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路地に迷う自転車のごとく
▼迷宮旅行社・目次■これ以後
2002.11.29 -- アベ --
●季節の風物詩、あっちでもこっちでも道路をひっくり返す工事ばかりだ。自転車の私は、防寒着の警備員さんに誘導されて、そろそろと通り抜ける。そして図書館に向かう。いつも本をたくさん借りてくる。それなりに読んで(それなりに楽しい)、ふたたび自転車に積んで図書館に返しに行き、するとどんな本だったかすぐ忘れるが、また新しい本を自転車で運んできて、またそれなりに楽しんで、返しに行って、またそれなりに忘れて。そんなことの繰り返し。道路もおなじで穴をあけて、ふさいだかとおもったら、すぐまた穴をあけて、ふさいで、あけて、ふさいで、あけて、ふさいで、ああもう師走。税金を無駄につかい、それで誰かがいくらか儲かるらしく、それがまたいくらか税金として集められ‥‥。●小説本を、なにか鉱脈でも探すように、まったく細々とだけれど、どうにか読み継いできた。人が面白いというので読んでみたがさっぱり、ということは無数にあったし、どうにも難しくて訳がわからず断念、も珍しくない。そもそも自分が、心底、無条件にのめりこめる小説は存在するのか、と考えるとき、つねに安部公房のことだけは頭に浮かぶ。●というわけで、今また、自分にとって小説って何だろう、あるいはそもそも小説って何だろう、そんな根本的なことを問い直すようなつもりで、同時に、つまらない小説を我慢して読むこととはもう本当に手を切ろうかという思いを合わせ持ちつつ、実に久しぶりに、『箱男』を引っぱり出した(そんな大袈裟な)。しかしやっぱりこれが面白い、凄い。●それともう一点。阿部和重小説の多くは、周知の通り、「それを語っているのが誰だったのか、ふっと分からなくなる」「その文章を書くことについての注釈が、その文章内にやたら割り込む」といった混乱において際立っている。この感触がいつも、昔に読んだ安部公房を思い出せるので、そのうちちゃんと読み返そうと思っていたのだが、ようやく実現した。『箱男』は、まさにその混乱の妙味そのものだった。阿部和重との類似・対比に思いをめぐらすのにもう一作というなら、きっと『燃えつきた地図』だろう。「追いかけているつもりが、いつの間にか、追いかけられていた」●それにしても『箱男』、「語り手があまりに疑わしい」ことは明白。だからといって「真犯人は語り手だ」とは言い切れない。その震えるほどの、もどかしさ。果てしなく、困った、因果律。●ネット上を探すと、この事件の迷宮入りを執拗に回避しようとする意気込み無理やりサイトがあった。この推理に同意するかどうかはさておき、冒頭に《ホームズ研究では、ホームズの実在は疑わないが、ワトソンの実在は疑うのが定石になっている。落ち着いてよく考えてみれば、誰にとっても、「ワトソンが実在しなかった」のは当たり前の事だ。戸籍や記録を調べるまでもなく、奥付の著者名をみれば、ホームズはともあれ、誰しも、ワトソンの実在は疑わざるを得ないのだから。となると、ではワトソンは誰なのだろうか?》てなことが書いてあるので、「何だって!?」と目をみはり、ぐぐぐと引き込まれていく。安部公房ファンはもちろん、阿部和重ファンも、安倍副長官ファンもアクセスすべし。薬害エイズは安部被告。
2002.11.22 -- 読書を考える --
●講演会のお知らせをいただいたので、告知ページにリンク。早稲田大学現代文学会の主催。恒例のイベントのようで、そういえば、去年(大塚英志・すが秀実)も、おととし(保坂和志)も、生来の重い腰をあげて出かけたのだった。ことしは変容する「読者」 溶解する「読書」といったテーマで永江朗ら3人が話すという。●今こういうテーマが出れば、誰しもインターネットにおける読み書きを思い浮かべるのだろう。いっとき「人類最大の発明は何か」という問いがよくあって、しばしば一位にあがったのが「グーテンベルクの印刷術」だった。書物とはそれくらい決定的な存在なのだが、このパソコンやウェブは、それとガチンコ勝負できる強い挑戦者になるかもしれない。書物とは、知識や思考の絶対王制として、われわれをいびつに支配するアンシャンレジウムだ。革命は今や夜ごとクリックのたびに実践される。とかなんとか。●それにしても「インターネットがなかったころの日常なんて、もう想像しかできないね」という事態こそ、もっと驚くべきか。しかしそれを踏まえて、グーテンベルク以前つまり書物がなかったころの日常も想像してみよう。人びとの知識や思考は、たとえば長老が語るのを聞くとか、親方が示すのを身体で覚えるとか、なにかそんなぐあいに成り立っていたのだろうか。だからウェブは、文字を中心にした視覚情報が圧倒的という点で、実は書物にそうとう似ている。しかし、書物における情報の固定性、リニア性、統合性といった性質は、ウェブにはなさそうだ。そのあたり、もしや書物以前に還るような傾向があるのだとしたら、おもしろいが。●などといいつつ、きょうは散歩がてら『寝ながら学べる構造主義』(内田樹)をまた読んだ。本当に素晴らしく分かりやすい本だが、それはまたの機会にして、こういう持ち運びの便利さなんかが書物の捨てがたいところであることも、改めて実感。歩きながら学べる構造主義。●溶解する読書というと、風呂に本を持ち込むと少しそういう傾向がある。2002.11.18 -- 複雑骨折 --
●文庫になった阿部和重『ABC戦争』。小説を小出しにしながら、その小説に対する批評のほうも一緒に、あるいは先行して書いてしまった、とでもいったかんじの小説。この奇妙さ。阿部小説ならではの期待を少しも裏切らない。●最後は、またしても、なにかを語っていくことについて、語っているその場で、自らイチャモンをつけるようなハメになる。たぶん「クレタ島の人は全員ウソつきだ、とクレタ島の人が言った」という自己言及に似た混乱だ。そうすると、毎度のことながら、語りの土台として隠れていた地盤があらわになってしまい、同時にそれがぐらぐら揺れて・・・・。《きみはそれを書いてどうするの? それを書くとなにかいいことでもあるの?》。 ●下のほう(11日)に、「小説の内容ではなく、小説や文章の仕組み自体やその生地をわざわざ意識し強調した小説」とか書いていたのは、やはり、阿部和重のこういう快感をまずは念頭においていたのだろう。●さて、『ABC戦争』における批評的な部分は、どうしても蓮實重彦風に読めるのだが、またこの文庫本の解説を担当しているのが当の蓮實重彦という、なんとも不思議な入れ子(というか倒錯)状態。●それにしても、すでに批評を含んでいる『ABC戦争』をさらに批評するというのは、かなり不利かもしれない。負けはあっても、勝ちはありえない。それでもさすが蓮實重彦、どうにか引き分けに持ち込んだ、とでもいったかんじの解説。●しかし、これまで蓮實重彦は一貫して、小説の魅力を(私なりに言ってみれば)「溶かしても溶けきれない異物のようなもの」としてのみ位置づけてきた。となると、魅力的な小説であるかぎり、それを正当に説明できるような事態はありえないのかもしれない。ということで、蓮實重彦は実は『ABC戦争』の解説なんかぜんぜんしていないようにも思えた。●しかし、そのことを、私が『ABC戦争』をここでうまく説明できないこと、そもそも理解もできていないこと、蓮實重彦の解説だって理解できていないことの、言い訳にしていいのか。う〜む、それも結局うまくわからない。でもまあどっちもすこぶる面白かったんだから、いいじゃないか。2002.11.17 -- 文学、危うし --
●大塚英志『物語の体操』。物語には一定のパターンがあって、語りだせばいやでもそれにはまってしまうこと、しかもそのパターンをちゃんと踏まえてトレーニングすれば、オハナシを書くことなど誰でも習熟可能ということの、あっけらかんとした、身もふたもない立証。平野啓一郎『日蝕』はRPGに酷似する、など、題材に挙げた作家(ほかに村上龍や新井素子)を独自の見取り図に位置づける手際も、鮮やかで説得力がある。やがて、文学に対する根本的な猜疑を、《小説を書く文章というのはお話を書くよりは「私」について書く方に適した形で、いうなればゆがんだ進化の仕方をしたものである》といったふうに根拠づけていき、思わずうなってしまう。●きょうは大きな謎がひとつ解けましたね。しかしそれは、なんともいやな気分になることでもあった。人間のことならすべてDNAで説明できるよ、ほら、といった身もふたもなさに似ているのか。●物語が望ましきパターンに収まって成功することは、べつに悪いことではないはずだ。私の一生という物語が望ましきパターンに収まって成功することが悪いことではないように。しかし。そううまくはいかないこの現実を、さてどうしたらいい。じゃあお前は「望ましい人や人生」が嫌いなのか、というと、そうではありません。しかし、だからといって「望ましくない人や人生」が嫌いなのかというと、そうでもないような。いやいやそれはまた別の話であって、「望ましくない物語」くらいは容赦なく嫌ってもいいのでしょうか。2002.11.15 -- ぬるま湯気分にあらず --
●星野智幸『毒身温泉』。いい年をした独り者たちが、同じアパートにまとまって暮らす。これまた下の『エコノミカル・パレス』に似たモラトリアム気分のさらなる先延ばし、ことによったら永遠の先延ばしか、と楽しみに読んでいくと、彼らが世間的な家族単位からズレていくのは、世間的なジェンダーからのズレというはっきりした根拠があるようだった。そう考えてみれば、『エコノミカル・パレス』の女は逆に、ジェンダーがズレないゆえの苦悩(つまり実は「ふつう」に結婚がしたい、恋愛がしたい)を抱えていたのだとも言える。しかし、そうした家族や男女をめぐるズレと並んで、世間的エコノミーからのズレ、世間的エイジングからのズレといった主題も、モラトリム志向の基調としては隠れているのだろうし、その切実さが前面に出た小説もまた読んでみたい。そこには、学生の部活動、あるいは旅先のドミトリー、あるいは2ちゃんねるの祭り、そんな闇雲な、停滞感からくる不思議な高揚感をとりあえず期待する。しかし真実はそうノンキではないかもしれず、『毒身温泉』でも、『エコノミカル・パレス』でも、身寄りや宿のない老人が、「なれの果て」の果てとして、だがまだ他人事のようにして、通りすがる。●ところ「毒身温泉」の作中に出てくるURL(http://www.ne.jp/asahi/hoshino/tomoyuki/dokushin.html)は、実際にアクセスでき、作品に対する作家のストレートなコメントが読める。そういえば、星野氏はこの自らのサイトで日ごろからかなりストレートなもの言いをしている。小説のほうはそれをなにかにまぶしてわざと伝わりにくくしているようにもとれる。が、そう単純な図式でもないか。
2002.11.11 -- 小説規格 --
●角田光代『エコノミカル・パレス』(新刊)。バックパッカーあがりのフリーターそのなれの果て、とあれば、引き込まれないわけにはいかない。切なさが細かいところでぐっとくる。この作家は人を脅かすような語りはしない。文章の流れは交通法規を守った安全運転で、車窓の景色もポイントはさりげなく指さしながらドライブしていく。しかし、気がつくとスピードはじわじわ上がっている。ドラマは節度を保ったまましだいに盛り上がっていくのだ。すぐれた書き手だと思う。●こうした「文章という道具を使ってなんらかの内容をきちんと描こうとする小説」は、どうあっても「まっとう」の位置にあると思う。吉田修一や長嶋有もそうだ。いや大半の作家はそうなのだろう。そういうスムーズな小説のスムーズな楽しさに浸ってしまえば、もうわざわざ「小説の内容ではなく、小説や文章の仕組み自体やその生地をわざわざ意識し強調した小説」なんて、正直うっとうしく読むのが面倒になる。●にもかかわらず私はどこかで、角田光代に浸りながらも、めったに出てこないそっちの小説に焦がれて、気もそぞろである。辛うじて、横田創『(世界記録)』を最近読んだ。うっとうしいことこの上ない。これについてはまたいずれ。
2002.11.10 -- 華麗なる一日 --
●ブルーノートのオムニバスCDを聴き、ハプスブルク家の本を読み、穏やかに一日が過ぎる。日曜貴族。あるいは定年退職後の過ごし方、予行練習。いやいくらなんでもそれはまだ先か。だいいちリタイアするには、まずエントリーせねばならない。●さしてわけなく手にした『ハプスブルク家』(江村洋・講談社現代新書)。この一族盛衰のハイライトを追うことで、ヨーロッパ全域にまたがる息の長い歴史(13世紀〜第一次大戦)をさっくり総覧できる。薄っぺらい一冊なので飽きずに一気読み。朝ぺージを開けば夕飯の時分にはハプスブルク家もまた落日を迎えている(晴天なので散歩もしたい)。●それにしても、ヨーロッパの歴史なら学校でしつこく習ったはずだが、ハプスブルク家というのは教科書のどのへんに載っていただろうか。定かでない。おかげで新鮮なストーリーだった。用語ばかりが定着していた「神聖ローマ帝国」も、ようやっとイメージが立ち上がってきた。定年後はもっと分厚い本をひも解こう。●『ブルーノート・フォー・ユー/スタンダード篇』(89年)はファン投票による選曲。きわめつけの名演ばかりでため息しか出ない。これはもうモダンジャズのハプスブルク家だ。定年後は図書館などで借りず、買うべし。2002.11.9 -- たしかに、きょうも寒い --
●ウェブの日記が、いつのまにかアメリカあたりで「web log」と呼ばれるようになり、そのうちこんどは日本あたりでも「blog」と平然と呼ばれるようになった。まるで主権を侵害されたような嫌な気分になった人は多い。平民の読み書きにとって実は初めての言文一致という驚きと喜びの時期は短くも終わり、そこを踏まえた支配層による読み書きの標準語化・教科書化の時期か。●かつての「インターネットでホームページ!」という民族大移動が、そもそも領土侵害であり、そのときも「なにがネットだ、なにがウェブだ」と嫌な気分になった人は多かっただろうし、しかもその時点で、読み書きの普遍化と同時に読み書きの制度化はすでに大半が完了してしまっていたのかもしれないのだが。●参考リンク(ぼくとワレワレ #66)。2002.11.5 -- 吸って、吐いて、読んで --
●こうなるとネットダイビングというよりも、日中のほうこそゴーグルと人工肺でやりすごすような具合で、夜もかなり更けてようやく水中から上がり、ウェブと言葉の空気があたりを満たすと、どうにかこうにか自由に息ができる。こういう状態はどういうものだろう。いや最近それよりもっとどうかと思うのは、私が思いついたり書きつけたりしてきたことの、あまりのテキトウさかげんだ。恥じ入るばかり。虚仮の苔。●と言いつつも・・・、●夏目漱石の『坑夫』を読む。小森陽一が「小説を読むってのはこういうことなんです」と講義風に実践してみせる『出来事としての読むこと』という本があり、そこで取り上げたのがこの中編だ。小森は『坑夫』のテキストを冒頭から次々に引いてきて徹底分析を繰り返す。その読みの激しさは、それこそ鉱山の穴深く、まだ掘り下げるんですか、どこまで潜るんですか、もう勘弁してください、泣きが入っても容赦しない勢い。●もちろん、『坑夫』という小説の文章がそもそもあまりに密度が濃いのだ。息の抜ける場面がない。章立てすらないからトイレも行けない。主人公の絶望的な心情は、状況の刻一刻の進行に応じて激昂したかとおもえばすぐ消沈、めまぐるしく揺れてやむことがないが、その揺れを執拗なまでに内観、叙述。神経質でシクシクくる筆に、なんだかこっちの胃もやられそう。●『坑夫』は、主人公は19歳の少年だが、その体験をかなりあとになって本人が語っていく形式で出来ている。私があのとき思っていたことと、それについて私がこのとき思っていることが交錯。それは当然だが、それに加えて、過去の思いと現在の思いの交錯についてたった今書いたことと、たった今書いたことについてさらに今書くこととが、またしても交錯していく、そういう事実のふしぎな面白さ。いや、しかしまいった小説だ。まいった。
2002.11.4 -- 舞台に部隊 --
●モスクワの劇場人質戦争。芝居が進行している最中、いきなり銃声が響き、テロリストがまさにその舞台上に踏み込んでくる。その映像がきょうのニュースで流れた。虚構と現実の壁が崩れた瞬間、とでも言おうか。演劇を安定して鑑賞できる枠組みを、普段われわれは忘れているが、そこに大きな裂け目が生じて初めてそれに気づく。●寺山修司のパフォーマンスや映画を思い出した。映画『書を捨てよ 町へ出よう』の冒頭では、たしか、真っ暗なスクリーンだけがしばらく続いたかと思うと、映画鑑賞の枠組みをさらすような呟きが聞こえてくるのだ(このページに載っているのがたぶんそれ)。●とはいえ、チェチェンの兵士は、べつに前衛演劇を企てたのではない。しかし、チェチェンのこのどうしようもない暴力が、モスクワの安定生活を成り立たせる枠組みとしてどこかで黙って継続していた別種のどうしようもない「暴力」を、白々とさらしてしまったということは言える。 ●たとえば小説を読んでいても、そうした亀裂を待望するところがある。それが見事に実現したなら拍手喝采だ。しかしそれは同時に、なんらか身に直接迫ってくる恐ろしさ、現実認識の安定を喪失させるような危険がしのびよることでもある。寺山修司の活動が芸事で済まされない犯罪性を帯びていたのもそのせいだろう。モスクワの舞台でも、それが、いやはるかそれ以上に重篤な事態が起こったのだ――拍手喝采どころじゃない 。それは、きょうのテレビ鑑賞程度では、ただ推し量るしかないのか(だが、推し量ることはできる)。●法律ということも、万引きでもなんでも犯罪をやってみると、いやでも身近に迫ってくる、初めてその枠組みを実感できる、というか。
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