ウィトゲンシュタイン 野矢茂樹 「論理哲学論考」を読む
『論理哲学論考』を読む
野矢茂樹/哲学書房(2002年)





野矢茂樹は『論理哲学論考』を容赦なく読み解く、いやそれ以上に、自分の理解、解釈の線を保つことで、あるいは保つために、果敢に読み替えていく。

わからないことばかりだ。拉致被害者はどちらの国に住むべきか。アメリカは何故イラクを攻撃するのか。『海辺のカフカ』は傑作なのか否か。意見はたくさんある。考える手がかりもある。たぶんこうだろう、ぜひこうあってほしい、そういうことなら言える。しかし、はっきりしたことは誰もわからない。少なくとも私はわからない。いやもっと深刻なのは、どうしたらそれがわかるのかがわからないことだ。もっとこう、天地がひっくりかえっても「これだけは間違いない」という基盤はないのか。それとも「これだけは間違いない」という地点になど、我々はそもそも達することができないのだろうか。もしそうなら、完全な正答はいつまでたっても出てこない。いくら考えても議論しても無駄だ。

多くは望まない。いや多くを望むからいけないのだ。とにかく「これだけは間違いない」ということだけを、まずなんとしてでも確保せねば。おそらくそうした狂おしい動機によって、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』を著わした。言葉はどこまで正しくなれるのか。言い換えれば、どこまでしか正しくなれないのか。すなわち言語の限界という線を明確に引こうとした。(一見そうおもえて、実はそうではないともおもえて、やっぱりそうだとおもえる)

野矢茂樹『『論理哲学論考』を読む』は、その『論理哲学論考』を「間違いなく読んでいこう」とする試みだ。この場合の「間違いなく」は、『論考』における「間違いなく」とは次元は違うが、その意気込みにおいては負けない。

そんなわけで、私は『『論理哲学論考』を読む』を一行一行丹念に読んでいった。何度もいうけれど、わからないことだらけの世界にあって「これだけは間違いない」というものを、ひとかけらでいいから、この手でしっかり握りしめたい。「たぶんこうかな」がいくら増えてもしかたない。「はっきりこうだ」だけを手に取るべし。 たくさんでなくていい。急がなくてもいい。

そう言い聞かせながら、一歩一歩じわりじわりと進んでいく読書だった。「なるほど、これだけは間違いない」「ということは、そうかこれも間違いない、よし」。ところが、言語の限界に行き着くよりも、ときとして私の知能や忍耐の限界のほうが先にくる。しっかり手の平にのせたはずの「これだけは間違いない」が、しだいに砂粒のように指の間からこぼれ落ちていく・・・・・。待ってくれ! 待ってくれ!

-----以下、論理に関する考察のさわり-----

ウィトゲンシュタイン『草稿』1915年6月1日
私が書くもののすべてがそれを巡っている、ひとつの大問題――世界にア・プリオリな秩序は存在するか。存在するのならば、それは何か

これを受けて野矢茂樹。
論理はまさにそのようなア・プリオリな秩序であった》!
どのような要素命題が与えられようとも、その真理領域を反転するという否定の操作、共通部分を取りだすという「かつ」の操作、合併する「または」の操作、そうした操作の動きは一定のものとして定まっている。すなわち、操作はア・プリオリなのである。この操作のア・プリオリ性が、論理のアプリオリ性にほかならない》!!

ただし

論理は、しかし、もしいっさいの対象が存在しないのであれば、そこでは論理空間を張ることさえできなくなってしまう》 !!!

ウィトゲンシュタイン『論考』(5・552)
論理を理解するためにわれわれが必要とする「経験」は何かがかくかくであるというものではなく、何かがあるというものである。しかしそれはいささかも経験ではない。論理は何かがこうであるといういかなる経験よりも前にある。論理は「いかに」よりも前にあるが、「何が」よりも前ではない

野矢茂樹
ともあれ何かが存在する。それは認識よりも、論理よりも、あらゆるものに先立つ、始原なのである

これからもっと先がある。
野矢茂樹の究極結論、《語りえぬものは、語り続けねばならない》には、まだ遠い。
あとは同書をぜひ。

戻るの意味
進むの意味


Junky
2002.10.19

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