岩井克人『貨幣論』



sihei no syasin



論理そのもののような貨幣



● 国境の駅にピロシキ売りが来て まだ見慣れなき紙幣をためす

[評] この人は列車で旅をしていますね。どうやら旧ソ連圏のどこか、おそらくカザフスタンあたりの領内に入ったところでしょう。中国西域にあるウルムチから、寝台夜行でやってきたはずです。どうしてそんなことがわかるのかというと、この短歌を作ったのは私だからです。

海外に入国し両替をして初めて手にする紙幣ほど奇妙なものはない。まるでおもちゃのお金だ。100テンゲ? 絵柄も単位もなじまない。本当に使えるのか。何が買えるのか。しかしやがて、荒野のただなかに駅が現われ、列車が停まる。食べ物をかかえた地元の女性がホームをやってくる。私はその初めての紙幣を、初めて差しだす。すると相手は、その奇妙な紙幣をたしかに受けとり、代わりに温かいピロシキをくれた。

お金とは不思議なものだ。この紙切れが、どうして…。しげしげと眺めたことは誰にもあるだろう。不思議どころか、なんかみんなオカシイんじゃないか? ――いや本当にオカシイのだ。そのオカシイが、どうオカシイのか、なぜオカシイのかを、一筋だけの理屈でメカニカルに説明しきった一冊が、岩井克人の『貨幣論』だ。

貨幣にはなんの根拠もない。なにか本当の価値といったものの代わりとして機能しているのではない。すなわち《貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである》。この一点を、角度をかえながら何度も詳しく説く。その内実はもちろん同書を読むにかぎるが、その描写なら、たとえばこんなスタイルだ。

《…あるモノをすべてのひとが商品のかわりに貨幣として受け入れるのは、そのあるモノをいつか貨幣として手放してさらにべつの商品を手に入れるためであり、そのあるモノをいつか貨幣として手放してべつの商品を手に入れられるのは、そのあるモノをすべてのひとがいつでもその商品のかわりに貨幣として受け入れてくれるはずだからである。貨幣が貨幣として流通しているのは、それが貨幣として流通しているからでしかない。》

《モノとしての商品をいくらせんさくしても、そのなかに神秘はかくされていない。(…)もし商品世界に「神秘」があるとしたら、それは商品世界が「ある」ということである。それは、もちろん、その商品世界を商品世界として成立させる貨幣が「ある」ということの「神秘」である。》

《ひとつの奇跡がおこっている。「本物」の貨幣としての金(*金塊)のたんなる「代わり」として導入された金貨が、その金に成り代わってみずから「本物」の貨幣となってしまったのである。(…)逆に、金は、じぶんの影(*金貨)によって、その「本物」の貨幣としての地位をいつのまにやら買いとられてしまっているのである。》

《…貨幣の系譜――それは、まさに、「本物」の貨幣のたんなる「代わり」が、その「本物」の貨幣になり代わってそれ自体で「本物」の貨幣となってしまうという「奇跡」のくりかえしにほかならない。》   *「本物→代わり」という奇跡が、「…→金塊→金貨→兌換紙幣→不換紙幣→…」としてくりかえされる。

《無価値なモノ(*貨幣)と価値あるモノ(*商品)との交換というモノの次元での不等価交換が、一万円の価値と一万円の価値との交換という価値の次元での等価交換の装いのもとに、そっくりそのまま未来へと先送りされることになる。すなわち、貨幣の価値を支えている他人の欲望とは、どの他人にとってもべつの他人の欲望でしかなく、一度たりともそれをじぶん自身の欲望としてひきうけてくれる人間が登場することはない。》

《貨幣が今まで貨幣として使われてきたという事実によって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくというこの期待によって、貨幣がじっさいに今ここで貨幣として使われる。過去をとりあえずの根拠にして無限の未来へむけての期待がつくられ、その無限の未来へむけての期待によって現在なるものが現実として可能になるのである。貨幣ははじめから貨幣であるのではない。貨幣は貨幣になるのである。すなわち、無限の未来まで貨幣は貨幣であるというひとびとの期待を媒介として、今まで貨幣であった貨幣が日々あらたに貨幣となるのである。》

この描写、ふとエッシャーのだまし絵を思い出させた。貨幣とは、あのようなからくりで生成し、機能し、浮上している、のかもしれない。

『貨幣論』の快感は、誰しもうすうす気がついている「貨幣のオカシサ」というものが、そのまま「貨幣の本質」として、まざまざと解き明かされていく体験にある。だが、それにもまして素晴らしいのは、「何かの正体が言葉による説明として理解できる」ということの原理と原型を、この体験が示してくれることだ。つまり、「何かがわかった」というのは「何かがすっかりわかった気がする」ということにほかならないのではないか、ということ。

そのせいだろうか、貨幣の謎を解くこの原理は、別の謎にも有効にちがいないと思えてくる。言語の謎との共通性は、著者自身が指摘している。ほかにもたとえば、芸術が芸術であることの根拠とか、恋愛の思いと思われの交換とか。あるいは、過去が実現したように未来も実現するだろうと思い込むことでどうにか現在を実現させられるという構図からは、人生という謎まで解けるのではないだろうか、とか。

《貨幣についてまともに論じたければ、「貨幣とは何か?」という問いにまともに答えてはいけない。もしどうしてもそれに答える必要があるならば、「貨幣とは貨幣として使われるものである」というよりほかにない。》

この本はまた、マルクスが『資本論』で示した独創的な着眼点の一つ(ほかにも独創は多いはずだが)を、『資本論』なんて聞きかじっただけという読者にも、するすると初めて包括的に理解させてくれる。

独創的な着眼点とは「価値形態論」というやつだ。「20エレのリンネル」がどうのこうのというあれだ。『資本論』という長い書物が、そうした商品の分析から入っているおかげで、『資本論』のまずは第一巻を開きしばらく読んだがそのまま閉じて忘れたことにしているという人にも、なじみのある話だろう。「20エレのリンネル」の話は、なにか途方もなく根源的なことが書いてあるようでうまく整理できないままわくわくするのだけれど、あのわくわくは「なるほどこういうことだったか」と、『貨幣論』を読むと納得できる。(そういう『資本論』解読本は、ほかにもあるのかもしれないが)

とにかく、『貨幣論』は、その独創的な着眼点を『資本論』から借り、それを徹底させることで貨幣の本質を説く。だが同時に、『資本論』がその独創的な着眼点を『資本論』のなかで徹底させなかったという事実をも、岩井さんは論証してしまう。私ほどにも詳しくない方のために補足すれば――。マルクスさんは「額に汗して働いたその価値が、商品には宿っているし、鉱山から掘り出した金塊にも宿っている。その価値は金貨にのりうつるし、紙幣もその価値を超えるものであってはまずい。つまり、商品の価値も貨幣の価値も、その根拠にあるのは労働の価値なのだ」と考えていたらしいが、それは間違いだということを、岩井さんはこんこんと説くのである。それが、「貨幣には根拠がない」という理屈を述べることと完全に重なるのである。

だからこれは、偉大なるマルクスに敬意を払った、偉大なるマルクス批判でもあろう。もちろん、マルクスに敬意を払うといっても、たとえば旧ソ連の社会主義などとはぜんぜん違う話だ。また、マルクス批判といっても、その旧ソ連の社会主義を批判するのとはぜんぜん関係がない。関係あるとすれば、旧ソ連のピロシキ売りくらいだ。そういうことからいけば、「マルクス=レーニン主義」の経済体制ではなく、もしも「マルクス→イワイ主義」の経済体制があったとしたらどんな世界なのだろう、といったヘンな夢想もしたくなるのだった。

この本の後半では、「売る」と「買う」の関係、「需要と供給」の関係、インフレとデフレ、といった経済学の基本の枠組みが、「貨幣の謎」を通して改めて説明される。あるいは、この説明を通して「貨幣の謎」が改めて解明される、といってもいい。

今日本はデフレらしいので、「デフレはインフレよりおぞましい」という主張が前面に出てきているみたいだ。だからいっそう興味ぶかいのは、『貨幣論』が、資本主義社会が本当に崩壊するとしたら、それは恐慌ではなく、ハイパー・インフレによる、としていることだ。

その理由は、人々が商品を買わずに金をためこむのは、貨幣の価値を信じているがゆえだからだ、ということになる。デフレや恐慌とは、貨幣の流動性(この先いつでもなんでも買えること)を信じている、つまり資本主義の永続性を信じていることを意味する、というのだ。逆に、この貨幣の流動性に対して、なんの欲望も示さなくなったときは、資本主義の本質的な危機であり、それがハイパー・インフレーションなのだと、はっきり位置づける。

ちなみに、この論が『批評空間』に掲載されたのは91年〜92年(単行本化は93年)という。10年後の今は、岩井さんは何を思っているだろう。最近の本が読みたくなってきた。

さて、インフレとデフレを比較した必然のようにして、「売り」と「買い」が対称的ではないという話も、独自に述べられる。

一般に、金さえあれば何でも買えるが、商品は誰にでも売れるわけではないから、通常「売る」ことは「買う」ことよりも難しい、と考えられている。しかし岩井さんは、この本でくりかえし見てきた貨幣の本質を、もう一度よく見ると、「買う」ことの困難こそが浮上してくると言うのだ。

その論述はだいたいこうだ――。

モノを売ることは貨幣共同体に入ることであり、モノを買うことは貨幣共同体から出ることである。ということは、《商品の売り手は、どのようなばあいでも、貨幣共同体にとっての「異邦人」となる自由だけはもっている。》つまり、商品を売らずにモノとして持っていることにすれば「異邦人」になれる。《これにたいして、すでに貨幣を手のなかにもっている商品の買い手には、そのような自由はのこされていない。なぜならば、いまじっさいに貨幣を手にもっているということは、すでに貨幣共同体と運命をともにしてしまったことを意味するからである。》《貨幣を手にもつ商品の買い手は、その意味で、つねに「危機」のなかにおかれている。なぜならば、いま眼の前でじぶんの欲しいモノを手にもっている人間が、貨幣共同体にとっての「異邦人」であるという可能性を原理的には排除できないからである。》

とはいえ、われわれの周りに「異邦人」はまずいない。遠い異郷を旅しても、そのような「異邦人」には出会わない。おかしな紙幣と引き換えに、みんながピロシキを売ってくれる。ところが、ハイパー・インフレにおいては「異邦人」から逃れられなくなってしまうのだ。

《ハイパー・インフレーション――それは、ひとびとの眼の前で貨幣を貨幣で「なく」してしまうことによって、貨幣が貨幣で「ある」ということが大いなる「神秘」であるということを、だれにもあきらかなかたちで示してくれる事態なのである。》

とにかく決定的な一冊だった。日本経済の失われた10年などというが、この『貨幣論』を読まずにいた10年のほうが、もっと惜しいような気がしてきた。

貨幣の論理とは、人を酔わせる力において、現実の貨幣にも負けない! 

…とまで言いきる自信は私にはないが…

だが、貨幣の永続性は、論理の永続性と同じほどに美しい。そして、この貨幣の永続性や論理の永続性は、まかりまちがっても破れることなどあるまいと、我々は信じている。しかし、そうであればこそ、この美しい永続性が打ち破られる局面もまた、我々は心のどこかで、非常に恐れながらも、かすかに夢想しているところがあるのではないか。そんな局面に、私が生きて立ちあうことはあるのだろうか。そのとき、貨幣と論理なら、どちらの破綻がより恐ろしいのだろう。



冒頭の画像はポルポト政権の紙幣とされる一枚です。
『遊撃インターネット』からコピーしました。


Junky
2003.6.10

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著作=Junky@迷宮旅行社http://www.mayQ.net