舞城王太郎『阿修羅ガール』
(その3)

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阿修羅とは、仏教における闘いの鬼神であり、闘いの絶えない世界をも意味する。また第ニ部の題名である「三門」とは、涅槃へと到る解脱の門だという。そこで展開されるゲーム風の攻防は、阿修羅ガールたるアイコが苦界の迷いをふっきるために三つの試練が与えられたとみなせばいいだろう。三途の河を行きつ戻りつするステージ1に続き、ステージ2「森」では、アイコの分身シャスティンが、仲間の子供たちとともに魔の森に迷い込んでしまい、そこを支配する怪物と対峙する。

シャスティンたちは、森の怪物に負けまいと考え、そのために皆で歌を唄おうとする。ところが。

私には、もちろんそんな歌を唄うつもりはありませんでした。私はもっと明るくて、皆を元気付けるような歌を唄うつもりだったのです。それがどうしてあんな歌になったんでしょう?

そう、唄ったはずの歌は、なぜか自分たちの意図に反し、おぞましい内容に変えられてしまうのだ。こんな歌。

死ね死ね死ね死ねお前ら皆死ね
 全員死ね死ね 今すぐ死ね死ね 
 この森からは出られない
 誰もここから出られない

やがて子供たちは、一人ずつ怪物に捕えられ、手足を切られて連れ去られていく。しかも、子供たちが誰かの名前を呼ぶと、次にはその者が殺されるのだ。

とにかく口を利いてはいけないようです。ここの森の中では、私たちの声は、もう私たちのものではないようです。

逃げれば逃げるほど痛みが増える
 逃げれば逃げるほど苦しみ増える

どうすることもできない。

最後の一人になったシャスティンは、とうとう怪物と対面する。森の怪物の正体とは、バラバラに切り離された、子供たちの手足、頭、胴を、まるごと一つにかき集め積み上げることで出来た存在なのだった。もとはみな、仲間たちの血まみれになった肉体の断片だ。

全体として、稚拙に模倣した童話を読んでいるのかというかんじだ。そのせいか、いったい何の喩え話かと、つられて思案してしまうのだった。

決まった寓意があるわけではないだろう。それでも私は、第一部で読んでいた《天の声》に代表されるエクリチュールが呼び覚まされ、この森の怪物とは、もしや、日々ネット上に書き込まれる私たちの主張や事実や情報のごった煮、さらには、それらが次々にバラバラにされたうえで恣意的にかき集められ積み上げられていくカット&ペーストの集積か、そのようなイメージにコジツケて読んでいった。そうなると、ネットにおける私のこの声も、もはや私の声ではない。そこで歌を唄ったならば、本当はそんなふうに唄いたいのではないのに、とてもおぞましく響いてしまう。しかしもう朝までそこから逃げることはできない。これはたしかに夜ごとの私たちの実感か。

この小説全体のストーリーやエクリチュール自体がまた、なにか避けがたい力に同調させられて進んでいるのだとしたら、それが何の力かうまく説明はできないけれど、少なくとも《森》や《天の声》がああならざるをえないのと同じようにおぞましい力ではあるのだろう。

ところで、シャスティンがこの怪物を倒すために取るべき方法は、この怪物の中に自ら入り込んでいくことだという。

シャスティン、大丈夫だ。この怪物の中に入ることで、この怪物を飲み込むことができるんだ。

インターネットはどうなのだろうか。

一応そうした見立てを保ったまま、ステージ3(前述の「グルグル魔人」の章)を経て、結末の第三部に読み進んでいく。そこではアイコ自身が、あの森とは何だったのだろう、この物語は何の闘いだったのだろうと自問している。アイコの答は、これまた子供じみたものに感じられる。そのくせ糞真面目で生硬な解釈が、『海辺のカフカ』の批評っぽくすらある。それこそ、やれやれ、というのが正直なところだった。

私とは一体何なのだろう。
 私の中の怪物が、どうしてグルグル魔人と直接つながったのだろう?私とグルグル魔人に何のつながりがあるのだろう?

私がバラバラになってあそこにいたのと同じで、グルグル魔人と他の人も、今もあの暗い森の中で、あの大きくて悪意がたっぷりの怪物の一部になって、さらにたくさんの人をバラバラにしてくっつけて、体を太らせているのだろう。バカな子供の悪意が集まると怪物的な事象が起こるのだ。たとえばアルマゲドンのようなことが。

それでも、なんとなく胸に引っ掛かってきた部分もある。

アイコは、「三門」として展開されたゲームが仮想か現実かわからない。でもそれでもいいじゃないかと、アイコは考える。

《…自分が実際に生きているのか、本当はすでにとっくに死んでいるのに、ゆっくり長〜く死にながら、自分で勝手に作り上げたイメージをのんびり楽しんでいるのか、なんて区別、誰にもできない。少なくとも私にはできない。私はなんかすごい体験しちゃったし、それが実際に体験したことなのかどうか、ちょっと確信持てないのだ。いろんなところを通り過ぎたし、これで全部を通り過ぎて、グルッと一周回って元に戻ってきたのかどうか、私には判断がつかないのだ。

でもそんな風に、何かを自分が作り上げたイメージってことにしてしまえるなら、私自身だって架空の存在なのかも知れない。我思うゆえに我ありって言うけれど、もし自分と他人がどっかでくっついていて、相手の内側にお互い入ってこれたりするんだったら、ホントに我思ってるの?ってことになる。我思ってるつもりで、実は別の誰かが思ってることもありえる訳だから、我思ってると我思ってるけど、我思ってるんじゃなくて彼思ってるのかもしれない。じゃあ我ありってことにならない。

これがどうして胸に引っ掛かったのかというと、インターネットの世界では仮想と現実の区別がつかないとか、さすがにそういう大ざっぱなことではない。もう少し具体的に、たとえば今ここに私が書いている文章だって、コピー&ペーストの繰り返しや、リンクや検索という仕組みを通すことによって生成されたものであり、したがって、どこかの誰かのたくさんの文章と過度に結びついている。また過度に結びついていくだろう。あるいは、そうした文章の数々をきょうもブラウズし、そこから他所に飛んでブラウズし、さらに飛んでブラウズし、そうしてぐるっと一周回って元のサイトに戻ってきたような体験。どこかへ本当に行ったのか、それとも本当はどこにも行かなかったのか、分かりかねる感覚。そういうネットの森では、「我書く」つもりの文章も、実は「彼書く」文章であるかもしれず、それゆえに、ネットにおいて「我あり」というのは、ありえないことになる。とそんなぐあいに思いが及んだしだい。

舞城王太郎に象徴される、「純文学」とはみなされなかった作家たちが、今なぜか大挙して「純文学」のフィールドに押し寄せている。ナイーブな文学ファンは、どうしたことかと戸惑い首をひねっている。しかし、そこには出版企業や文芸雑誌のコントロールが大きく働いているのだろう。それを忘れたらバカを見る。この押し寄せ現象を大げさに「文学史的な切断」とか呼んだってかまわないが、その切断は、文芸出版のコントロールの原因であるより結果であるのだと、一応想定しておいたほうが間違いが少ないと思う。

しかし、そうした事情はあろうとも、この「切断」を目の当たりにすること自体は、どこか目が覚めるような、あるいは気が遠くなるような体験だ。誰の謀略か功徳かは知らないけれど、「純」しか知らなかった文学ファンが、これまで経験したことがない言葉遣いの嵐に否応なく襲われていることはたしかだ。

そうした嵐を、ここではネットの読み書きに吹いている嵐に無理やり関連づけることで、私は気が遠くなるのを回避したかったのかもしれない。したがって、ネットにおける読み書きの現状と、舞城王太郎の小説とが、どのような因果で結ばれているかをじっくり検討したわけではない。申し訳ない。


Junky
2003.3.8

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