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▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2002.9.30 -- 全身ユニクロ --

●どう見てもユニクロのかっこうでユニクロの服をまた買いに来る客を、ユニクロの店員は、ほんとうはどう思っているのか。


2002.9.29 -- 世界が『海辺のカフカ』のメタファーならば --

●私を含めて世の中はたいてい「あなたではなく、わたしではなく、みんながそう思うだろうから、そうすべきなのだ」という基準で動いている。働いている。懸命に。ものを作るにも、ものを売るにも。テレビ、新聞、雑誌がなにか言うのも、結局そうだ。だから、それがどんなに良い出来であっても、動機においてなんだかつまらない。●そうではない数少ないものとして小説が許されているのなら、どんな出来であっても、ちゃんとつきあいたい。そう思って読んだ村上春樹『海辺のカフカ』。作家が書く行為を受けた私が読む行為、に続く感想行為。

●威容を誇った火山が歳月をへてすっかり浸食されたけれど、外に吹き出る寸前で固まってしまった溶岩だけはいつまでも孤立して残っている。わかりやすい喩え?


2002.9.22 -- 親父をなぞる息子、旅行をなぞる映画 --

●キルギスの映画旅立ちの汽笛(アクタン・アブディカリコフ監督)。渋谷イメージ・フォーラムにて。こういう顔だちの人、ああいう顔だちの人。次々に出てくるたび、キルギスがいったいどういうところなのか、よけいわからなくなる。●それでも、青春という時期、青春という心情、そして青春という映画は、地球のどこでもみな同じなんだね! ・・・と感心したくなるが、ことはそう単純ではない。私たちの言説が覆うことができるのは、たとえば旅行ができて、会話も成り立って、映画製作くらい行なえる範囲の世界でしかないはずだ。●とはいえ結論としては、幾重にも面白くおすすめの映画です。●中央アジアを旅行中、カザフスタンにあるキルギス領事館にビザを取りにいった。部屋に入ると領事はいきなり私たちの手を握って迎えてくれた。驚きとともに恐縮、感激してしまった。しかしこの映画を見ると、なんだあれは日本でいえば会釈ていどの挨拶だったのか。ややがっかり。でも映画の主人公に似て実直で親切な領事でした。●ちなみに、監督は自らの青年期を自らの息子に演じさせたらしい。


2002.9.21 -- 今こそ、非国民になろう --

●今回の拉致について、いわば自分が加害者であるかのように恥じ入る在日朝鮮人もいるようだ。日本人の多くがいわば自分が被害者であるかのように怒ったのと対照的で、興味深い。●もちろん私はテレビが伝える金正日や外務省の態度を怒り心頭に発しつつ眺めたが、だからこそなお自覚しておきたいのは、私のこの怒りは当たりまえの感情かというとけっしてそうではなく、国家や国民という猿や幼児では獲得できない高度な概念に支えられないかぎり立ち上がってこないということだ(内田樹氏が指摘しているような意味)。●怒りや恥という感情自体は疑いようがないのだから、ことさら隠そうとするのはおかしい。ただしその感情も一皮むいてみれば、国家意識や政治思想、家族や生き死にといった数多くの複雑な理性(価値判断)に支えられているのであり、しかもその理性のほうには実は疑うべき余地がけっこうあると思うのだ。●念のために言っておくけれど、拉致の加害者であると感じる人のほうが、拉致の被害者であると感じる人より偉いとも冷静だとも、私は思わない。むしろ、恥という感情はそれ自体がやや理性的にみえてしまうぶん、よけい厄介だ。

●その怒りや恥は本能ではないのだ。本能ではないという自覚がなければ、その怒りや恥の正当な根拠を知ることはできない。怒りや恥の鎮め方や償い方の見通しもたたない。


2002.9.20 -- 東京近場観光 --

●王子駅前のビジネスホテルなんてところに昨日までいた。近場(東京都北区)なのだが3連泊。仕事の関係。知らない町に滞在するというのは、それがどんなにぱっとしない町であれ、いやそうであればあるほど、たとえようのない感興に襲われる。王子駅。東京にいて一度も降りたことがなかったな(そういう場所はほかにもいくらでもあるのだけれど)。すでに異郷の幻惑。せんだって真夏の大阪城公園を眺めるホテルにいて旅先のデリーを思い出したけれど、王子では、JRの駅前を歩道橋が覆っていたりする大味ムードに、ふと中国昆明の大通りを歩いた感じがよみがえった。われわれはことさら飛行機に乗って遠くまで出かける必要はないんじゃないか。少しでも時間が空くと読んでいたのは、村上春樹『海辺のカフカ』。●そのビジネスホテルというのがまた、こじんまり落ちつきはらったムードがあって、名前はイルカ。というのはウソだが、やや古くとりたててカッコよくはないけれど、室内が渋めで広々としている。バスタブがまた大きい。上海の浦江飯店にあった租界時代のバスタブより大きい。おもしろいことに、そのホテルには映画館が併設されている(ホテルが併設されているのか)。おまけに、泊まり客には映画無料鑑賞券を出してくれたりする。いやそれより、外出から帰って鍵をもらおうとフロントの中をみたら、大きな猫が椅子に丸まってじっとしているではないか。同僚のヤングはあとで「え、あれ猫なんですか。座布団かと思った」などとおもしろいことを言う。翌朝、その猫は今度はフロントのカウンターにすまして佇んでおり、係員もその横に並び「おはようございます」などとすまして言っていたのも印象的だ。猫の名前はイワシ。かもしれない。●拉致事件の報道は2泊目で、1泊目は行定勲のドラマ「タスクフォース」があった。ぱっと眺めただけだが、砂浜の向こうから黒装束の男たちが横一列になって出現してきたシーンが、テオ・アンゲロプロスだった。また同時に、そうとう昔、郷里で知りあいの学生らが自主製作したビデオ作品を思い出した。ピストルで撃たれて砂地の荒野に倒れたりする現実感のなさが、そっくりじゃないか。夏休み。暇な若者たちは市内あちこちを移動しつつこのロケを敢行した。学生でもないのに同じく暇だった私は、そうだそれに出演したりしたのだ。でも、そういうのとは全然違う映画の撮れそうな場所が、王子だ。●あっそうだ、王子駅といったら『いつか王子駅で』(堀江敏幸)があるじゃないか! なんで忘れていたのろう。たぶん最重要なこの参照項にやっと思い至ったのは、もう3泊目の夜、食後の散歩の途中だった。さらに不可欠情報。そう、『いつか王子駅で』には都電が出てきた。じゃあそれはいったいどこだ。はたして、その都電のちっぽけな駅は、1日目、2日目には気づかなかった位置に隠れるようにしてあった。そのホームを出た都電は、すぐさまJRの高架下を横切ったあと大きくカーブして大通りを進んでいく。『いつか王子駅で』にもそうした記述があったのを思い出しつつ、私も一緒にガード下をくぐり、JR駅でいえば裏側をさらに探索する。歩けばあるくほど、不思議な町だった。しかし、町の感じなんて、うまく言葉にはできないのだ。たぶん、町には町のディスクール(言説)があるのだろう。それは猫のコトバが、人間の言語とはまったく違ったものなので、言語とは呼べないのと同じで。


2002.9.12 -- かたや、ウェブ技術ゆえ日記とメールの洪水 --

●『文章読本さん江』で小林秀雄賞を受けた斎藤美奈子は、きょうの 朝日新聞「人」欄にも出ていたが、かつて編集者として子供向け実用書をつくっていたという。なんというか、さぞかし直感的でわかりやすいフレーズ、メリハリと説得力のある構成、目先が変わって飽きない展開、そういうものばかりで成り立っていたことだろう。電車の吊り広告で雑誌の見出しなど読んでいると、ポイントとウリが漏れなく無駄なくピックアップされ、とことん濃縮された字句によって見事に詰め込まれていることに感心してしまうが、斎藤美奈子の記述法もそういうふうだと思う。●それにしても、雑誌でもテレビでも、あるテーマでたとえば10人に話を聞いた場合、 最も強烈だった人の最も強烈だった話を、その雑誌の見出しやテレビの冒頭に必ず持ってくる。それはなぜだろう。ああそうか、視聴率とか販売部数のためだったのかもしれないが、もう我々はそういう手順のほうが生理的に違和感がない。表現とか記述というものは、そうしたまとまりとともに現われるのが当たり前と受けとめている。

●さて同じ「人」欄で、斎藤美奈子は、電車の中では本を読まないようにしている、ぼうっと考える時間を大切にしているとか言っていた。●それはそうと、私などは今、電車に乗ってぼうっとしたりすると、すぐさま、現在進行中の煩雑な業務が、うまくいくだろうか、期限に間に合うだろうか、そんな心配ばかりが頭をよぎるので、そうならないために、それをしばし忘れるために、無理やりにでも文庫本を取りだす。そうして読んでいるのが、柄谷行人差異としての場所』だ。 そういう役目にふさわしいとは思えぬ難しい本だが、まあやぶれかぶれというところ。案の定ページはなかなか進まない。が、仕事も進まないからまあいいか(いやよくない)。で、その柄谷本では、「感性」とかいうけれどそんなものは「内面化されたテクノロジー」にすぎないのだ、といった趣旨のことが指摘されていた。それって、上に述べた「ポイントをキャッチーにコンパクトに展開する記述法」もその一例なんじゃないか。

保坂和志がアヒルの水かき的に必死になって遠ざけようとしているもの、取り込まれまいとしているものがあるとしたら、それもたぶんそういうもの(雑誌吊り広告見出し言説)なんじゃなかろうか。保坂和志は「新しいディスクール」なんてことを言う。●《ぼくがいろいろな経緯によって身につけてしまった複雑な言葉の機能を取り払って、あるいはそれからいったん離れて(といっても無理だろうが、できるだけそうしようとして)、動物の内面を考えてみることに関心がある。勝手なことを言ってしまえば、それは別種のディスクールを準備することなんじゃないかと思う。別種のディスクールを準備する――それが小説というものだともぼくは思っている》(『アウトブリード』から)。

●ただし斎藤美奈子の著書は、そうした「テクノロジー」を使いまくった、あるいは「現代人間の陳腐なディスクール」に照準を合わせた、屈強な洞察と発想がちゃんと存在するから、面白いのだ。


2002.9.8 -- 壊れる --

●中古で手に入れて修理しながら使い続けてきたオーディアアンプが、壊れかけ。カセットデッキもいいかげんガタが来ている。どちらも20年近く働いた。パソコンなんてこの7年間で4台も買ったことを思えば、長い付きあいだ。実は社会生活の方も壊れつつあるのだが、こちらはもう何度目だろうか。●私のからだもこころも、壊れるときは壊れる。修理して使いものになればいいのだが。

●NHKが桂林から大かがりな生中継をやるようだが、予告番組をこれでもかこれでもかと流すので、本番までに見飽きてしまうのではなどと余計な心配をするけれど、そんなことより放送のある今度の週末、私は忙しくてテレビなど見てられないのだった。●桂林。私は97年の4月ごろ旅行した。右を向いても左を向いてもあの不思議な山また山。「山水画って、なんだい単なるリアリズムじゃないか」と誰かが言っていたが、まったくその通り。でも雨降りが続き、舟に乗り込んでのツアーになかなか踏み切れない。仕方なく町をうろつき、バックパッカーめあてのカフェで、中国語字幕のアメリカ映画(VCDという画質の悪い代物)を毎日のように見ていた。「12モンキーズ」とか「インディペンデンス・デイ」とか「ピアノ・レッスン」とか。


2002.9.6 -- 「私、今日、稼ぎました」かと思った --

●「小説的」とは何か。本当にこれは最大の問題ですね。●よく「物語ではない」「論文ではない」「ルポではない」という具合に、他の散文との差が示されます。「〜でない」というネガによる定義なんて、騙されてる感じもしますが、しかし、この定義は、「小説とは何か」の、答えではなく、問いが、どの方向を指しているのかを、あるていど直感的に理解させます。●たとえば、書道というのは、筆で書かれた文字それ自体を評価すべきであり、文字の内容(意味)を論じるとしたら、的外れだ。小説も、これにならって、書かれた文章の内容ではなく、文章それ自体を評価すべきだ、という立場がありえます。しかし文章それ自体って、何のことだろう?●その読み方や評価は、「物語」や「論文」や「ルポ」には当てはまっても、「小説」には当てはまらない、ということがありえる。書き手にしても、その「姿勢」や「努力」や「心構え」は、「物語」や「論文」や「ルポ」には有効でも、「小説」には無効だ、ということがありえる。こうした勘違いに気付かない場合が、実はとても多いのかもしれません。小説を読んでいるつもりが、ぜんぜん的外れなことを読んでいた、ということが、ないようにしたいものです。小説を論じているつもりが、ぜんぜん的外れなことを論じていたということが、ないようにしたいものです。●いま普通に流通している小説で、「小説的とは何か」という問いを核に据えて書かれた小説、あるいは「小説的」ということを考えさせる小説は、実は少ないのではないか、と思ったりはします。

●雨は降るし、小忙しさもじわり募る週末。本の衝動買いでストレス解消だ。『「わかる」とはどういうことか』(山鳥重・ちくま新書)、『言語の脳科学』(酒井邦嘉・中公新書)。・・・にしてはケチくさいか。


2002.9.5 -- 期待の星 --

吉田修一の小説を読んだ。●「最後の息子」。日記を修正するというヘンな行為をわざわざビデオで撮影するというさらにヘンな行為を、なぜだか小説の文章として記述する、ということは、ヘンの3乗ということになるはずだが、でもそのヘンさは、なんかチグハグであるだけで、強烈な異様さとしては伝わってこなかった。それでいいのか。まったく同じことが、オカマと暮らしているという設定にも言えて、まあヘンな日常なのだろうが、小説を読んでいくだけでは、あまり鮮やかな追体験にはならないのだった。●「Water」。みんな言うように、これは、とても、いい! 不覚にも、涙を流しそうになった。17歳。う〜む、私はもうその倍も生きてしまったなあ(ちょっと誇張が入ってる---逆のほうに)。妙な仕掛け抜きにのめり込める。日本映画がごく普通に青春を描くときの、淡く甘酸っぱいムードがあふれている、と思ったりするが、たとえばどの映画?と聞かれると、わからない。●「破片」。これは、肉体労働、汗くさい仕事、そして風呂、ビール、女。そういうアイテムが、中上健次の「岬」とか「枯木灘」を思わせた。だからというのではないが、いい感じ。主人公の病気かげんが、いい。主人公のヘンさが、ちぐはぐでなく、ぴたっといい感じなのだ。生活、現実。小説は、真面目に書くと面白くなる、かどうかはわからない(たぶん、違うだろう)が、真面目に読むと、面白いね。●「パーク・ライフ」。80年代にも、90年代にも、こういう「雰囲気小説」は、出ては消え、出ては消えしていたと記憶するが。なぜ今さら? いやだから、それが流行服の循環。●雰囲気小説。たとえば、村上春樹もその部類かというと、まったくそうではなく、少なくとも私が『風の歌を聴け』を最初に読んだときは「あれっ?こんなのアリ?」という印象があまりにも強かった。高橋源一郎はもちろん無茶苦茶な感想しか持てなかったし(今はいっそう)、たとえば阿部和重とか、多和田葉子とかも、なにが引っ掛かったかというと、今まで触れたことのない異様さだったのだと思う。「パレード」はどうなんだろう。


2002.9.1 -- その程度 --

●新しい小説を読むというのは、新しい服を買うようなものか。服なんてものは結局、寒さをしのいだり肌を隠したりすること以外に、本来の用途はない。だったらいつも同じのを着ててもよさそうなのだが、なぜだかそれでは飽き足らず、新しいものを、変わったものを、ついつい買い求めてしまう。形や色、デザインを取り上げて誰かが騒ぐのに巻き込まれ、さも今回のモードこそ究極の真実であるかのように思い込んで買う。しかしあとから考えれば、流行なんて周期的にめぐってくるだけだ。小説の用途だって、いつも同じなのだろう。でも人は、新しい服が欲しくなり、新しい服について語りたくなるように、新しい小説を欲しがり、新しい小説について語りたいものなのだ。●その程度ではない小説もあります。


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著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)