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    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2003.7.31 -- 賭け時(1600円) --

●もう20年も昔かと遠い目になる、浅田彰構造と力』。今回はなぜかすいすい進み、ラさんやドゥ=ガさんの考えがふしぎによくわかる(竹田本のことがあって読み返そうと思ったのだが、デさんにはあまり触れていないのだった)。しかし、きのうも朝から家で読んでいて、ふと思った。「この納得の仕方は、人間や社会の謎がポストモダン思想によって解明できたというよりも、いかんともしがたいポストモダン思想が、すでによくなじんでいる人間や社会の姿に当てはめることでどうにか把握できる、そういう逆さまの事態ではないか」と。●そのあと外出しつつ、阿佐田哲也麻雀放浪記 青春編』を少し読む。映画は見た(こちらは19年前か)が、原作は初めて。冒頭チンチロリン(さいころ賭博)をしている。ツキや運の流れというものがサイの目に出るのだから、それを読みとれるかどうかで勝負は決まる。緊張して肩に力が入ればサイの目は崩れる。そのような法則の存在が揺るぎない信念をもって独白される。ここで思ったこと。「ギャンブルとは、論理や物語のかたちをとるからこそ成立し興奮できるのではないか。理り(=断り)もしくは語り(=騙り)だ。もし本当にサイの目が偶然ではないとしても、それがたとえば微積分だの三角関数だの指数だの対数だのを山ほど含んだ方程式であったなら、その法則は論理や物語としては実感できないだろうから、存在しないも同然だ」。●さて、嘘だろと言われるかもしれないが、事件は帰宅後に起きた。こんどは内田樹映画の構造分析』を開く。短いまえがき、第1章の導入部、合わせてほんの数ページ。その時点で、あっと驚く。内田さんが満を持して述べていることは、きょう上記2冊を読んで考えた「 」内のことに、ほとんど合致するじゃないか! …ありえない。チンチロリンなら「4・5・6」の目が3回、いや30回は続くほどの吉事。サイコロの狡知。●というわけで、本日の趣旨。(1)内田さんのまえがきは、またしても群を抜いて素晴らしい(本文に比べてではなく他の書き手に比べて)。内田さんだけは思想のツボをほんとうに取りだせる不世出の哲人なのだ。(2)内田さんを褒めているようで、微妙に私を褒めている。(3)この3冊の出会いは、恐るべき必然であるが、あまりに複雑怪奇な関数なので、ここには記せない。●内田樹という運がまわってきた人類は、今とてもツイている


2003.7.29 -- 流動する日本、過去と未来 --

●キム・ジョンイルの拉致や圧政は許せるはずがない。毎度ひとをコケにした威嚇にも腹がたつ。それはそうだ。しかし、そうした怒りが、おなじみの「日本国」という枠組みや「日本人」という自意識を鮮明に呼び起こしてしまう。ブッシュの高圧的な支配に抵抗するにも、今ならイラク特措法について悩むにも(賛否はともかく)、つい似たような発想に立ってしまう。このところずっとそんな情勢に押されぎみだった。迷いがつのる。●たしかに、キム・ジョンイルやブッシュをやっつけようと思えば、政府首脳や国会の動きが軸になるのかもしれない。そこに「日本として」「日本のため」という発想が起こっても不自然ではない。そのときに抱いている「日本国」や「日本人」の観念も、エスノセントリズムに彩られているにせよ、まるきり無根拠だとは思わない。しかし、そのおなじみの観念だけを疑わずに固定化し強化し普遍化させていくような傾向は、とても嫌だ。●なぜか。ひとつはもちろん、国や民というものが事実として流動する存在だからだ。もうひとつは、今ある排除や対立そして戦争といった現実を回避できる数少ない方策が(ないかもしれないが)あるとしたら、それはやっぱり、国の「内」と「外」といった図式が、互いの民のあいだで、少しでも揺れて、ずれて、ぼやけていく方向にこそ見出せるだろうと、模範的にも信じているからだ。

●とはいえ、「今ある日本とはちがう日本」と抽象的に言うだけでは、説得力に欠ける。そんななか、網野善彦さんが書いた『「日本」とは何か』(講談社 日本の歴史00)は有益だった。●網野さんは、「日本」とは7世紀末に成立した国の名であると言う。《特定の時点で、特定の意味をこめて、特定の人々の定めた》起源の存在をまずはっきりさせるわけだ。そして、その日本の古代から中世までを中心にした実態を解説しつつ、はじめの領土は九州中部から東北南部までに限定されていたこと、海外や地方勢力の動きで分裂や倒壊の危機に瀕してきたこと、同じ国とはいえ社会の性質は西日本と東日本で大きく異なるのをはじめ均質でなかったこと、などを指摘し、「日本」や「日本人」という観念の永続性や自明性の幻想を解こうとする。また巻頭には、東ユーラシアの地図が南北を逆さにして掲載されている。これを見たうえで「日本は孤立した島国ではなかった」「日本海は大きな内海だった」と説かれれば、一目瞭然なるほどと思い直すことになる。●過去に目を向けることで、日本という国の流動性、多様性のイメージが大いに膨らむ。同書はそのような体験を与えてくれた。

●そうすると、未来に目を向けたイメージ作りということもありえるはずだ。佐野正人さんという研究者が書いた「日本に寄せて――またはポストコロニアルな円環をめぐって」という論文は、まさにそうした刺激を与えてくれた。●佐野さんは、2050年の2人の若者を空想することで、ありえるかもしれない日本を模索する。2050年の日本では《大阪の分離主義団体「ナニワの魂」が、東京弁を使う者たちを襲撃する事件が相次いでいる》。若者の一人は《東北人としてのアイデンティティが強い》男子学生。もう一人は女性で《コンピューター時代の到来とともに(…)世界じゅうに移住していった》インド系の二世。二人は恋人どうしだ。●この短い寓話をはさむことで、本旨である《閉じられた統一体系としての「日本」ではなく、複層的に世界へと拡散し、離散する多重的な空間としての「日本」》《世界の様々な要素や層が、多層的に交錯し、集中する求心的な空間としての「日本」》が、ひとつの具体像を結ぶ。●また、網野さんが西と東の視点で日本を分析しているのと対照的だが、佐野さんは、日本のイメージを描くのに「北」と「南」という海外にまで及ぶ視点を設定する。日本とは《「北」へと離散し、追われ、落ち延びていった記憶》と《「南」からの移住者=亡命者が文明を携えて渡ってきた遙かな記憶》の複合や円環ではないか、と。●もう一点。韓国在住の佐野さんは、そうした北と南というグローバル性をはらんだ日本の姿は、韓国から眺めると不思議によくわかると言う。そこにはきっと、あのアジアの地図を逆さに見た驚きに近いものがあるにちがいない。

●なお、網野さんと佐野さんは、実は、戦後の日本史学について、ある微妙な一点で疑いを共有している。これもまた興味深い。佐野さんの言葉としては、《教科書問題に見られる歴史的アイデンティティの追求は、きわめて反動的なものだが、それに対抗して進歩的な歴史的アイデンティティというべきものは提出されているのかは大きな疑問である》というもの。●さて、ここからは私の勝手な言い分になるが――。日本を無闇に賛美したり侵略を肯定したりするのは、まさに反動的だ。しかし、その反動を危惧し封じ込めようとするなかで、日本を考える作業が特定の過去にあるいは裁きの文脈に固定される傾向や、日本を考える作業そのものが抑制される傾向があったのではないか。進歩的と言われる側の歴史研究は、「日本という可能性」をほんとうに進歩的には考えてこなかったのではないか。それもまた反動。私は、日本の動かぬ過去、あるべきでなかった過去をつつみかくさず知りたい。それと同時に、日本の動きうる現在、ありうべき未来を、精いっぱい考えてみたい。

●さて、佐野正人さんの「日本に寄せて――またはポストコロニアルな円環をめぐって」は、『儚(das Ephemere)』というCD-ROMに収録されている。『批評的世界』の杉田さんらが発行したもの。ほかにも、ウェブ上でおなじみの人を含めたくさんの書き手のエッセンスが詰まっている。●『儚(das Ephemere)』について●佐野さんのサイト『ポストコロニアルニュース


2003.7.26 -- 大人/子供 の 仕事/遊戯 --

●哲学とは労作か、弄策か。それはともかく、竹田青嗣の労作『言語的思考へ』を読んだ。ポストモダン思想を乗り超えようという一冊。●感想こちらに。


2003.7.25 -- 進め!電波労連 --

最低賃金で1カ月生活体験 千葉労連。こういう話が「へぇ↑」というより、なんとなく「はぁ↓」なのは、なぜだろう。ふと、人間の盾の戦場体験を思いだした。●ちょっと話が飛ぶけれど―。自分の何万円かのお金を戦争反対や途上国支援の活動に捧げる人はいても、たとえば公園にいる家無き人や、隣近所にいるはずの職無き人、やる気無き人に、そのお金をそのままあげるような人はいない(ように見える)。それはなぜだろう。戦争こそは世界で最も重大かつ切実な問題だからか。●私は、ときどきイラクのことを重大にも切実にも感じない自分を発見すると、「なんということだ」と哀れになりニヒルになり、あげく、寝る。しかしそれはそうと、ホームレスやリストラのことを重大にも切実にも感じない自分、イラクの人があまりよく見えないのと同じように、ふだん見ているホームレスの人もあまりよく見えない自分は、いったいどうしたらいいのだろう。●千葉労連の方々。今回浮いた金を、首を切られ家も無くした見知らぬ労働者仲間に、あるいは実際に最低賃金でCDも化粧も我慢している労働者仲間に、誰でもいいから、ぱっと捧げてみるという体験はいかがか。私自身もたまにはそういう体験をしてみてはいかがか。●誰に何の文句が言いたいのか、わからない話でした。そういうときはスケープゴートが欲しくなる。今なら日本道路公団総裁あたりだ。「税金泥棒!」 落書きなら藤井邸の壁に。

●気分転換に坂口安吾を読む。●《…アンリ・ベイル先生の余の文学は五十年後に理解せられるであろう、とんでもない、私は死後に愛読されたってそれは実にただタヨリない話にすぎないですよ、死ねば私は終る。私と共にわが文学も終る、なぜなら私が終るんですから。私はそれだけなんだ。》「教祖の文学」より。●安吾はしかし、50年後どころか同時代に喝采を浴びたようだ。その安吾が死んだのは昭和30年(1955年)。数え年でやっと50歳。ではその50年後というと、え〜と、あれ、まだあと2年! 人生は短し、著作権は長し。余の文学は五十年後に無償配布せられるであろう。●《私はただ、うろついているだけだ。そしてうろつきつつ、死ぬのだ。すると私は終る。私の書いた小説が、それから、どうなろうと、私にとって、私の終りは私の死だ。私は遺書などは残さぬ。生きているほかに何もない。》「私は誰?」より


2003.7.23 -- 無頼派 --

●生きてる人間というものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間というものは、自分でも何をしでかすか分らない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当り、遁走、まったく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想というものがそこから生まれて育ってきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが(http:// )だ。【問い】括弧の中に、いまにも中断しそうなお気に入りサイトのURLを入れよ。―坂口安吾「教祖の文学」より―


2003.7.18 -- 昭和は遠くなりにけり(民主党) --

ピチカート・ファイヴの『さ・え・ら ジャポン』。21世紀最初の日(2001年1月1日)に、これをリリースし、そして解散したとのこと。初めて聴く。●日本、日本主義、日本性(日本製)がテーマということになろう。ジャケットは日の丸風。「君が代」演奏もさりげなく入る。心配しなくてもナショナリズムなんて今どき完璧に脱構築されてますよ、何世紀だと思ってるんですか、と言えるだけの実質を聴かせてあげよう。もちろんそうした要素だけでは語り尽くせない多彩さが、ピチカート・ファイヴであり、日本でもあり。横山剣(カウリスマキ映画でも注目の)が歌うかと思えば、ふかわりょうがジョークを飛ばす。どの曲も洒落と意外性に満ちて楽しい。●《高度成長ニッポンを外から眺めた昭和のジャポニズムを、いまこの地点から眺め下ろすことで、現在の日本を乱反射させて見せる、という異化作用の仕掛けなのかな。》とは、川崎和哉氏のコメント(『OOPS!』)。●『アメリカでは』というおかしな歌があった。『君も出世ができる』という東宝ミュージカル映画(1964年)で使われたという。《アメリカでは仕事は仕事 遊びは遊び》《アメリカでは自分は自分 人は人》《アメリカではテレビはみんな英語でしゃべる》《アメリカでは笑うときには笑うけど アメリカへゆけば誰も意味なく笑わない》《日本ではほしがりません勝つまでは》《アメリカへゆけば顔を洗うにもコカコーラ》てなことを、雪村いずみとデューク・エイセスが歌いまくる。原作詞=谷川俊太郎。なんというか、高度成長期の始めから、こうした自分の姿も、天下のアメリカさんのことも、すでに脱構築できていたということかもしれない。リミックスこそ日本の得意?●これが「ナショナリズムをも題材にした音楽」であるとするなら、天皇在位10周年式典にGRAYを招くなどは「音楽をも題材にしたナショナリズム」ということになりそうだが、それはまったく別のことだとふつう思う。「落書きを利用した反戦」と「反戦を利用した落書き」。←こっちは、ぱっと見、区別できない。


2003.7.15 -- テレビの人の心の闇 --

こういうのは「やらせ」じゃなくて「うそ」と呼ぶべきですね。●それでふと思い出した。ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて神軍』(原一男監督)で、途中まで登場していたある人物を、なにかの事情でカメラがそれ以上追えなくなった。そのことを主人公の奥崎謙三が映画のなかで説明しはじめる。そして、たしか自分の妻をカメラに向かって紹介し「そこで、ここからは、その人物の代わりをこの妻にやってもらいます」といった意味のことを告げる。そのうえで、そのとおり妻がその人物の役をぎこちなく果たしながら、映画は何ごともなかったかのように進行していった。そんなふうに記憶している(ビデオなどで実際に確認されたし)。その場面はじつに奇妙で「ドキュメンタリーなのにどうして?」というとまどいが当然生じるのだが、同時に「これはきわめて妥当な措置なんじゃないか」という納得ができるものだった。●いかにも真実らしいことが真実なのではない。当人にやらせること、他人に演じさせること、そうした方法だからといって真実が表現できないわけではない。逆に、まるきり演出しないからといって、無条件に真実が表現できるわけではない。そのままの真実というようなものがどこかにあって、そのままの映像はそれをそのまま映し出している、といったことではないのかもしれないのだ。●やらせやうそがないか、作る側も見る側も疑いは捨てないほうがいいし、やらせやうそがないようなものがありうるのか、という疑いも捨てないほうがいい。しかしそれ以上に「真実とか事実というようなものが、どうしてありえるのか、ほんとうにありえるのか」といった疑いをまず持ったほうがいいのではないか。宇宙の始まりとか、死というもの、時間というもの、そういうものがあるとしたらどのようにありうるのか、ほんとうはないのではないか、といったほどの疑いとして。●というわけで、テレビの人たちが「事実」とか「真実」とかいうことを無条件に重々しく語るとき、奥崎の妻が演技をしたのよりはるかにずっとマヌケに見えるのだ。だいたい「12歳殺人少年の心」という真実だって、もちろん実用的な便宜上の真実としては有用なのだろうが、心というような説明が確実な根拠をもつのかどうかなんてきわめて疑わしいのに、この人たちはほんとうに疑ったことがないのだろうか、心のなかで「けっ」と舌打ちしているのではないだろうか。……心のなかで?。●こういう「テレビのマヌケさ」という言い方の鉾先にも、なにかほんとうの真実があるのではなくて、ウェブ日誌の実用と便宜としての真実があるだけなのか。


2003.7.10 -- 2ちゃんねるとは何か --

●幼児を突き落として殺した犯人が中学1年生だったからといって、もうさほど目新しさを覚えず、その中学1年生の氏名らしきものが2ちゃんねるにアップされたと聞いても「さもありなん」としか思わない自分に驚くけれど、そうした書き込みを削除せよと法務省が2ちゃんねるに直々に要請したというニュースには、現在地の標識があるのかもしれない。

●その2ちゃんねるとはいったいどういう現象なのか。ずっと気がかりの中心にあったこの問いに、『美しい日本の掲示板』(鈴木淳史)は、まことにツボをついた解答例を示してくれる。最終的なまとめはこうだ。2ちゃんねるとは《匿名や特殊な言語使用がもたらすマターリ化や、はかなさを象徴する祭りや「一切はネタである」という姿勢など、日本という文化の底流に位置するもので構成されており、またかつて存在していた地域コミュニティの復活ともいえる。それは、同じメディアの大手マスコミのウラを張れるだけの瓜二つの構造を持っている。》こうした分析が、2ちゃんねるのスレッドや文体の模倣を織りこんで必要以上に楽しませる形で展開され、実際に2ちゃんねるにハマっている者を大いにうなずかせる。●そのなかで著者は、2ちゃんねるを「連句」あるいは「落書」に見立てている。とりわけ「落書」は重要なキーワードであり、日本の歴史において落書が生まれた背景や落書が果たした役割を指摘しながら、2ちゃんねるをその系譜に位置づける。そしてここに生じているやりとりは、あえて「議論」ではないのだと最後に判断している。

●さて。あれよあれよという間に話題沸騰となった高校生いたずら書き込みの一件だが、あの不規則コメントも、そこからいくと、とうぜん「議論」モードとしてではなく「落書」モードとして書き込まれたのだろう。逆にサイト主がそれを受け入れなかったのも、コメント欄に書き込まれたいと期待していたモードが「落書」ではなく「議論」だったから、ということになろう。●さらには、私の日誌をふくめて数多く投じられた反応は、高校生の書き込みを「まあいいんじゃない(おもしろい)」と捉えるか「いやけしからん(つまらない)」と捉えるかによっても、大きく分かれてくるが、この傾向は、ほかでもない2ちゃんねるという現象を「おもしろい落書」と感じるか「つまらない議論」と感じるかと、かなり相似しているのではないだろうか。

●一方、反戦落書きについてだが(6日の日誌に続く)。起訴された青年が描いたという「戦争反対」「スペクタクル社会」の文言がまとっているものや、彼を支援するサイトがまとっているものも、いわば「議論」のムードではないか。逆に、2ちゃんねるの戯れ言につらなる「落書」のムードなら、同青年が「戦争反対」を書く前にすでに壁に描かれていたという「悪」「タツ」の文言のほうがまとっていたと思われる。●「スペクタクル社会」という分析には深いものがあるようだが、『美しい日本の掲示板』が示す「2ちゃんねる社会」や「落書社会」という分析にも、それに負けず現代日本を透視するだけの新鮮さがあって、捨てたものではない。

●もうひとつ。2ちゃんねるを語るのに「匿名性」という特徴がしばしば挙げられる。ただしそのばあい、正体を隠して好き勝手ができるという「匿名性」だけでなく、かの『自由を考える』(東浩紀・大澤真幸)が抽出していた「匿名性=偶有性」という概念をも、2ちゃんねる現象のうちに探ることが可能ではないだろうか。『美しい日本の掲示板』は、2ちゃんねるに無数の書き込みをしていく名無しの書き手たちが、誰が誰であるとは不可分の状態であるとして、江戸時代の百姓の群れになぞらえている。このあたりから「匿名性=偶有性」という概念が改めて思い浮かんだしだい。(カンチガイでなければいいが)

●なお、著者の鈴木淳史には『クラシック批評こてんぱん』という名著があるのはごぞんじだろうか(参考までに)。おかしなことに、今回またもや訂正の紙が挟み込まれているではないか。「ネタじゃないのか」と疑いつつも、つまりこれはふたたびの「神降臨」であると受けとめるとしよう。


2003.7.6 -- スペクタクル社会という思考の巧緻もしくは狡知 --

●公衆トイレの壁に「戦争反対」などの落書きをして逮捕された青年が、建造物損壊罪という異例の容疑で起訴までされてしまった事件(6.17の日誌でもふれた)。●第一回公判の「青年の意見」と「弁護人の意見」がそれぞれ掲載されている(『落書き反戦救援会』から)。どうやら青年は「戦争反対の落書きはそれほど悪くない」というのにとどまらず「戦争反対の落書きをするのは自然だ」という立場のようだ。弁護人はそれを法律的に正当化しようとする。●これを読んだ平均的な感想とはどういうものだろう。「いくらなんでも調子にのりすぎ」「ちょっと頭おかしいんじゃないの」といった反感の声がそこかしこから聞こえてくる(幻聴?)。●しかしその場合、次のように想像することも必要だろう。警察や検察がこの落書きをよくある落書きとして簡単に処理せず、あえて建造物損壊として起訴した背景には、それと同じ反感があったのだと。この青年のやり口や言いぐさは、なんか普通とは違うぞ、「調子よすぎだぞ」「頭おかしいぞ」と、警察や検察もまた直観したのだと。言い換えれば、この青年と弁護人の意見を読んで「調子よすぎ」「頭おかしい」と憤慨するときは、だいたい警察や検察と同じ感覚に立っているということになるだろう(それをよしとするかどうかはさておき)。●しかし、さらに想像を進めることができる。それは、青年の落書き行為や法廷での主張は、そもそも、そのような警察や検察のやり口や言いぐさこそが(あるいはそれと同じ世間の感覚こそが)「調子よすぎ」「頭おかしい」と直観しているところから生じているのではないか、と。●だからここには、お互いがお互いの現実感を「調子よすぎ」「頭おかしい」という根拠で相対化し否定する、という構図が隠れているように思える。そうして私たちも、この事件に関心を持てば持つほど、「調子よすぎ」るのはどっちだ、「頭おかしい」のはどっちだ、というふうに、自らの思考を同じ構図に巻き込ませずにはいられなくなる。●裁判というものは、白黒をはっきりつけるためにあるのだろうから、こうした構図をあえてくっきり浮上させるのは仕方のないことなのかもしれない。建造物損壊という深刻な容疑を覆そうとすれば、青年と弁護人もいくらかアクロバティックな理屈と戦法を取らざるをえないのかもしれない。そして、私たちが行なう議論というものもまた、宿命的にそうした構図にならざるをえないような実感がある。●いろいろ書いたけれど、実をいうと、私の最終的な関心は、青年の行為や主張の根底にある一定の信念(あるいはこだわり)自体にある。それはつまるところ「資本主義や国家制度を相対化しつつやがて否定しよう」といったポストモダン的左翼系の信念ということになるだろう。それは「スペクタクル社会」という考え方の基礎でもあるだろう。それがどのように有効なのかということを、それがどのように限界があるのかということと同時に、えこひいきせず、ゆっくり考えてみたいのだ。しかし、そうしたところにたどりつくまでには、「おまえこそ調子よすぎ」「私こそ頭おかしい」といった構図や応酬の嵐に、外からも内からもさらされそうで、かいくぐっていく自信がない。●だからいつも、なんとなくお茶を濁すようなことを述べて終わってしまう。たとえば――。青年の弁護人の意見には《この公共の壁には、すでに「悪」「タツ」という落書がなされ、放置されている状態であった。被告人は、そのような意味不明の落書だけの存在では落ち着かず、なんとしても自らの反戦メッセージを書く必要を感じたのである》とあるのだが、そうなるとこの弁護士さんは、下の日誌でふれた、個人サイトのコメント欄にいたずらな書き込みをした高校生のばあいでも、ちゃんとかばってくれるだろうか。――てなぐあい。●ともあれ、落書き〜グラフィティ〜いたずら書き込み、といったトピックが同時期に生じたことは面白い(『はてなの杖日記』『錯節』など参照。*追加=『ARTIFACT』)。事情は微妙に違うが、それぞれ考えさせられ、何か言いたくなる。そういうところに私の世界観や思想らしきものが試される! …と、なんだか大げさになるのは恥ずかしいが、しかし、こうした身近で具体的な例にこそ大げさに考えるだけの実質がある。世界観や思想が試される、なんていう局面とはまったく無縁の人生も悪くないが、そういう大げさな局面が本当に持てるとしたら、きっと今みたいな時にちがいない。●なお、弁護人が表現の自由とともに無罪の根拠にしている刑法35条については、たとえばこのページが参考になった。


2003.7.4 -- 笑うべきか、憂うべきか(どっちを?) --

●「なんとなくかくいたずら 発覚」(ネタ元『ARTIFACT』)●私だったら、自分の日記ページに、どこかのヤングが「今日は交互にあしをだせば前に進めることが発覚した 感動してしまった」なんてキュートな一文を書き込んでくれたら、もうそれだけで一日幸せで、次はいつくるかいつくるかと、もうわくわくものなのだが。●書き込みをした高校生は、たぶん、ちょっぴり非日常なことを「なんとなくやってみたかった」というところだろう。●で、サイトの主であるtakahataさんもまた、インターネットの知識を生かせる対応の実践を「ここぞとばかりやってみたかった」というところがあるのではないか(憶測)。●……と思いきや、どうもその程度の話ではない。takahataさんはこう書いている。《これをこのまま野放しのままにするわけにはいけない。次世代のインターネットを担う彼らに対して、やっていい事悪いことの判別ぐらいはつけられるようにすべきである。そうでないと、未来のインターネットが楽しく便利なものにならない可能性があるからだ》。通告を受けた学校側も、《早速調査を行い、当該生徒を絞り込み、事情聴取の後、生徒の処遇について教員で会議を開くなどしておりました》。《生徒にネットワークやネットワークコミュニティへの認識あるいは、想像力が不足しているために、画面の向こうに血肉の通った自分たちと同じ人間がいるのだという認識がなかったことが最大の原因であり…》 ←こんなのすべて悪い冗談だと言ってほしい。同サイトに寄せられたコメントを読んでも、「?」さんの意見がほとんど理解されていないことに、愕然とする。●やっていいことと悪いことの区別、あるいは、やってもらってムカつくことと嬉しいことの区別。私は全然できていないのだろうか。う〜む、なんかどこかのサイトにイタズラの書き込みでもしたくなってきたよ。


2003.7.2 -- Can you speak English ? a ritoru. --

●ちかごろ英会話の番組(NHK)がやたら増えた気がする。先日のある番組では、「よろしくおねがいします」に当たる表現は英語にはないんだよ、無理やり訳すとこんなヘンな英文になるんだよ、と笑っていたので、なんとなくシャクにさわった。そうかとおもえば、大蔵官僚だった榊原英資がゲストで出ていて、「英会話を上達させたかったら、日本語を英語に訳してはいけません。はじめから英語で考えなくてはいけません。その背景にある考え方や文化を身に付けなくてはいけません。日銀も円じゃなくドルで計算しなければいけません」と、ありがちなアドバイスをする。そのあとなぜか、ベッカムが来日して会見したときの映像が流れて、なんでもベッカムはイギリスでもなんとか地方の出身なので、ほら「third」が「fird」という発音になってるでしょ、それから「every day」を「エブリダイ」って言ってますね、これって若者言葉なんです、と得意げに指摘する。…ああそうですか、そりゃよかったですね。「38へぇ」。●こっちが世界標準=アメリカ標準に尻尾を振らざるをえないのをいいことに、アメリカの言葉は、あまりにずかずかと入り込んでくる。アメリカの軍隊やアメリカの通貨のごとく。だいたい「よろしくおねがいします」だって、こっちの背景にある考え方をそっちが身に付けようなんて気はさらさらないでしょう、アメリカさん。●ところで、ベッカムといえば、「めちゃいけ」の矢部っち寿司に出ていた。番組の意図などわかるはずもなく戸惑うばかりだろうに、タレント陣に翻弄されながらもその場の空気にずいぶん配慮していて、ずっとあいまいに微笑していたようすが、私たちのメンタリティーに似ていて、ふしぎに親近感をいだいてしまった。そのへん、たとえばタトゥーなどとは正反対だ。●グローバルというのは、建前がそうでないとさすがに困るということであって、本音はたがいにローカルでもどうにかなるのではないか。というか、ある部分はローカルでしかありえないのが現状。●ハロー注意報。


03年6月

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著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)