『九十九十九』
 事件に先立つ推理があった?

  book image


舞城王太郎の『九十九十九』には決定的な評論が存在する。しかもそれは『九十九十九』に先立って書かれた!――まるで第4話の前に第5話があるごとく?。それが仲俣暁生の「「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか」だ。言ってみれば『九十九十九』の双子の兄。ウェブで全文が読める。
http://www.big.or.jp/~solar/unlocked.html

文芸誌『群像』に「現代小説・演習」というシリーズ企画がある。批評家のオーダーに応じて作家が創作するというもので、新鋭の書き手が入れ替わり登場する。3月号では仲俣暁生がこの「「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか」をまず示し、続いて舞城王太郎の短編「僕のお腹の中からはたぶん「金閣寺」が出てくる」が掲載された。

仲俣氏は『九十九十九』を読了するやいなや、サイトのBBSにこう記している。

『「金閣寺」』はたぶんこれの予告編みたいなもので、ずっと前から書き続けられていたこの『九十九十九』こそが本編だ。ぼくが「演習」で「問題編」を書くずっと前から、舞城は「回答編」のほうを書き上げてのだった……というより、ぼくの問題編は「問題編」を装った「舞城王太郎」論でもあったわけで、たぶんそれに気づきつつ、さりげなく「回答編」を装った「予告編」を書いてきた舞城王太郎は、やはりミステリ作家としても一流だと思う。
http://bbs1.otd.co.jp/183102/bbs_plain?base=253&range=2

この段階で私は「そんなことがあるだろうか」とやや首をかしげていた。ところが今回、『九十九十九』を読み終え、さらに「「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか」をネット上で見つけてちゃんと読み返し、その上で『九十九十九』をたどり直した結果、両者のあまりの符合ぶりに驚愕してしまった。

仲俣によれば、日本の近代小説はどれも「青春小説」というジャンルに収まってしまう。この独創的な視点に立って、戦後の三島由紀夫、80年代の村上春樹、近年の吉田修一といった作家らの作品を、「青春小説」が自らを超克しようとしてきた軌跡として捉える。しかもそこに探偵小説の定義を絡めたうえで、「新本格」以降のミステリーの系譜もまた「青春小説」の変異型として配置する。

この洞察・見立ては、冒頭から実に鮮やかだ。たとえば――

かりに「小説を書く」という行為そのものが「犯罪」だとしてみよう。作者は当然「小説を書く」という犯行の「動機」をもっている。また多くの場合、青春小説で描かれる対象=「被害者」は作者自身である。小説を書くということは「なぜ書くか」という謎を解くことでもあるから、作者はその謎を知りたい「依頼人」であり、同時にそれを委任された「探偵」でもある。そしてなによりも作者の役割は事件の顛末を第三者に伝える「記述者」としてのそれである。

ここから論を展開したあと、仲俣は舞城にこう問う。

作家への依頼状
 ・「青春小説」を完全に殺害してください。
 ・そのとき、探偵小説の手法をもちいてください。

なるほど。じゃあこれを踏まえて舞城王太郎の『九十九十九』を読んでみようではないか。(以下ネタばれ注意)

『九十九十九』は、今の都合に応じて要約するが、主人公である「僕」が、僕の世界であるこの小説の中をさまよい、この小説世界を支配している神を探しだそうとする物語、と捉えることができる。ところが、ようやく探し出した場所に神は不在であり、実は神とは僕自身だったのだ、といった結末がやって来る。小説の中で「僕」が複数に分裂することにも注目したい。最終章(第6話)の登場人物として誕生した僕Aは、この小説世界が仮想であると知りつつもここに安住してもいいと考え始める。ところがそこに、第1話からずっとこの小説を生きてきたオリジナルの僕Bが現れる。僕Bは、各章に登場してきた人物をことごとく殺すことで、この仮想世界を消滅させ小説の外ともいうべき現実世界に戻ろうともくろんでいる。

こうした格闘からは、仲俣評論の前提、青春小説においては「被害者」「依頼人」「探偵」「記述者」などがすべてが同一だという前提が思い起こされる。(もちろん『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』もいやでも思い浮かぶが、仲俣評論はすでにそれを内包している)

そうなると、最終章で僕A自身が行っているこの小説自体の謎解きは、どれも意味深長だ。焦点は次のくだり。

殺人事件を解決することが人間としての成長を促し、最終的な自己発見へと僕を導くようにこのプログラムはできていたのだ。これ(*この小説)は、長い時間をかけた自己破滅のためのプログラムだったのだ。いや、破滅するのはあくまでもプログラムで、僕はそうならない。妄想の世界から外に出るだけだ。僕にとってはもちろんそれは成長の一歩だ。喜ばしい出来事なのだ。本来は。
 でも僕は怖い。

どうやら「僕」は、『九十九十九』として設定された事件を何重にも経験し、何重にも解決し、それによって成長し脱皮していく、そんな役割を担っていたらしい。しかも、そうした「僕」の成長は、「僕」を無傷ではすまさないだけでなく、当のプログラム、すなわち青春小説および青春ミステリーとしての『九十九十九』自体をも破壊する。いやその破壊こそが、オリジナルの僕Bもしくは『九十九十九』の作者によって、最初からプログラムされていたのだ。

この構図は、「探偵小説の方式で青春小説を殺せ」という仲俣の依頼状に、真正面から回答したものと思える。

じゃあその「青春小説殺害事件」としての結末はどうなのか。というと錯綜している。オリジナルの僕Bは、「僕」の最後の変異型ともいうべき僕Aを殺そうと追いすがるが、返り討ちにあって絶命してしまう。だが直前に僕Bは叫んでいる「よせ!これはお前の意思でもあるんだ!この世界を作っているお前が、僕にこれをやらせているんだ!お前もこれを求めてるんだ!お前が、これを求めているんだ!」。はて、いったい誰が誰を殺したのか。それに続く「僕」の再生は、仲俣が期待する「青春を殺すという形式によって長く生き延びてきた青春小説を、今度こそ本気で絶命させることでようやく誕生する新しい小説」を、象徴しているのか。さてどうだろう。解釈はいろいろできるだろう。

たとえば――。『九十九十九』で、「僕の妻」の役は、「栄美子」「りえ」「多香子」といった複数の登場人物が交代して演じるが、彼女たちはすべて最後に殺されてしまう。しかし、最終章の「有紀」だけは殺されたのちに復活する。そこから「僕」は、「有紀=行き」という暗示を読み取る。そこから今度は我々が、舞城の青春小説とミステリーは、先へ「行く」のであって、ゾンビとして過去へ「戻る」ことはけっしてない、といった暗示を読み取っていいのかもしれない。有紀は最後の妻であるがゆえに現在進行形の妻であり続ける。この意味を深読みすべきなのかもしれない。

面白いことに、「僕」は、そうした究極の解釈を、自分では諦め、弟のツトムという別の探偵に委ねている。何故か。いかなる推理も可能であるがゆえに、いかなる推理も事件の正体を決定できないこと。自らに対する推理が間違っていないことを推理できるような完璧な探偵は存在しないこと。そうした、いかにもウィトゲンシュタインやゲーデルを思い出させる背理を、「僕」が認識しているからだと思われる。

この小説最後の言葉はこうだ。

だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる。僕は神の集中力をもってして終りまでの時間を微分する。その一瞬の永遠の中で、僕というアキレスは先を行く亀に追いつけない。

そう、謎はどこまで解いても新たな謎が残る。しかしそのとき、書き手の「僕」と語り手の「僕」の、どちらがアキレスでどちらが亀なのだろう。あるいはこれを、創作と批評の関係に見立ててもいいかもしれない。仲俣暁生というアキレスは、『九十九十九』という亀に最初から追いついていた。ところが、亀は追いつかれたとたんわずかに逃れ、不思議な可能空間を今なおさまよっているのだ。

『九十九十九』の構成はきわめて多層だ。なにより典型的なメタフィクションが極限まで突き進む。あからさまな聖書の見立てもある。清涼院流水の作品の本歌取りがあり、ミステリー批評という側面も含んでいる。それらに引きつけられ、撹乱させられ、縛られ、ときには持て余す読み手は、私だけではないだろう。こうした観点からの解読も待たれる。ただ、それにも増して、仲俣暁生が示していた「探偵小説の方式で青春小説を殺す」という解読は、決定的に興味深かったのだ。

決定的? 待てよ、この言葉、最近どこか別のところでも聞いた――

ぼくは、ここには決定的に「新しい」なにかがあると思った。
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=3442

ご存知のとおり、『九十九十九』を読んだ高橋源一郎の弁だ。どう決定的なのか。それが分かるようで分からないところが、あいかわらず高橋源一郎の評論の悩ましさだ。高橋源一郎が仲俣評論を読めば、その「決定的さ」をおそらく感じ取るだろう。ただし、高橋源一郎が舞城について感じている決定的な「新しさ」は、また別種のもののように思える。それは、今あげたメタフィクションや見立てやミステリー評論の側面、といったことでもないように思える。

繰り返すが、仲俣評論が私は決定的に面白かった。しかしそれは『九十九十九』を一読した後から読んだものだ。私がこの分厚い『九十九十九』を読む気になったのは、高橋源一郎の《決定的に「新しい」》が気になったからに他ならない。『九十九十九』を「決定的に新しい」と位置づける高橋の幻の視点は、さて、どこにあるのだろう。

そして、ここからやっと本題だが、私の『九十九十九』の読書体験は、また別種の奇妙さを残すものだった。それが高橋源一郎のいう「新しさ」と関係あるのかどうか、まったくわからない。そもそも「新しい」と言えるほどのものかどうかもわからない。それどころか、最近のミステリー全般に当てはまる「奇妙さ」にすぎないのかもしれない。

ともあれ、その私なりの読書体験というのを、ちゃんと見つめてみなくては、なにも始まらないだろう。それはまた後日。

『九十九十九』について、以下の考察も興味深い。

『偽日記』(03/05/02〜03)
 作家をこれまた決定的に追いつめる。

『heliotropism』1
『heliotropism』2
『ヘリオテロリズム』
 仲俣評論がウェブ上にあることはこちらで知った。



*仲俣さんがこのページを読まれたようで、日記などで触れていただいた。(こちらこそ感謝します)

舞城王太郎『阿修羅ガール』の感想はこちら


Junky
2003.5.22

日誌
迷宮旅行社・目次
著作=Junky@迷宮旅行社http://www.mayQ.net