舞城王太郎『阿修羅ガール』
(その1)*その3までできました!
読み始めれば誰でもすぐ気がつくはずだ。この小説がありふれた現代語ばかりを詰め込んで出来ていることに。たとえば、こういう調子。《私の素早い応戦にもマキが怯んだ様子はちっともなかったが、剣道とテニスで鍛えた私のムチムチの右足のスーパーキックがわりと効いたらしくて「いってーなこのビッチ〜」とか言って足をさすってて、私はすかさず「うっせーなおめーに何の関係があんだよ!」と言いながら私はマキの頭を上からぐいと押さえ込んで体重乗せて屈ませてそこに右の膝を思い切り上げてうつぶせたマキの顔にガツン!と当てた。》
《細くて背が高くてモデル体型で歩き方もカッコ良くてなんかいろんな事務所からスカウトされるのがウザくて原宿とか青山とか歩きたくない美人のマキは鼻血を流してトイレの入口で足を開いて体育座りしていてもなんだか映画の一シーンみたいにハマってる。》
《私は黙った携帯を取って着信残ってたの消してからトートん中入れて、ブラつけてTシャツ替えてジーンズ穿いて髪まとめてクリップで留めて眼鏡かけて前髪下ろし眉毛隠してリップだけ塗ってトート持って外に出た。》
使われる語句はどれも平易、平板だ。引っかかりを欠き潜在力を欠いている。文章全体もまっすぐな道で、路面は一様にスムーズで、常にトップギアで進んでいく。まるで読み書きの燃費向上だけを目指したかのようだ。
とりわけ第1部「アルマゲドン」は、主人公の高校生アイコが日常で進行中の事件を実況する形で語られるせいだろうが、どこを切ってもこうした調子の文体だ。
《佐野がいなくなった夜のうちに佐野の家に包みが届けられてて、朝早くにそれを見つけた佐野のお母さんが開けてみると、封筒の中のビニール袋の中にサランラップでグルグル捲きにされた佐野の右足の小指が入ってて、実際にはどんな文章だか知らないけど、佐野を返して欲しければ一千万円寄越せとかそんな感じで書いてある手紙が一緒に入ってた。》
「届けられてて」「入ってて」「入ってた」と連続しているのがいやでも目立つ。地の文で「〜てて」「〜てた」と表記している小説なんて、私はこれまであまり読んだ憶えがないので、なんだか戸惑ってしまった。
《ホントマジでむかつく》《いけてる》《うざい》《ていうか》《つーか》《だっつーの》
こうした、小説作品の描写にはいかにもそぐわないと思える用語も頻発する。かといって、誰もが聞き慣れていわけで、べつだん驚きはしない。やはりただ平板な印象にしかならない。(携帯電話でメールを打つときの擬態語が《ニチニチと》であることは初めて知ったけど)
では、現代の人間が漫然と文章を綴ったときには、この小説のような文章になってしまうのだろうか。そんなことはない。『阿修羅ガール』の文章はきわめて自覚的に統率されていると思う。その統率の方向がきわめて平板な方向だっただけだ。だから、さっき引用した場面を、一般の人があるいは一般の作家が漫然と描こうとしたら、ついうっかりこんな調子になるのではないか。
真紀の細く長い体躯はまさにモデル向きで、歩き方もそれを裏切らない。もちろん美貌にも恵まれている。街に出ればスカウトの声はさぞかし多いはずだ。ただ当人はそれが煩わしいからと原宿や青山には出向かない。その真紀が今、顔は流れる鼻血にまみれ、伸びた脚は便所の入り口で体育座りを余儀なくされたまま、だらしなく開いている。それでもその姿がまるで映画のごとく隙のない構図に見えるところは、さすがだ。
あるいは、語り手が女子高校生ということを意識したとしても、せいぜいこんな感じだろう。
マキときたらモデルなみに痩せて背が高く歩き方もばっちりで、もちろん美人。だから、街に出ればスカウトしてくる奴は大勢いるだろう。けど、当人はそんなのウザイといって原宿や青山には出向かない。で、そのマキの顔がさぁ、流れる鼻血にまみれちゃって、おみ足のほうもだらっと開いて体育座り。便所の入り口でだよ。それでもその格好がなんだか映画みたいにハマってるんだ。ちくしょう、さすがマキ。敵ながらあっぱれ。
ちなみに、本物の女子高校生である島本理生や綿谷りさが書く小説の文章は、どちらに近いのだろうか?
これ以上はもう余計だが、こういう書き換えがなんだか面白かったので、ついでながらもう少し載せておこう。(ふと思ったのだが、翻訳をする人にはこうした楽しみがあるのかもしれない。あらゆる読者の中でその小説をいちばん読み込むのは翻訳者であり、もしかしたら作者以上に読み込むのではなかろうか。)
私は素早く応戦した。マキは怯んだ様子など見せない。それでも、剣道とテニスで鍛えた私の筋骨隆々の右脚があびせたスーパーキックはいくらか効いたようだ。「痛ってえな、このビッチ!」。声が上ずり、脚をさすっている。「うっせえな、おめえに何の関係があんだよ」。すぐさま私も怒鳴り返し、同時にマキの頭を上からぐいと押さえ込む。そこに体重を乗せて屈ませると、右の膝を思いきりぶち当てた。ガツッ。うつぶせたマキの顔からにぶい音がした。
その包みが自宅に届けられたのは、佐野が行方不明になった夜のうちだったらしい。翌朝早く佐野の母親がそれを見つけた。封筒を開けてみると、サランラップでグルグル捲きにされた足の小指がビニール袋に入っていた。佐野の右足から切断されたのだ。詳しくは知らないが「息子を返してほしければ一千万円用意しろ」といった文面の手紙が添えられていたという。
――下手な書き換えはこのへんにしておいて。
さて、さきほど、『阿修羅ガール』の文体は作家が漫然と書いたらこうなったというものではない、と述べた。しかしながら、この文体は特別な意図・作為があって成り立った、と見るだけではやはりちょっと違うように思う。
書き手はこうしたカジュアルな言葉遣いを「あえて選択した」。たしかにそれはそうだろう。しかし、もっと強調すべきは、こうした言葉遣いを「とくに排除しなかった」という側面なのではないか。平板表現をわざわざ文学表現に書き換える理由はない、という意識といってもいい。「カジュアルな言葉遣い」を確信的に選択したという以上に、「カジュアルな言葉遣いを躊躇しないこと」を確信的に選択した、と見ておきたいのだ。過去の舞城小説で福井弁の会話が無造作にいくつも使われていたのも、わざわざ使ったというよりは、わざわざ使わないことはしなかった、ということだったのだろう。(だからどうなんだ、ということは、今まだうまく考えることができないので、これでいったん終り。)
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文学というものがあったとしよう。それには高さがあるとしよう。その高さは、語句・文章・文体というようなものによって、すなわち言葉遣いによって計測できるとしよう。さあここに『阿修羅ガール』という、文学と呼んでいいかどうか今ひとつはっきりしない小説がある。その一方、文学と呼んで文句を付けられそうにない、たとえば『猛スピードで母は』『パーク・ライフ』(ともに芥川賞)といった小説がある。あなたはどちらの言葉遣いが文学的に高いとおもいますか。私はこんかい『阿修羅ガール』の方がだんぜん高く跳んでいるように見えた。それでも、競技としては後者のほうが高いと計測され良い成績を付けられてしまうのだとしたら、それは何故か。それは、後者の二作品が規程どおりの長い棒を当たり前のように使ってジャンプしているからだ。『阿修羅ガール』はその棒を使わず、いわば自力だけで跳んでいる。なぜ使わないのか。棒をわざと捨ててみせたということもあろう。しかしそれ以上に、そのような棒を使って跳ぶことがかえって不自然かもしれない、という点に気がついたからではないのか。文学というのが、その棒やその棒の使い方を指すのだとしたら、『阿修羅ガール』は文学ではないかもしれない。しかし、文学とは棒のことではなく、跳躍の力そのものを指すのだとしたらどうだろう。
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