊王攘夷」……Joi? ●新しめの経済学についても、俊英がそろい踏みだ。最近は『ケイザイを斬る!』を習いに行った。師範の野口旭先生は、同じく師範の池田信夫先生に襲撃されたりもしているが、それもまた幕末情勢のややこしさだ(池田屋事件?)。●『ケイザイを斬る!』はデフレの元凶について3回に渡って講じた。そのおかげで無学な私もはっきり悟った。「日銀が悪い」。…いや悟ったのはそれだけだ。でも何も分からないよりはるかにマシではないか。たとえば「朝まで生テレビ」でも、政治や社会がテーマであれば、その対立点におおよそ見当がつき、左席がなるほど「左」か、右席はやっぱり「右」だ、とどうにか納得できるのだが、経済となると誰と誰の主張がどう近くてどう遠いのか、さっぱりだったのだ。が、『ケイザイを斬る!』を読んだので、次の「朝生」が少し楽しみになった。●その勢いで、野口師範の『ゼロからわかる経済の基本』(講談社現代新書)を読んだ。これまた、「週刊こどもニュース」に負けない平易さだ。本当にゼロから教わった気がする。基本を知っている人なら天を仰ぐほどの基本だったのではないか。私の経済知識も「0」から「0.8」ぐらいまで上昇。いやまずは「1」に近づくことを望んだのだから、成果は十分だ。『ケイザイを斬る!』にあった「インフゥレタァゲッチング」って具体的にどうやるのだろうとの興味がわき、そのあたりを詳しく知りたかったのだが、そうした記載はなかったので「1」をやや下回ったというわけ。●稲葉振一郎師範の『地図と磁石』も以前からだいたい拝聴している。これは『ケイザイを斬る!』と違って初学者向きではない。十倍は頑張りが必要だ。が、得られる知識も十倍だから、まあしかたなかろう。今回から「マルクス主義総まくり」ということらしい。これも実に面白かった。今さら『資本論』ファンになってしまいそうな、いやそれどころか、マルクス主義者にまでなってしまいそうな面白さだ(もちろん稲葉師範の狙いはそんなところにはない)。●『黒船なにするものぞ』(柳田昭)は書名です。
■03年5月■日誌 archive
著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)