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▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2003.5.31 -- 今月の収支 --

●おもえば今月はなんだか人をよく褒めた。褒め「10」に、謙虚にまわりくどい貶し「1」ぐらいか。残高「9」。自分もちょっとばかし褒められた気もする。褒めは天下の回りものってやつだ。来月はなにか他の物も回ってこい。


2003.5.30 -- 亡国論 --

国民生活白書によれば、今や5人に1人がフリーターだという。でも、驚くには及ばない。むしろ、若者5人のうち4人までが、ゆるぎなき仕事中心人生航路を、目指すべき理想か、避けがたき現実かはともあれ、未だに捨てきれずにいるということなのだ。そっちこそ、もっと由々しき、あるいはとてもありがたい事態ではないか。

●ちなみに、フリーターに数えるのは15歳から34歳まで。学生と主婦も除外されている。たしかに、「何してんの?」と聞かれて「学生です」「主婦です」と胸を張れる人は「フリーター」に甘んじなくていい。逆に、いい大人の男なら「ちゃんと働いて稼げ」と。「いつまでもブラブラ、スネかじってどうするんだ」と。う〜む、これは世間の目を忠実に取り入れた調査だったのか。

●それにしても35歳以上はどうなっているのか。フリーターというより正社員の首切り組とみなそうということかもしれない。でも実際には、たんに若者でなくなっただけの半端者が、それなりに生息しているはずだ。でもそこまでは、国民生活白書も構ってくれない。そうしてその生態は霧に包まれたままとなる。こうした階層の人々は、この時代の不安や絶望の象徴なのだろうか。そうした人々の存在に、かえってかすかな安らぎや希望を見出したとしたら、おかしいだろうか。

●さて、フリーター問題をどうしても解消したいなら、簡単な方法がある。正社員の年収を半分に、フリーターの時給を3倍ほどにすることだ。そうすれば仕事の質も収入もやがて一緒になるだろう。そのとき全員が「正社員」になるのか「フリーター」になるのか、それは知らないけれど。●もちろん、そんなことでは《今後の日本経済を担うべき若年の職業能力が高まらない》《経済全体の生産性が低下して経済成長の制約になるおそれがある》と国民生活白書は警告する。これまでの日本は、その能力や生産性というものを一丸となって守り抜いてきたということだろう。だがひるがえって考えるに、正社員の誇りで凌ぎを削ってきたその能力や生産性とは、それほど素晴らしく普遍的なものなのか。それは、今後も永久に、5人のうちの5人がそろって絶対死守しなければ、世界は滅んでしまうのか。●たとえば、最近のコンピュータは数年前に比べれば10倍はよく働く。能力や生産性がものすごく高まったのだ。その分、我々が少々仕事をサボったり、ガムシャラに頑張らなくなったとしても、まあいいではないか。

●あいかわらずのテキトウな楽観。心配しなくても、フリーターが5人のうち4人にはなるまい。なったらおもしろいが、なるまい。


2003.5.29 -- とあるサイトでコツコツ遊ぶ非凡のブロガー --

モナーって20〜21世紀の歴史に刻まれる存在かな。とたぶんみんな思っている。それがFlashになって海を渡るなんて、ますます画期的じゃん。と胸も騒いだ。でもそのことに、一人前の記事という資格を本当に迷わず与えられる価値観。しかも、満を持していきなり示した最も正当な評価。偉大というほかない。で、その正当な評価というのも、実は《ウェブログ論に熱心な人々を横目で見ながら海外のサイトを読み漁るネットユーザーたちにとっては、あらためて長々しい文章を読むまでもなく、わかりきったこと》ですけどねと、なぜか省略されがちな一番重要な事実を忘れない。私はもう唸ってしまった。●堀越英美「モナーはFlashに乗って海を渡る」『ZDNet/JAPAN』

2003.5.28 -- モダリティ --

耕田さんの日記で、『もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察』という論文を知る。ざっとしか眺めていないが、この論文、実に心配りよくまとわりついてくる。ナイス。実はこれ、山形浩生氏がデカルトの『方法叙説』を英語経由で訳した文章だった。●この気持ちよさは、山形氏自身の文章がときおり感じさせる特徴かもしれない(といっても誰かを徹底攻撃するあの小気味よさとは別)。今読んでもらうこの一文の、焦点はどこなのか、ピントがぴったり合うまで、この一文の組み立てを尽くすぞ、というような文体。耕田さんの文体もそうかも。

●文に不可欠なのは主語と述語、という捉え方が一般的だ。AはBだ。でも、実際に自分がなにかを言葉にするときは、「AはBだ」ということ以上に、「AはBだ」が私とどう関係するのかということの方が、よほど不可欠だ。「AはBだ」を、何のために私は今わざわざ述べたいのか。どういう位置からどういう態度で述べるのか。こうした微妙な部分こそ分かってもらいたいのだ。●文章とは、そのためにあるのかもしれないし、そのためにいくらでも長くなるようなところがある。ウェブに日記を書いていると、それが少し分かる。誰かになにか話すときも、きっとそういう文体になっているはずだ。ウェブの日記とちがって、そっちは録音したり書き起こしたりして確認する機会がないから気づかないだけで。

●《無内容な本でありながら読者を侮っている本もあるし、内容がすばらしく高度であるが読者に対して深い気遣いを示している本もある》。内田樹氏の、またもや喝采したくなる指摘(5月26日の日記)だ。これだって、「AはBだ」はさておき、それを伝えようとする書き手の目線こそ大事、というモラルだろう。●言語を分析するときの「モダリティ」とかいうのは、こういう見方を指すのだろうか。

●「そもそもなんでこんな人がこんなテーマの文を書くことになったんだろう」といった関心もアリだと、山形氏は言うので、それも参考までに。


2003.5.27 -- きょうは何の日 --

●韓国映画『ペパーミント・キャンディー』(ネタバレ注意)。独特の進行をする映画だ。40歳のある男が破滅する。その現在1999年がまず描かれる。続いてその3日前が描かれる。さらに5年前。12年前。15年前。19年前。20年前。歳月を逆順に遡りながら、過去がしだいに明かされていく。つまり観客は、男の最近の出来事という「結果」を先に見るわけだ。たとえば3日前の場面で、男はペパーミント・キャンディーを買う。古いカメラを受け取る。足を引きずっている。どの出来事もとても気になる。だがその意味は分からない。そして映画は、キャンディー・カメラ・引きずる足、などの出来事に至った「原因」を、過去の出来事としてあとから次々に明かしていく。その場面はどれも実に実に印象的だ。●それはそうと奇妙なことが気になる。観客は、キャンディー・カメラ・引きずる足といった出来事に、男のどのような状況や心情がまとわりついていたのかを、あとになってやっと思い知るという構図だ。キャンディー・カメラ・引きずる足というサインは、その場面を見ている時点では、気になりながらも絶対に見送るしかできないということだ。もどかしいではないか。というか、それはなんかおかしくないか。よくわからない。いずれにしても、このようにもどかしいからなおさら、映画の細部というものがどれほど重要に機能するのかということを、この映画はいっそう痛烈に教えてくれたような気がしている。(伏線とはどれもそういうものなのか、それともこの映画は時間が逆転した伏線だから、どこか特別なのか、そこがうまく頭が働かない。)●この映画は、ナレーションなどないし、説明的な台詞も排されている。代わりに各場面のちょっとした振るまいが、常に大切な鍵を示している。細部がことごとく大きな意味を担っているのだ。見逃すとたぶん深い理解には達しえない。●一般に、映画の一場面と小説の一場面を比べると、どちらがより多くの細部を含むことができるのだろうか。それはうまく答えられない。しかし、ともかく映画の一場面が含んでいる細部は、必ず何かを意味するために作られるものなのかもしれない。そうでない細部は冗長なのかもしれない。したがって、映画の細部の意味は実はとても明快なのかもしれない。そんなことをあれこれ考えた映画だった。●さて、ここが完全にネタバレなのだが、19年前(1980年)として描かれているのが光州事件の場面だったのだ。きょう5月27日はその日ということで、だいぶ前に見た映画だが、思い出して書き留めてみたしだい。(*追加。光州事件の記念日は5月18日。27日は軍隊が市民を完全に制圧した日とのこと)●繰り返し見るといっそう面白い映画だと思う。独特の進行について考えることもまた面白い。で、そういうことを抜きにしても文句なく賞賛したい作品だ。


2003.5.23 -- マイ講義 --

●最近、クオリアの茂木さんが近所のあちこちで話題だ(といってもネットの近所)。その茂木さんは、東京芸大で行っている講義をmp3データとしてすぐさま公開している(こちらから)。ちょっとダウンロードして聴いてみたところ……またもや「今度こそ本当に狼が来た!」。●5.15日分の前半。たとえば「π=3.14」という意味的記憶と、「あの時あそこへあの人と出かけたなあ、ああしたなあ、こうしたなあ」といったエピソード記憶の違いを、きわめて重要な観点として語り始める。個人にとっても、人類にとっても、新しい概念が立ち上がるというのは、エピソード記憶が整理・抽象化されて意味記憶に結晶することなのではないか、といったふうに論を大股で早口でどんどん進めていく。●この講義は、たとえばケンブリッジのウィトゲンシュタンの講義に匹敵するのではないか(いやまあウィトゲンシュタインの講義を聴いた経験はないのだが)。しかも書物として体系化され固定化された思考とは違って、今まさに明滅・生成しつつある思考と直に触れ合うのだから、興奮度は限りなく高い。それが一曲99セントで聴けるというのはありがたい。…あそれは別の話か。こっちは無料。しかもこの講義は自宅にいて好きな時間に聴ける。リピートも一時停止も自在。寝ころんでいてもいいし、携帯でメールしながら聴いてもバレない。仮に大学が門戸を閉ざしがちだとしても、エッセンスだけはこうしてどんどん感染するのだから、大変な時代になったものだ。●ネットは今のところ大半が文字情報であり、それに慣れ、飽きもしている。音声データがこれくらい簡単に扱えるようになると、ウェブはまたもや途方もない変転を見せるだろう。だいたい、目で文字を読んで把握しにくかったことが、耳で音声を聴くとよく把握できるこということがある。mp3データに欠けるものがあるとすれば、茂木先生の板書を見ることができないくらいだ。だがそれもチョークのコツコツいう音に集中すれば、描いている文字や図がぱっと視覚として感じられる(というクオリアの奇人がいるかもしれない)。●講義を聴きながら、東浩紀大澤真幸の『自由を考える』も対談だったなあ、あれもmp3で出してもいいんじゃないか、読んでも分かりやすかったけれど聴くともっと分かりやすいんじゃないか、などと思いをめぐらせていた。すると、なんと茂木さんがその本をまさに話題にしだしたので驚いた。それが後半だ。『自由を考える』にあった「理性の狡知」という部分にまず注目した。茂木さんは、その「理性の狡知」というのを、「外形的なふるまいの内在化」と言い換えながら、最も普遍的な認知の原理として、あるいは言語の宿命として、眺め直す。――う〜む、講義内容をここでまとめてもしょうがないか。講義データがまるごとそこにあるのだから。しかし後半の話はさらに面白いのだ。というわけで、ほんの少しだけクリップしておくとしよう。●《オレがしゃべってる言葉のどれをとったってオレが産み出したものじゃなくて、これ誰でも同じ言葉をしゃべるわけでしょ。…言語ってのは、あるいみじゃ…外形的な振るまいの内在化としてあるわけじゃないですか。つまり、われわれはそういう形でしかコミュニケーションできないんですよね。…歴史的に条件づけられてきた、ある固定された、記号を通してしかコミュニケーションできないわけですよね。そこに実はヘーゲル的な、理性の狡知が始まっちゃっているわけですよね。》●《科学というのは、こういう問題を抜きにして、通れないんじゃないか。》●《主観的表象ってのは、…自分自身もすべては把握できないものとして存在しているわけですよね。…それを把握しようとすると、実は、内面的な言語によって、ヘーゲル的な理性の狡知みたいな形で、外形的に把握せざるを得ないわけですよね。》《根本的なわれわれの認知過程のところで、カフカ的な状況は始まっているんじゃないかって気がするわけ。》《心の奥底に最も深い恐怖として入り込んでくるかもしれないのは、実は我々の存在そのもの、認知過程そのものの中にもう必然的に入り込まざるを得ない政治性ですよね。あからさまに政治性を帯びるようなことよりもよっぽど恐ろしいわけで。

●さて、講義の入り口となった、意味記憶とエピソード記憶の違いのことは、昔NHKのドキュメンタリーで知った。そのとき私もいろいろ考えた。ちょっとそれも紹介しよう。思考はノイズでずらすことも大事だというし。「柄谷行人はTシャツとは違う種類として在るか?

*訂正:「理性の巧緻」とあったのは「理性の狡知」の間違いです。いやまったく、正反対でした。


2003.5.23 -- その言論の動機は何ですか? --

http://diary.lycos.co.jp/view.asp?QnDiaryId=30783&QnCommentid=1974782&QsSortOn=&QsSortType=http://d.hatena.ne.jp/kouda_dc/20030522#p7http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030522#1053611973

●上記への応答。●「通俗に阿諛しない」(jounoさん)。良い響きですね。私もその立場だ、と自分では信じたい。でも、実際にウェブをあちこち覗くと、その正反対の状況も間違いなくあります。思考や議論は、より精密な答えを見つけたいという動機から始める人ばかりではない。そう感じます。対話や論証の細道など破壊してしまいたい欲求、いやそれならまだしも、それこそ単なる揶揄、自己顕示、意趣返し、などなど、「精密な答えを見つけたい」立場からすれば、あまりに不純な動機がうようよしています。言論がなにか別のことの手段になっていると言っていいでしょう。しかし、そうした自己顕示や攻撃のための言論行為をむしろ肯定する、あるいは、それを不可避の生態として認める、そんな哲学もどこかにあるのではないだろうか。ふとそんなことも思いました。厄介ですが、気になる問いではありませんか。たとえばニーチェのような人なら、どう対応するのでしょう。 ●しかし、なお一方で願うこと。現実の政治や経済、それどころか教育や科学に分類される行為ですら、どうも精密な答えを求める動機からは結局遠くなってしまうことが大半です。そうであればこそ、思考や議論といった言論行為くらいは、対話や論理といったもののみに忠実でありたい、時には過剰なまでに純粋に。


2003.5.22 -- 事件に先立つ推理があった? --

舞城王太郎の『九十九十九』には決定的な評論が存在する。しかもそれは『九十九十九』に先立って書かれた!――まるで第4話の前に第5話があるごとく?。それが仲俣暁生の「「鍵のかかった部屋」をいかに解体するかだ。言ってみれば『九十九十九』の双子の兄。●以下、こちらにまとめた。


2003.5.17 -- 余裕のろうそく --

●舞城王太郎は、三島賞選考後の記者会見にも姿を現わさなかったという。「舞城王太郎という作家は実在しない。舞城作品はすべて、実在する別の作家が執筆しているのである」という解釈は、未だに可能性を残しているわけだ。そしてもちろん「舞城王太郎とは清涼院流水なのである」。『九十九十九』はそれを指し示す目的で書かれた。●まだ読書途中である私は、もう一人の無茶な探偵として、作品に支配されながら実は作品を支配していく、最も隠蔽された真犯人にも見立てられる。●『九十九十九』の真作家は誰だ。あるいは真作者は誰だ。

100万人のキャンドルナイト。予想される反感。「こっちは毎日いやでも節約してるんだ。ふだん電力使用のデカそうな連中(半妄想)がきれいごと言うんじゃない!」「みんながそろって楽しそうなことは、私はかえって楽しくないんですよ」「節電、脱電、どっち? 反原発はどうした?」「電気はかまわずじゃんじゃん使おうぜ。そうすりゃ間違いなく停電して、いやでも闇の素晴らしさが実感できるって」●どこか人間の盾を思い出さなくもない。「イラク空爆反対!」(なんで?)「爆弾が頭上に落ちてくる身になったら、黙っているわけにはいかないでしょ」(じゃキミはイラク人の身になれるのか)「うぐぐ…」(だから関係ないんだよ、イラク戦争とキミの日常は。実感してないのに、さも実感してるように言うのはヘンじゃないか)「ようしわかった、だったらボクはイラクに行こう。戦争に堂々と反対するには、戦争の恐怖を体験するしかない」

●「100万人のキャンドルナイト」は、エネルギー消費大国日本の首都で実演される、ほんのちょっと真面目だがかなりふざけたRPGだ。だから、ほんのちょっと真面目にかなりふざけて参加してもいい。●でもそれだったら「1000万人の東京大停電ナイト」はどうだろう。そっちに参加するほうが刺激はケタ違いに大きいはずだ。…いや大停電はゲームじゃなく現実か…。でも、どうなんだろう、今の私は「東京大停電」を本気で恐れているだろうか? ●「100万人のキャンドルナイト」をつい茶化したくなる気持ちは、「東京大停電」を茶化したくなる気持ちに通じているのだ。それだけではない。「イラク戦争」「原発事故」「SARS」「関東大地震」「北朝鮮からミサイル」「有事」「有事立法」どれもこれも、私にはどうやら同じ程度の実感しかない。そう電気代のほうが切実…。まったくどういうことだ。●しかし、以下のような反論も可能だろう。「100万人のキャンドルナイト」ゲームの迫真性によって、「東京大停電」ゲームの迫真性に至ることができる。それと同じく、「100万人のキャンドルナイト」の現実としての迫真性(なるほどこういう人やああいう団体がこうしてああして自分もそうすることでこのようなイベントは生成するのか、という迫真性)を感じとることができたなら、東京大停電やイラク戦争の現実としての迫真性をも感じとることができるかもしれない。●しかし、こういう議論こそ、いや、あらゆる議論が、すなわちRPGか。

●斜に構えたごまめが繰り言を3日連続。


2003.5.16 -- Carry That Weight. --

高額納税者とか高所得者とかいう。でもなにが「高い」のだろう。札束を積んだらそれが高いのか。まあ私はそれでかまわないが、反対のあなたを所得が「低い」と形容せねばならないのが心苦しい。たとえば「高い」の代わりに「重い」にしてはどうだろう。所得の重いやつ。消費量も重い。排出量も重い。社会の重荷。逆にあなたは収入が軽いわけだ。稼ぎも軽く、財布も軽い。気分も軽い。なんだかナイスじゃないか。私には「おまえそんなに重くて大丈夫か」「ちっとは減量しろ」と責めてもよいのだ。●責められたい。

SARSの前にデマが広がる(読売新聞)


2003.5.15 -- 生きがいのトレード・オフ --

●《BEST STANDARD〜最良のふつうを求めて》か。うまいこと言う。あいかわらず(というかきわめてコンスタントに)。『ほぼ日刊イトイ新聞』5周年を前にしたダーリンの弁だ。●しかしながら、この5年間にじわじわ商売成分が高まってきたような印象をどう捉えたらいい? 80年代に糸井重里が脚光を浴びたとき「広告は資本の手先だ」とかなんとか一部は腐したが、私はあまりピンと来なかった。にもかかわらず、資本の手先などという問い自体が懐かしいなという今ごろなって、なぜか『ほぼ日』の商売性が気になってしかたない。食うだけの分を稼いだならあとは儲かることより面白いことだけを追いかければいいのに。『ほぼ日』には最初そういう期待をしていたように思うのだ(食わさねばならない家族や社員が増えたのかもしれないけれど)。●これは、創造性の開拓こそが経済性の開拓であること、すなわち「面白い」は実は「儲かる」に等しいことを証明しつつあるのか。それとも、「儲から」なきゃ「面白く」ないだろ、という現在的な信仰を拡散しているのか。どうだろう?●《憎まれないで世にはばかりたい》。う〜む。それはムシが良すぎるというものではないか。「憎まれてもいいから世にはばかりたい」「憎まれるくらいなら世にはばかりたくない」。どっちかしかないなら、『ほぼ日』の本音はどっちだ。●ともあれ、今日の結論。「最良のふつう、ぜひともください、できればタダで」。いや、それとも糸井さんは、単に「売る人と買う人」ではなく「儲ける一人と支払う多数」が本当に友達になれるとでもいった夢に本気で賭けているのか。●《疲れが出てからが祭りの醍醐味です》(今日のダーリン 5.15)。この中毒という「無償」性、あるいは不安な自分への励ましのようなコピーのほうが、より親近感を覚えた。●《そろそろ糸井重里氏が「blog」とか言い出すんじゃないか》(『ARTIFACT』)という予言が、妙にうなずける。


2003.5.14 -- [万人が刮目すべき私の意見][読み逃したら絶対損する私の感想] --

●優れた思想というのは、「これって、そうか、あのことか、いやこれにもぴったりだ」と、最近気になっている現象が次々に整理、説明できるようなものなのだろう。『自由を考える』東浩紀・大澤真幸の対談本・1020円)が探り当てようとしている新たに思考の枠組みは、それに値すると思う。その枠組みを、二人は言い方を変えながら繰り返し、イメージさせていく。言い方のほんの一例を、今読んでいるところから拾ってみると。●まず「言論の自由や表現の自由のように、あらかじめ意識しておくことができ、内容を特定して指示することができる、そういう自由とは別のものとして、匿名の自由というものがある」(趣旨)という。では匿名の自由とは。大澤《それは言ってみれば無意識の自由です。それは、「何をする自由」「何である自由」であるとあらかじめ特定できない自由です。だから潜在的に可能な選択肢の項目のなかに、書きこんでおくことができない自由です》。●どうだろう。ここからは様々な具体例が思い浮かぶのではないか。たとえば、私がさっきちょっと考えていたこともなぜか関連してしまう。●さっきちょっと考えていたこと。ウェブに載せる記事や情報をあとからカテゴリーで一覧するには、各記事の頭にそのカテゴリー名を予めいくつか付けておくとよい。たとえば「本の感想」「新パソコン情報」、あるいは「明るい社会 私の実践録」だとか「モテすぎて困る 対処の秘訣」だとか(まあなんでもよい)。ブログのツールはこれがスムーズにできる。「はてな日記」もまあ備わっている。しかしその場合、先のことを考えてカテゴリー項目を絞っていくわけで、後からもしかしたら検索したくなるかもしれないカテゴリー項目、あるいは検索したくなるなんて思いもしないカテゴリー項目のすべてを、「あらかじめ特定」しておくことは原理的にできない。アクセスの確実性や利便性が増していくと同時に、アクセスの融通性というか無謀性というか、そういうものはその分だけ消えているのかもしれない。●とはいえ、このことは、この本を読んでいかにも思い浮かびそうな話だ。だがもう一つ、あまり思い浮かびそうにないことも思い浮かんだ。それはまた改めて。[思わせぶりな予告][保留にしてある思いつき]

*以前書名を『自由について』としましたが、間違いでした。すいません。


2003.5.13 -- おたがい山師 --

批評的世界』杉田さんの日記(2003・5・12)森達也さんが朝日新聞に書いたというコラム「タマちゃんを食べる会」を紹介し、森さんが思い惑いながらも、ともあれ一歩深く、さらにもう一歩だけ先へと、ゆっくり踏み込んでいったその小道を丁寧に辿り直したうえで、最後に杉田さん自身がほんの半歩だけ疑問のつま先。そこから何がみえるだろうと問う。●《タマちゃんが河辺でバーベキューにされた時、心の底から何かを感じる人、悲しみか怒りか苦痛か、それとも言葉に出来ない何事かか、そういう人々が必ずいるだろう。そういう感覚は、「身勝手さを自覚するために」「歯を喰いしばってでも」タマちゃんを食べる森氏の内側に生じる激しい矛盾と煩悶の感覚と、きっと、拮抗するに足るだけのものだと思う。その時何が生れるのか。誰よりも食べたくなかったために食べた人と、食べられたことに誰より苦痛を感じるが故に食べた人を批判できない人々、両者の間にどんな対話がひらかれるのか。》●こういうのこそ倫理学だなと思う。

●ここで少し振り返った。しばらく前に私は、「アザラシを食べる」とは書けても「タマちゃんを食べる」とまでは書きにくい、と感じた。→こちら(3月11日)。●これは人目を慮ってという理由もあるし、また、「単なるアザラシ一匹でなく、固有の名前が付いたアザラシ一匹であるからだ」という説明もされるはずだ。でもそれだけではない。杉田さんが引用部分の直前で、《動物を見ているとぼってりとやさしい気分になる》という単純な感覚が実はそう不毛なものではなく、もうちょっと普遍の倫理感を背景にしているのではないかと感じていることと、繋がる話ではないか。そんなことを勝手に思ったのだった。●もう一つ。『異議あり! 生命・環境倫理学』では、通俗的な常識(たとえば「クローン人間いかん!」)を、明晰な思考がどんどん覆していくのを読んでいくことになった。しかしながら、その通俗と相当似ているけれど完全には重ならないものとして、いわば直観(たとえば「クローン人間、どうよ?」)のようなものが別にあるんじゃないかと考えた。そして、通俗をあばくのはもういいから、もうちょっと普遍的かもしれない直観の方がどうして成立しているのか、倫理学者はそっちを考えてほしいと結論した。→それはこちら(4月25日)

●ふと、こんな書き方は、リンク先まですべて読めと要請しているようなものだと気づき、迷惑はお互い様ながら、恐縮。●リンク先にはまたリンク先がある。きりがない。そんなことをしていたら仕事にならない、夜があけてしまう、という計算はとても正しいと思う。とはいえこういう場合、否応なく先へ先へと進んでしまうのも常だ。まあそのおかげで、読んでもいない新聞コラムや買うつもりもない本や、そして知らなかった思考の、存在から内容までがなんとなく分かってしまうこともあるのだから、いったい我々の知性と教養は何処にあるというのだろう(反語ではない)。●ともあれ、リンクを辿るのは投資のようなところがあるのだ(透視?)。ときとして宝の箱も隠れている。杉田氏の日記はきょう見つけた宝石だ。

●最近ブログのトピックを追ってあちこち訪ね歩いたこと、また「はてなダイアリー」も使うようになってアクセスログが見えるようになったことから、知らなかったサイトに急にいくつも出会った。宝ザクザク。鋭い考察を連射しまくる人も多くて、もう目が回る。たとえば「OS:ディストリビューション=宗教:X」とか。

●こんなことを書き連ねながら、私はなにか主張しているようで、なにも主張していない。ここで考えあぐねているのはどういう問題でしょう、私には知能も時間もないので、だれか代わりにに考えて教えてくれませんか、とお願いしているようなものだ。しかもそれとなく素振りだけで。●そういうわけで、きょうもこんなガラクタ文章をさも宝であるかのように埋め込んでおくと、そのうち山師がどこからかやってきて、これを掘り出し「ああまた騙された」と憤慨しつつも、おかしな問いだけは持ち帰り、そうしていつかその素晴らしい解答を、どこか無数の山の中から見つけだすに違いない。さもなくば山師自らがどこかに書き込むに違いない。●でも今度は私がそれをどう見つけるのか。まあ私も少し山師になって探せばいい。インターネットは広いが、近所は狭い。慌てず騒がず適当に散歩していれば、それでもたいていのものは見つかりそうな気がする。「周知のとおり」グーグル検索も素晴らしい。グーグルが載せてくれないとしたら? だったらもうかまわないではないか。グーグルの最果ては巨大な滝になっているらしく、その先はない。

●その、誰かに探しだしてもらいたい素晴らしい解答とは、たとえばこういうものを指す。《シミンの性質の中で最も悪質なもの》=《性質6:他人の気持ちを想像して理解することが常に可能だと思っている》(岩城 保「思いやりのある人たちへ」)


2003.5.9 -- 言葉VS事柄 --

●言葉は単語の組み合わせです。単語はいっぱいありますが無限ではありません。だから言葉も無限ではありません。また、一つの言葉は一つの事柄を表します。ということは、もしも事柄が無限にあるとしたら、無限の事柄に対して有限の言葉を当てはめるわけですから、そのうち言葉のほうが必ず足りなくなります。そのときは、一つの言葉を二つ以上の事柄にだぶって当てはめるしかないでしょう。そうすると、言語全体が曖昧になり、いずれその言語は死に絶えます。とはいえ、人間の言葉は無限ではありませんがそれなりにたくさんあります。しかも、人間は必ず死にますし必ず忘れますから、過去に当てはめた言葉と事柄の対応をすべて永遠に覚えているわけではありません。そのおかげで、現実には言葉が不足することはないでしょう。めでたしめでたし。●というようなことを、町田健という人が書いていた。『言語が生まれるとき・死ぬとき』(大修館書店 ドルフィンブックス)の最後の最後。●人が生涯にかかわる事柄が無限でないことは納得できる。では、私の言葉はどれほどたくさんあるのだろうか。近ごろ自分の書く文章は、「まあ」とか「なんとなく」とか「ちょっと」といった前置きがやたら多いようだが、もしかしてこれは、この日記も歳月を重ねて書かれた事柄がしだいに増えてきたのに対し、単語のほうはもとから大して多くなく組み合わせがそろそろ尽きてきた徴候ではなかろうか。新しい事柄に同じ言葉をまた当てはめるには、そうした前置きによる濃淡や強弱で区別するしかないというわけだ。まあ、なんとなく、ちょっと、そう思う●あるいはそのまったく逆で、私が思いついて書く事柄のほうこそ同じことの繰り返しなのに、むしろ言葉はそのつど贅沢にも新しいものばかりを当てはめている、ということがあるかもしれない。●ちなみに町田健は、人間と違ってコンピュータであれば、死なないし記憶も失われないので、最後には本当に言葉が足りなくなり言語機能が曖昧になるはずだと指摘する。私のサイトなどは大雑把だから、コンピュータでありながら昔の事柄を呼び出すのが実はけっこう面倒だ、忘れたフリをしよう、といった利点(欠点?)があるからよい。これが高機能のブログの総合コミュニティーで、コンテンツは限りなく膨大に蓄積され、しかもカテゴリーやキーワードによる整理統合も完璧に行き届くようになったあかつきには、そういうことを本気で心配する日も来るのではなかろうか。

●『言語が生まれるとき・死ぬとき』は、言語を考える基本中の基本をさらっとやさしくまとめた一冊だ。それでも言語の成り立ちと仕組みがほんとうに一からよくわかる。が、似たような感動をこれまでもさんざん味わったはずだろう、それをただ懐かしく味わっているだけじゃないのか、いつまでも一から感動してばっかりでどうする、と言われるかもしれない。しかし、こういう言語についての基本書は、私にとっては、読書ネットワークでいうところのハブに相当し、ものすごい頻度で繰り返し繰り返し読んでしまうことが必然の数少ないジャンルなのである。この一冊自体もハブになりうる本だ。ハブといっても奄美大島ではない。伊豆大島は波布の港。


2003.5.8 -- ロードムービー --

●「パナウェーブ研究会」。ニュースはずっと気になっていたのだが、ここにきて、根拠地がやはり福井県だったこと、地元の和泉村が道路を封鎖して対抗することなどが伝えられ、同県出身の私としては、完全に他人事とも思えなくなってきた(かつて私も遭遇した記憶がある)。とはいえもしも他人事でないとしたら、それは和泉村の人々だけでなく研究会の人々もそうであっていいのだ。というわけで、彼らを「見守る会」を一人ここに立ち上げよう。いやまあテレビとインターネットで見守るだけなのだが……。「想う会」でもいい。●用語はとても影響力を持つと、今回もつくづく思う。その代表が「白ずくめの集団」。それと、たとえば「居座る」という言い方をごく普通に繰り返す番組もあれば、一度もしていないメディアもあるようだ。


2003.5.7 -- だから私は日記を書く --

●《WWWを知った9年前、個人的なことは書くまいと思った》《Web日記が流行し始めたときも、「自分は書かないぞ」と決意したものだ。》(「高木浩光@茨城県つくば市 の日記」からの引用)そういう人がウェブ日記を始めずにはいられなくなった理由とは? ●この新しい日記を見つけて「お!」と驚いた。最近ネット上で読んだRFIDに関する記事を書いた人であり、それに対して巻き起こった議論も少し読んでいた。その人が「はてなダイアリー」に……。●でもなんで驚くのだろう。ものをいう場所を他のメディアも含めていくらか確保していそうな人であっても、ウェブ日記でしか解決できない、満たされないなにかがあるのだろうか、という思いに直面したせいかもしれない。●それだけでもない。●インターネットには区切りがない、国境すらないということになっているのだが、それでも、同じ「はてな」に日記を書いている状態というのは、なんだか同じ店にいて、他の客を離れたところから見ているような感じがある。ずいぶん狭い世界だ。そこに、最近どこかで見かけた人が入ってきたので「おや」と思った、ということだろう。――たぶんその店はユニクロで、襟が空色の四角いTシャツをみんなそろって着ている(?)。●これは気のせいか、というとそうでもない。周知のごとく、「はてな」では「リンク元」つまりその日記をどこのサイトから見にきたのかが日付単位で一目瞭然になる。この仕組みが、こうした気分に明らかに影響しているというのが正解だろう。「コメントを書く」を開けば自分だけでなく誰でもそれが見える(見えない設定にもできる)。ウェブ日記を読んでいて、このサイトとこのサイトはなんとなく近いみたいだ、などと感じることはよくあるわけだが、そうした「なんとなく」の関係が、白黒はっきり数値もはっきりの関係に転じたというところがポイントだ。●まあこのことはとうに御存知の人が多いはずだ。また、べつに「はてな」が先駆なのではなく、「ブログ」の名で呼ばれるサイト整理統合システムの多くがそうである、というのがウェブの正しい歴史理解(みんなが知っている方の)だろう。それがブログの本質であり、他の日記サイトとの違いの本質もまたそうであろう。ちなみに「tDiary」が同様のシステムを備えていることも、言及されているとおりだ。●それにしても、この人が「はてな」に入ってきたとき、その文章が読めただけでなく、当人の表情までがぼんやり察知できたのはどういうことだ。怪奇! 「はてな」はそこまですごいシステムなのか。というと、それは早とちりで、先に述べたネットの記事にこの方の顔写真が付いていたからにすぎない。●さてさて冒頭の話に戻るが、こうしたリンク元表示などのシステムのおかげで、特定領域に関心のある少人数のコミュニティーが、メーリングリストとは違って柔軟に形成される状況になったことが、日記を書き始めた理由の一つであると、高木さんは述べている。●これはとても共感できる。●でもそれと同時に、もともとの「ウェブ日記は書くまい」「自分は書かないぞ」という強い決意のほうにも、しみじみうなずける気がした(そのわりに私はウェブ日記を一応ずっと書いてきてしまったのだけれど)。そもそもそういう決意がどこから来るのかというところに、興味と疑いがあるのだ。そして、おかしなことに、全く逆の「自分のことをウェブに書きたくてしかたない」という気持ちもまた私には強い。それは当然、ウェブに日記を書いている多くの人に共通しているだろう。●ウェブ日記という存在やそこで書かれた文章は、そもそも個人的なものなのか、実は個人的なものではないのか、といった問いも、この話に関連させていいかもしれない。高木さんがウェブ日記を形容するのに「個人的」と鍵カッコを付けたのも、そういう拘りだろう。●去年の暮れごろ「ブログ」という言葉が登場していらい、この言葉をめぐってソリの合わないふたつの立場があることがはっきりしてきたが、その違いは、たとえば先にあげた「リンク元などとの結びつき」が自分のコントロールを超えて顕在化してしまうことへの是非と重なるのかもしれないし、さらには、《個人的なことは書くまい》といった思いがあったときに、その決意を自分はどう処理するのか、その処理の仕方の違いといったことも関係しているのではないか。そんなことを感じた。●「ブログ」という言葉は、ウェブにある一定の方向で起こっていた現象に名前を与えたと指摘される。と同時に、ウェブ日記に関してこれまで寡黙でクラスターを成していなかった一定の大きな言い分(ブログ的なのは嫌だ)をも、顕在化させてしまったように思う。


2003.5.4 -- 日本人は無限に修正される --

*以下「はてなダイアリー」と同一内容です。使い分けか一本化か思案中につき、しばらくこの状態が続きそうです。

●昨日と矛盾するけれど、じつは、はてなのキーワード定義こそが、最終的に立ち上がった概念として機能している、とみるほうが、すっきりするかもしれない。●そうなると、その概念たる説明文を、一個のニューロン(ユーザー)が直接に書き換えできるというのは、どういうことだとみなせばいいのか。●ネットワーク全体(はてな全体)の使用例がすべて連結してそれらの総和がきれいに反映される形でしかも自動的に、定義説明文が修正されていく、そんな脳みたいなシステムを夢想してしまうが・・・。●でも待てよ、結局、現在のシステム(人力による概念修正システム)がそうしたシステムに当たらないとも言いきれないのではないか。●つまり、脳内の概念は、たしかにニューロンの複雑怪奇なネットワークからじわじわ出来上がるにしても、最終的な概念の修正作業をある特定のニューロン群が担っているとも考えられるのだから。(う〜む、ここが最も肝心なところであり、かつ、どうもうまくイメージできないところが、昨日と矛盾してしまうゆえん)●はてなで人力修正を行うニューロン(ユーザー)も、じつはいくらかネットワークを意識したうえで修正するのだろうし、かりにいくらか恣意的であるにしても、それは脳の動向がまたいくらか恣意的なように思えるのと似ているように思える。

●さてさて、こういう話と、「日本人」という言葉がどう受けとめられたいか、どう使われたいかという話とは、ごっちゃにしてはいけないだろう(→私)。●私自身も、このページに、やや誤解も与えそうなコメントを書きこんでいるので、気になっている。どうあってもネットワークは自分のせいでいくらかは偏るのだろうが、だったらもうちょっと自分として不本意でないような信号を、ここから送っておきたいものだ(そのうち)。●だれかの日記の1トピックとしてであっても、お互いがそれを書いたり読んだりすることで、各ユーザーが、またネットワーク全体が、なんらか微妙に変調をきたし、そうして最終的に――それが人力的にかシステム的にか分からないが――「日本人」の概念が整っていく。(といいのだが)

●はてなの日記は、連結がまさに可視化されているので、自分のサイトに書くほど気楽でない。社会的人間になるためのリハビリにもいいかもしれない。


2003.5.3 -- はてな氏 --

●「はてな」はやっぱり面白い。いま「日本人」の定義をめぐって複雑なやりとりが続いている。●ごぞんじの方はごぞんじのとおり、「はてなダイアリー」には単語の定義を共同で作成していくページがあり、誰でもコメントや書き換えができるのだ。しかも、「はてなダイアリー」で日記を書いているユーザーが、自分の日記に「日本人」という単語を使うと、そこからその「日本人」の定義作成ページへ自動的にリンクされるようにもなっている。●ここから、少なくとも二つの、極めてワクワクする話が思い起される。●一つは「ある言葉の意味とは、その言葉がどう使われているかということであって、それ以外ではない」といった、ウィトゲンシュタインにルーツがあるとおぼしき、言葉の捉え方。●もう一つは、人間の思考が――いやもう少し話を絞って、人間の概念というもの(たとえば「日本人」という概念でも「猫」という概念でもなんでもいい)は、頭のなかで王様みたいなニューロン群が指揮統括して作り上げているのではなく、無数のニューロンがあれこれ相互作用(バチバチ)を繰り返していくうちに、そのネットワーク全体のうえに、それがどこにあるとは特定できないかたちで浮かび上がってくるのだ、といったコネクショニズム的な見方。=柴田正良『ロボットの心』や信原幸弘『考える脳・考えない脳』が参考になる。●いま「日本人」という単語をめぐって、多数のユーザーがそれぞれの定義やコメントを書き込み、それらが互いにリンクされ、そこにはプラス評価もあればマイナス評価もあるし、また別の言葉や別の日記もかまわずリンクされるし、とてもややこしく、おまけに投げ銭まであって、とそんなことが果てしなく繰り返されていくうちに、たぶん「はてな」でつながったページ全体のなかに、いくらか「日本人」の概念が浮かびあがっているに違いない。問題はしかし、定義作成ページをリンク先まで含めて全部読むのはかなり大変だということ。言い換えれば、その概念を意識できる主体「はてな氏」がいるとしても、それは個々のニューロン(ユーザー)ではないわけで、いったい誰なのかということだ。果てなし。

そうだ、どうせなら、このトピックについての記事は、ぜんぶ「はてな氏」にも知らせていくことにしよう。

●参照リンク。StrangeIntimacy 「コミュニケーションの密接さ」


03年4月

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