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▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2002.10.31 -- モデラートで読んだ --

●ソツがないというか、適度にわくわくでき、適度にしみじみできる。「なに、芥川賞ってこんなんでいいの」。そうだ、そのようにすかさずツッコミを入れることで、茶の間のきみが文学の反体制を胸はって自認できるよう、芥川賞はありがたくも存在する。紅白歌合戦をわらう若者的? それにしても村上龍、「家族の求心力が失われている時代に、勇気を与えてくれる重要な作品」(評)って、そうか? ・・・そうか、君はそうか。とまた誰もが天下をとったような気分。●とはいえ、長嶋有猛スピードで母は』(表題作)は、ネットサーフィンや音楽鑑賞のバックグラウンドとして適度に集中できる、秋の夜長(とりわけ暇人の)にぴったりの一作であった。・・・いやこれは皮肉でなく、いや皮肉のつもりだったが、よく考えるに、それはつまり読み手にきわめて優しい作りになっているということで、相当に文章の達人かもしれないではないか。そういえばあの人といるといつもなんか居心地よく気分よく時間が過ぎるんだよね。そういう場合、その人は常時こちらに対して実はとても細やかに神経を遣い、おまけにそうした配慮をしていることをなおさら相手に気取られないよう、さらに気を回していたりするものだ。そういう人はいい人だ。そういう語りもいい語りだ(文章神経の遣い回し)。たぶん環境にも優しい。しかし・・・・。そういう語りをほんとうに求めていたのか?


2002.10.30 -- 近況 --

●月日のたつのは早い。このところ本ばかり読んでいた。それとあいかわらず、夜ごといたずらに深く潜行して浮かび上がれないネットダイビング。ほかには何もしない。・・・いやそれはちょっと、いやかなり大袈裟かもしれない。もっと多くの時間を拉致事件のテレビを見ることに費やしていた気もするから・・・しかしまあそれはそれとして。●群像8月号の高橋源一郎と三浦雅士の対談「文学の根拠」では、三浦氏が「言葉と本というのは冥界に属していて、少なくとも人間の生の幻想、基本的に社会的な生の幻想というのはその冥界によって支えられているんじゃないか」「要するに、物を書く人、言葉にかかわっている人の場合は、最初から冥界にいるわけです。いや、言葉にかかわっていない人はいないから、人間全部、最初から冥界にいるようなものといっていいかもしれない」「要するに、言葉によって生かされているということは、冥界に生きているということですね」なんてことを確信をもって述べていく。●最初に言ったごとく、紙とブラウザに連なる言葉のリアリティーだけをひたすら追いかけ、外ではほとんど会話しないような毎日――生きているのが言葉のほうで、街行く人はオブジェみたいな毎日は、世間平均とは明らかにずれており、世間平均の生活が現実界であるならば、こうして言葉だけ読み書きだけで成立しているかのような日常なんて、そりゃやっぱりヘンテコなのであり、それを「冥界」と呼ぶのもなるほどと思ったりする。だがふとしたきっかけでネガとポジが反転し、う〜むなんだか世間平均生活のほうがかえって冥界あるは非現実のように眺められてきて、テレビ画面に映る平均言葉や平均感情もきわめてヘンテコなものに思え、麻痺してしまった私は、いつ拉致されたのか、どこに拉致されたのか、夢の中、いったいどっちに帰国したらいいのか、ますますわからない、恐ろしい(または面白い)。●なお上記対談においては、冥界がどうのというのは話の入り口にすぎず、源一郎小説を読むにあたって基本セッティングを改編させられそうな局面の出現と連続である。いずれまた。


2002.10.23 -- 世界像、時々刻々 --

●拉致問題の謎と展開。関心はほんとうに尽きない。乏しいながらも自分の価値感と知恵をいやおうなく総動員することになるからだ。テレビを見ながら空前絶後の演習をしているように思う。現代日本を漠然とつつんでいた愁訴の核心にそれが迫る勢いは、去年のニューヨーク自爆テロをもしのぐ。しかも日を追って生きもののような具体性を現わしつつあり、我々の心臓に直接ぶつかってくる。


2002.10.20 -- 雨、温かい飲みもの、読みもの --

山城むつみ文学のプログラム』から「小林批評のクリティカル・ポイント」。語りに誠実さがにじむ。それにもかかわらずトリッキーで、面白い。評論するということ、その見通しなど、結局のところ誰も持っていないし、持っていないということが、評論する永遠のモチーフ足りうるのではないか。小林秀雄のドストエフスキー論をめぐりつつ、そんなおぼろな思いに導かれていった。小林の作業および山城の作業はともに、読むこと、そして解釈すること、そして書くことの関係を、これもひとつ極限まで突きつめた試みであり、それだけに複雑なんだけれど、最後まで手を引いていってくれる優しさ、温かみがあって、そこにも惹かれた。●「戦争について」も読む。なつかしの坂口安吾。文学のふるさと、偉大な破壊・平凡な堕落、といったあたりに改めて尊敬の念。坂口安吾は、論じる爽快さを真似したくさせる原点だったと思い返す。


2002.10.19 -- 幸運流水 --

●暇な日々は戻っていたけれど、日誌がなかなか書けなかった。水は溢れんばかり。なのに水路が整っていなくて。・・・いや、水路のインフラはある。パソコン、サーバ、ネット。しかし水路にはいくつも栓があり、どこかでそれが閉じていたのだ(たぶんパソコンに達するまでの水路に問題があった)。その栓がなにかのきっかけで外れたのだろう、水は一気に流れ出した。下にDNAのことを書き留めたら、それに応答があって(BBS)、水はさらに流れていく。

野矢茂樹の本『論理哲学論考を読む』。●論理とはほんらい透明でさらさらであるのに、なにかの不純物が栓となって流れをふさいでしまう。正答を求めて盛んに展開しているはずの思考とか議論、その営為そのものに血栓ができる仕組みが潜んでいるとしたら・・・。思考習慣病。


2002.10.18 -- リハビリ的 --

●壊れかけたアンプはサンスイ製だ。いわゆる往年の名器であるうえに、この音質に長く慣れ親しんだことを思い合わせると、別離はやはり辛い。ともあれ山水電気のウェブサイトを調べ、相談の電話。しかし、そこまで古いと修理不能の場合があること、いったん直してもすぐ別の部分が壊れて今度こそ修理不能になる怖れがあること、などから修理はおすすめしませんという返事。それでも丁寧な対応は気持ちよい。もちろんどうしてもというなら出張検査や見積もりは承りますよとのこと。そうですかと話を保留にして電話を切った。●その流れでネットで山水電気の株価に行きついたが、あっと驚きの8円。従業員数がもっと驚きの12人。う〜む。頑張れ!山水。そのうち同社のかつての所在地が私の住まいのすぐそばだったことを知るに至り、このアンプの存在価値、いよいよ増す。オーディオの修理を個人でやってますという人のサイトも見つけ、こっちに頼むのもいいかと思う。●ところが、そうこうしているうちに(数日後)、我がアンプ、なぜか回復する。久しぶりにCDを聴くと良い音だ。ロウソク最後の炎か。

●久しぶりの映画は『ハッシュ』。感動、感動。忘れられないシーンの連続だったが、一つだけあげるなら、ラスト近く、三人が無言で河原を歩いていったシーンだろうか。遠景で眺めるなにげない人の動き、ただの自然にすぎない川の流れ、そういうものが、今のこの情感と完璧に共鳴しながら無限にといっていいほどいつまでも響いていく。なんでだろう、なんでだろう。映画の表現の極みってのはこういうのか。そんな思いをいだいて至福のひととき。

●人間のDNAのうち、遺伝子として働くのは5%に満たないという。あとの95%以上は意味をなさない配列で、タンパク質の合成が始まる段階では切り捨てられてしまうらしい。なんら情報を担わない無駄な配列が、これほどの冗長さで繰り返されることは、DNAの大きな謎とされている。新潮8月号〜10月号に連載された保坂和志カンバセイション・ピース」を読んでいて、なんとなく似たような無駄に、思い当たったり(してはいけない)。●しかし中村桂子という人(生命誌研究館副館長)は、DNAの各配列がコードしている一次的意味を特定したくらいでは、生命の本質は捉えられないことを強調する。一個の受精卵が分裂して無数の細胞ができ、それが脳になり、手足になり、内蔵になり、やがて一個の人間がめでたく形成されていく、そんな途方もなく複雑な作業のすべてを、DNAはトータルでプログラムしている。そうしたDNAの全体像、全体の働きは、まだまったく解明されていないのだ。退屈な95%の部分が、思いがけず大事な役割を果たしていた、ということにならないとはかぎらない。●中村桂子の主著とおぼしき『自己創出する生命』(哲学書房)は、かなり肩に力の入った感じがするが、それほどのテーマだからしょうがない。『あなたのなかのDNA』(ハヤカワ文庫)はずっと気さくだが、同じエッセンスは詰まっているし、DNAの基礎勉強ならこっちのほうが有効。●DNAをめぐってジャーナリスティックな側面も知れるのは、『ゲノム解読がもたらす未来』(金子隆一・洋泉社新書y)。どんどん話が広がる最後の章では「クローンというのは単に、年の離れた双子の兄弟を作る、という以上になんの意味もないことは明白だ」という見方。これがまっとう。いっぽう「例えば、完全にアンダーグラウンドの世界でアイドル・タレントなどの闇クローンが作られ、マニアに密売される・・・」「旧ソ連共産党の残党が、保存されているレーニンの遺骸からゲノムを採取してそのクローンを作ったりすれば・・・」とも。なるほどそうくるか・・・

●三島賞の『にぎやかな湾に背負われた船』(小野正嗣)。日本の僻地とはそれだけで描写する価値があるんじゃなかろうか。今なお。あるいは今だからこそ。三島賞の選評などにあったごとく、たしかに中上健次の小説を読んだ感じが思い出されたが、一人の現代少女がとりあえずの語り手であるところが、これはなかなか入りこみやすくさせているのではないか。最後にきて、戦前の満州や朝鮮にまつわる出来事が前面に出てくる。ああそうかそれもなるほどだなあとゴールインの感じをもたらしてくれたけれど、実はもっと不可解でもっと公的でないような強烈なゴールを期待していたような気もする。

宮沢章夫の小説『サーチエンジン・システムクラッシュ』。出合いがしらにがばと肩を組まれそのままずんずん連れていかれるようにして、最後まで一気に読まされた。探しものをしつつ、探しものが何だったのか、混濁してくる。なんでそんなものを探していたのか、曖昧になってくる。そんな状況にひたすら翻弄されている。 現実の秩序からは遠いのに、その曖昧さ、混濁のぐあい、翻弄のされかたは、やけにリアル。安部公房の「燃えつきた地図」を思い出す。そしてカフカをおもいだす。思い出してばかりですいません。


2002.10.10 -- 人生は短し小説は長し。 --

●『重力の虹』や『フィネガンズ・ウェイク』は柴田元幸もまだ通読していないという事実! これをきいてふと気が楽になってしまったが、ほんとうは気が遠くなるべきなのか。●小説に似ているもの。それはやはり旅行です。他人の推薦が当てにならないこと。まだ知らない旅先のガイド本は面白かったのに、じっさい旅してみると実はけっこう苦行だったりただ退屈だったりすること。かりに心が揺り動かされるほどの出来事があったとしても、それはそうした期待が滑って転んでずり落ちたどこか、想像に迷いはぐれ疲れはてた末のいつか、アクシデントのように起こるしかない。けっきょく愉快だったのか不快だったのか、有益だったのか無益だったのか、内心判定しがたい。そんな体験だが、それでもなんらか書きとめずにはいられないところ、誰かに語らずにはいられないところも妙に似ている。●だが、いつか必ず死んでしまうわれわれにとって、しかもそうは言ってもまだなかなか死なないわれわれにとって、小説を読むとか、旅行をするとか、そういうこと以外に、なにかありますか? ●『文学界』10月号(前号)の高橋源一郎・柴田元幸の対談「90年代以降 翻訳文学ベスト30」参照。


2002.10.7 -- 義務人生→戯夢人生 --


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