舞城王太郎『阿修羅ガール』
(その2)

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少々ネタバレ的――

『阿修羅ガール』のストーリーの背景として、三つ子の子供が殺されてバラバラにされるという事件が起こっている。この事件をめぐり、インターネットの掲示板《天の声》では実に好き勝手な書き込みがなされ、そこから犯人を探して退治しろといった無責任な機運が高じたあげく、アイコの近所では中高生がわけのわからない殺し合いを始めてしまう。この掲示板《天の声》に立ったスレッド「2003年秋のアルマゲドン in 調布」の「実況中継カキコ」は、壮観だった。あれちょっと長すぎるか、という程度まで十分な長さをもって挿入されているからこそ、私たちにあまりに日常的な2ちゃんねる的退嬰を、そのまま味わうことになる。そして、さもありなんと思っていたごとく、この小説の文章はこうしたカキコ文章に同調しているのだと、このとき断定していいと思った。この挿入の章によって駆動力がまた補給され、いっそうの高速回転が始まると言ってもいい。

その三つ子バラバラ殺人を犯した少年は、当然ながら《天の声》にぴたり同調し、書き込みしていた。それが終盤「グルグル魔人」の章だ。狂暴で身勝手なそのクソガキは、ネットユーザーの一般的本音をぐっと極限までデフォルメした感もあるのだが、その生態がその独白そのものとして描ききってある。妄想とも空想ともつかぬ欲望が全開。一言一句スキなく荒みきってからから。『阿修羅ガール』の文章は、ここでクライマックスに達したと思った。

しかし、この壊れた悪者と対称的に、主人公のアイコは実はとっても健全だ。もちろん、好きでもない同級生とラブホテルに入るし、既に引用したように番長格のマキをボコボコにしたりはする。それでも、たとえば本当に殺されたり死んでしまったりする陰惨さとか、世界とどうしても折り合いがつかない絶望とかは、向こう側にある。アイコはほとんどそっちに引きずり込まれそうになるが、すんでのところで踏みとどまる。結局は悪をやっつける。アイコそしてアイコが恋する男子など感情移入して読める人物は、みな善玉、あくまで《こっち側》なのだ。

しかも、舞城小説の主人公の多くがそうだと思うのだが、アイコは、学校という社会において、不良ではあってもちゃんとポジションを得られるキャラクターだ。しかも自分でそれがしっかり見えている。以前も述べたように、村上春樹のカフカ少年ならクラスで完全に独りじゃないか。卒業アルバムには一枚の写真もなさそうだ。舞城小説で少女が主人公というと短編の「ピコーン!」がそうだったが、アイコは彼女ほどしっかり者でなく、ちょいと調子に乗りやすくお茶目でもある。しかし「ピコーン!」のように恋人を死なせたりは決してしないのだ。

こうみていくと、『阿修羅ガール』は単純なジュブナイルの体をしているのかもしれない。最後には、闘いをくぐり抜けた主要人物が寺院の仏像の前にそろい、落ち着いたたたずまいのなかで小説的な謎もとけ、この地獄の往還記は大団円となる。ちょっと横溝正史ミステリーのラストの趣? 

この、いわば勧善懲悪ぶりは、本心なのか、冗談なのか、無視なのか。そのあたりはわからない。ただ、『阿修羅ガール』は、アイコが何度か口にする『パルプ・フィクション』(あるいは『レザボア・ドッグス』)と、その「ぶっ飛ばし感」においては見事に共通するものの、これらの映画が持つ完全にちぐはぐでおかしいほど陰惨な痛ましさとは、実はてんで無縁なのかもしれない。

その3に続く


Junky
2003.3.6

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