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    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2004.2.26 -- 虚構の果てのサウンド --

●こういうところに私の世代性が出るのかもしれないが、気になって購入にまで至った久々のCDは、坂本龍一の新作『CHASM』。通常のアルバムとしては95年『スムーチー』以来らしい。いかにもだが「虚構の果てのサウンド」というフレーズはどうだろう。楽器や人声をはじめ、人工という虚構、自然という虚構をいくつもトラックに振り分け、民族の虚構や平和の虚構もまぶしつつ、きれいにミックスしていった果ての音楽。●「虚構の時代の果て」とはもちろん、オウム真理教を考察した大澤真幸の著書名だ。大澤真幸は、1972年の連合赤軍事件までを理想の時代、それ以後を虚構の時代と呼び、その果てに95年の地下鉄サリン事件を位置づけている。●さて私が思うに、虚構の時代をやっていくにもいろいろ技法が求められるはずで、その究極の一つがサリンだったのかもしれないが、坂本龍一の音楽もまた、この時代の際立って良質なプロダクトだろう。私たち全体も、どちらかといえばサリンよりはそっちの製造技法を真似つつ身に付けつつ、虚構の果てさらには果ての果ての9年間をどうにか持ちこたえてきたのではないか。要するに、サリン事件という突出した事件ばかりに「虚構の時代の果て」を代表させなくてもいいと思うのだ。

●1曲目『undercooled』の朝鮮語ラップがやはり一番印象に残った。たとえば欧州の人なら、フランスであれドイツであれイタリアであれ、自国から見た他国は、きっと同一の文明を基盤にしたパラレルワールドみたいな存在なんじゃないだろうか。でも私たちは、戦後長いあいだ日本という現実とアメリカという理想だけでやってきて、パラレルワールドというなら本来どおりSFでしかなかった。ところがここにきて、日本みたいだけど日本ではない実際に触って確かめられる韓国という世界が隣に並ぶようになった。これは現代を生きる楽しみのひとつだと思っている。中国語版「鉄腕アトム」をテレビCMで聴いた不思議さもそのようなものだった。そこからみれば戦前のアジアは(もしかしたら戦後のアジアも?)私にはちょっと虚構だったかもしれない。……まあ何が言いたいかというと、案外「現実は虚構より奇なり」ということ。そもそも9・11以降は「虚構の果ての新しい熾烈な現実」と捉えるほうが一般的だろう。

●さてその9・11を目の前で見た坂本龍一は、すぐさま「非戦」の人になった(参照)。今回の歌詞もそうした主張は明らか。はっきり言えば、自爆テロへの非難より反テロの戦争への非難だ。ただそれはどこか虚構の歌詞、それどころか理想の時代の歌詞という気がしないでもない。●グローバル化した政治経済文化の中心であるニューヨークに住む坂本龍一は、どちらかといえばWTC(世界貿易センター)の側にいたのであって、そこに旅客機で突っ込んだ側にはいなかった。もちろんそんなことは踏まえたうえでの非戦の主張に決まっている。しかしたとえば、そうしたグローバルな支配と無関係ではない「輸出禁止商品」の印がこのCDジャケットの裏にも小さく記してある。当然「逆輸入禁止」法制化の話が思い浮かぶ。なんというか、『CHASM』は爆弾テロと同じく流通テロにもちゃんと向き合ってくれるのかい、なんて皮肉を言いたくなってしまうのだ。「World Citizen」と名付けられた曲もあるが、それからイメージするのも、どうだろう、むしろマンハッタンやWTCだったりしないだろうか。●おまけに六本木ヒルズのテーマ曲までちゃんと入っている。まさか自爆テロの側に「標的にどうぞ」というつもりではあるまい(そうであってももちろん困るけど)。いやいや、これはべつに坂本龍一を批判しているのではない。六本木ヒルズが虚構の時代の果てにそびえる城ならば、私もまたその城下の隅っこでその調べを3千円払って味わう側に一応いるのだから。ジェット機を乗っ取って高層ビルに突撃する仲間にはあまり入りたくないが、ジェット機に突撃される高層ビルで給料を稼ぐ仲間に入りたくないとは、必ずしも言えないのだから。でもCD逆輸出禁止の法制化では、坂本龍一とリスナーは笑う側と泣く側に分かれるのではないか。まったくその通り。しかし実は多くの人が、あわよくば自分も笑う側に回りたいと切望し、人によってはすでに笑う側に回っていないともかぎらない。「逆輸入禁止で笑うやつに、それで泣くオレの気持ちがわかってたまるか」とぼやく私。ではその私は、自爆テロを受けて死ぬ人の悲惨だけでなく、自爆テロに行って死ぬ人の悲惨のことが、いつも本当に念頭にあるだろうか。

地下鉄サリン事件の裁判でオウム真理教の麻原教祖の判決があした出る。あの事件、発生当時はどう感じていたっけ。サリン事件は連続幼女殺害(宮崎勤被告)などとともに「私の時代の事件」と受けとめる人が少なくなかった。でも私はそうした切実さを覚えた記憶がない(私は一応新人類世代か。今や化石ような新人類)。虚構の時代すなわち自覚的に過ごした80年代等の果てとして、あのオウムやこのサリンがあるといった直観はなかった。今もべつにない。●それに比べて9・11はどうか。まあこれだって見物人にすぎなかったのだが、それでもサリン事件と違って、自分の日常と完全にかけ離れた話とは思わなかった。自爆テロを受けた側についても、実行した側についても。●オウムの信者たちは、なんらかの個人的な困難がやがて生存の困難や危機感へと転じ(または無理やり転じさせ)、その抵抗や解消のためにサリンテロを行った――ざっとそんな見方に無理はないだろう。でもその個人的な困難というのは、なかなか実感できない。それに対して9・11以降のテロでは、その元になっているらしき困難が、私たちとまるきり無縁ではないように思う。今の日本を覆っている経済の困難がどんどん熾烈になっていって現れる、生存の困難として共感できるように思う。いや婉曲的に言うことはない。要するに、耐えがたき貧困の腹いせに六本木ヒルズに火でもつけるようなテロなら、私たちも想像できるではないか。貧困の腹いせに(右翼の資金源にではなく)ヤフーBBの顧客データを盗むようなことでもいい。私にとって他人事でないテロと言うなら、そういうものになる。そこへいくと、地下鉄にサリンをまくというのは、やっぱり少し想像しにくい。(どっちが正当かという話ではない。だいいちどれも「間違っている」と言うしかないだろう。)

●ちなみに――。95年の『スムーチー』も最近聴き直していたところだったのが、これも同等に「虚構の果てサウンド」の感あり。私たちは95年にはすでに行き着いた果てのどこかにそのままずっといるのだろうか。いちばん好きなのは、ピアノと弦がシンプルな旋律を奏でる「BRING THEM HOME」。あるレビューによると、難民を故郷へ帰してという願いが込められているらしい。短調からいったん長調に変わるがまた短調に戻ってしまうところに空虚さを感じるといったことも書いてあり、なるほどしみじみしている場合じゃないのかと思った。●95年は、地下鉄サリン事件や阪神淡路大地震の年であるほかに、ウィンドウズ95の年でありインターネット元年とも言われた。『スムーチー』にも「電脳戯話」という歌がある。《僕らは意識の旅に出る あの海を渡り波に乗る》(作詞 高野寛)。いかにもインターネットの時流に乗ったふうだったが、いい感じでもあった。その後インターネットはあまりに速いスピードでそれこそ虚構の果てまで達した感があるが、この頃だけはつかのま理想の時期だったかもしれない。ただ私たちは、むしろ虚構の果てのことのほうがよく馴じんでいて、インターネットも今みたいにあらかじめ煮詰まっているものとして扱うほうが、得意かもしれないけれど。

●もう一つちなみに――。今回の『CHASM』は全体のところどころに雑音をわざと混ぜてある。我が家のアンプはオーディオ理想の時代の名残をとどめるサンスイ製だが、寿命で半壊したあと謎のように自然治癒したものの、それでも不調の日にはアナログノイズを発することがあり、坂本龍一の虚構の果てなるデジタルノイズとの区別がつかない。まあオーディオの音なんてそもそもみんな虚構かな。

amazon:『CHASM』 『スムーチー』『虚構の時代の果て


2004.2.25 -- Invite yourself. --

まずはともかくアメリカ流で若者ばかりひしめき合った友達志向の輪ときてやがる。けっ! この俺様をそんなところに、誘える者なら誘ってみろってんだ。いっぺんでいいから。ヘイ、ユー、そこの人!


2004.2.24 -- のんきな日本の私 --

高橋源一郎メイキングオブ同時多発エロ」(群像3月号)。「力」による支配というものがどんなからくりになっているかの寓話? ――純朴ながらそう受けとめた(といっても実際は、女生徒が跳び箱のかげで教師に暴行される話なので注意!)。ではこの「力」というものに「知」や「金」はどう絡んでくるのか。女生徒を煽動する姉は、「知」はむしろ「力」の支配を隠蔽しているとみなし、「知」を一掃するような(性)教育を模索していく。その一方「金」については、「力」を支えるような、「力」に抗するような、どちらとも言えない《ほのめかし》だけがあり、その微妙さにむしろ感じ入った。●この連載しばらく読んでいなかったので前後関係が分からないのだが、今回は最後になって場面が変わり、どうやらテロをテーマにしたビデオ作品を作ろうとしている「わたし」が出てくる。「わたし」は作品作りのヒントになる映像をたくさん見たらしい。しかし「わたし」と対話している相手は、ヒントというのは「ヒント」という言葉でしかない、きみはテロの映像など一つも見ていないのかもしれない、と批判する。「なぜです」と「わたし」が問うと、相手はこう答える。《「なぜって、ほんとうのところ、テロの映像は、たったふたつしかないからだよ」「ふたつ?」「そうさ。テロリストが見た映像、そして、テロによって殺された人間が見た映像。それだけが、『テロの映像』で、その他は、ぜんぶ見当外れなのさ」》●やはりというべきか、「力」をめぐって「知」や「金」に続いて「命」が浮上してきた。このところ私なりに考えていることの役者もこれで揃ったかなという感じがした。●考えていることというのは――。イラク反戦デモ等に、私はホントは行きたいのか行きたくないのか、どっちなんだろう。べつに悩まなくてもいいことにわざわざ悩んでいるうちに、これはどうしても、先日判決が出た落書き反戦のような運動や、千代田区たばこポイ捨て抵抗のような運動について、支持や参加をするつもりが私にあるのかないのか、そこを問わねばならない気がしてきた。さらには、戦争問題よりもっと切実かもしれない経済問題をめぐって、たとえばもしも「新生銀行なんて株式操作でつぶしてしまえ」という運動が起こったら、どうしようか。さらには瀕死の土建業界も結託して実働部隊を出動させ「新生銀行なんてショベルカーでつぶしてしまえ」とエスカレートしたらどうだろう。そして究極、自爆テロは、市民運動や社会運動たりうるのか。それとも(何度も言っているが)今の私に自爆テロだけは圧倒的な他者であり、議論や想像や小説では「見当外れ」にしかならないのか。それは本当か。


2004.2.23 -- ただの子供好きなら許される? --

●いわゆる「警察官の女児連れ去り事件」。つい余計なことを考えてしまうのだが、ふつうに幼児をかわいがるという行いは世間では許される。むしろ促される。この男も、車に乗せずに子供の手を引いて道を歩き、2キロでなく50メートルくらいで別れていたら、どうだったのだろう。危害を加えるつもりなどまったくなかったとしたら、どうだろう。少なくともそういう報道はされていない。ただし刑法上は、自分でものを考えないような幼児は、だましてでなくても、ただ連れて行くだけで誘拐と同じ罪になる可能性があるという(未成年者略取)。●これが、他人の飼っている犬や猫を車に乗せて連れ去ったなら、どうか。それは窃盗とかそういう罪か(よく知らない)。未成年者略取は、子供を危害から守るのが目的だろう。でも、むやみに幼児をかわいがるだけの人も少し注意しないといけない。まあ常識的には、幼児は親のものだ。犬や猫が飼い主の所有であるのに似て。親や飼い主以外は手を出すなという前提が、やはりそこにあるのかなと思う(その是非はまたゆっくり考えるとして)。●このニュース、私も『シンセミア』の巡査を思い出した(富士日記2.22と同じ)。ただし『シンセミア』では子供は性愛の対象だった。もちろんこのニュースはそんなことに一切触れていない。それでもなんとなくそうした連想もしてしまうのが、禍々しい日本の私だ。それは幼児を連れ去る人が悪いのか、それとも連想する人が悪いのか、微妙。その人が警察官だったことについても、「まったくけしからん」と「どうせそんなところさ」のどちらの反応が正当か、そこも微妙。●これ以上書くと「おまえ鬼か」と言われそう。「いたいけな子供をおまえになど金輪際委ねるものか」とすべての親から拒絶されそう。でもそのほうが助かるという人は、ただの子供嫌い。●アル・パチーノとジーン・ハックマンが共演した映画『スケアクロウ』には、ちょっとこれに似た場面がある。そこからラストまでは何度見ても泣いてしまう。思い出しただけでも泣けてきた。


2004.2.22 -- ヘレン・ケラー再び --

●話は変わってまた本の紹介。『言葉のない世界に生きた男』(スーザン・シャラー、中村妙子訳)。93年刊だが意義深い一冊だった。●生まれつき耳が聞こえず言葉を知らないまま成人した男性イルデフォンソに、なんとかして言葉の存在に気づかせようと心を砕く女性スーザン。その実話。言葉を初めて知った瞬間、言葉を増やしていく過程、それらがありありと描かれている。それまで彼はどんな世界に生きていたのか、それを垣間見ることにもなる。●著者のスーザンは手話ボランティアとして赴任した施設でイルデフォンソに出会う。彼はすでに27歳だったが、手話を教わらなかったため言葉の存在自体をまったく知らない。本にあるネコの絵やネコをまねた身ぶりはわかるが、黒板に書いた「CAT」の文字はわからない。スーザンが絵と「CAT」を交互に指さしても、イルデフォンソはその行為を反復するだけでその意図はわからない。そんなもどかしい日々が続いたあと、奇跡の瞬間が訪れる。ここはやはり一番興味深い場面だ。長いけれども引用しておきたい。●《彼は硬直した姿勢ですわり直し、頭をぐっと反らせ、あごを突き出していた。恐怖に捕らわれているように、白目がひろがっていた。(…)イルデフォンソは彼の前に立ちはだかる壁を、ついに自力で押しやぶったのである。(…)そうだ、C-A-Tには意味がある。ある人の頭の中のネコは、他の人の頭の中のネコと結びつくことができる――ただネコという観念が把握できただけで。/この天啓の意味をゆっくりと噛みしめているイルデフォンソの顔は、波立つ興奮に生きいきと輝いていた。彼の頭はまず左のほうにめぐらされ、ついでゆっくりと右のほうに向けられた。はじめはゆっくりと、しかしやがてむさぼるように激しく、彼はまわりのものを次々に、まるで生まれてはじめて見るかのようにしげしげと眺めた。ドア、掲示板、椅子、テーブル、仲間の受講生たち、時計、そしてわたしを。/イルデフォンソはテーブルを両手でピシャリとたたき、答えを求めるようにわたしを見あげた。「テーブル」とわたしはサインした。彼は今度は本をたたいた。「本」とわたしはたちどころにサインを送った。わたしの顔は涙にぬれていた。その涙をぬぐいもせずに、わたしは「ドア」、「時計」、「椅子」といった具合に、彼の指さすものを次々に手話で表現した。けれどもそうしたものの名前をたずねはじめたときと同様に唐突に、イルデフォンソはさっと顔を曇らせたと思うと、テーブルの上にいきなりつっぷしてさめざめと泣いた。(…)イルデフォンソは人間の住む宇宙にはじめて足を踏み入れ、精神の交わりというものがあることに気づいたのであった。彼はいまや、彼自身にも、ネコにも、テーブルにも、そう、すべてのものに名前があるということを悟った。そう気づいた結果、彼の目は悪にたいして開かれた。それまで二十七年間にわたって彼を他の人間仲間から隔ててきた悪、彼を孤独のうちに幽閉してきたおぞましい牢獄を、彼はいま目のあたりに見ていたのだった。》●人間社会から隔絶されて育ったいわゆる野生児は、いくら言葉を教えてもまともには身に付かなかったと伝えられている。聾者もまた成人したあとでは言葉の獲得は難しいと考える人が多いらしい。しかしイルデフォンソは違った。スーザンはイルデフォンソと野生児を比較して考える。イルデフォンソも野生児と同じく言葉にまったく触れずに育ったが、他の人々や社会の中で生活していたところが決定的に異なる。その結果、イルデフォンソは言語は発達しなかったが、社会生活があったおかげで言語につながる能力自体は発達したのだ。●私なりに言い足せば、一般人は言葉によって世界を分節し言葉によって世界を織りあげている。一方イルデフォンソも、言葉は使わないけれど、それにやや似た世界をどうにか分節し織りあげてきた。ただそれは、言葉の世界に比べれば相当粗い分節、粗い織り方ではあった。そんなことが、その後二人が言葉学習をしていく様子から窺える。●ひとつの鮮やかな例は、イルデフォンソが「緑」という単語に過剰な反応を示し、さらに本人自身が「緑」という単語を手話で示すときにも過剰な意味を担わせようとしたところに見ることができる。それを怪しんだスーザンがあれこれ調べた結果、イルデフォンソがメキシコからアメリカに渡ってきたこと、その際かなりひどい目にあったらしいこと、そしてその国境を取り締まる警備員の服が緑色だったことが明らかになる。先ほどの言い方にならえば、緑という色の感覚が、恐怖や危機という一種の概念を、言葉に代わってかなり漠然とではあるが分節し織りあげていたということになるだろう。それが「緑」という単語(とりあえず「恐怖」や「危機」という単語ではなかったが)に受け継がれた。●人間は言葉なしに思考できるのか――それは微妙な問題だが、仮に言葉なしの思考があるとしたら、イルデフォンソのような体験をまぎれもない実例とすべきだろう。少なくともイルデフォンソは、たとえば、ネコ1とネコ2をそれぞれ目にして「同ジヨウナ物デアル」といった自覚はあったに違いない。そうでなければ「CAT」という言葉の役割に気づくこともなかったはずだ。とはいうものの、こうした言語が介在しない抽象化・概念化の意識を、一般の我々が追体験できるのかどうか、そこはまたまた難しい問題だ。●このほかスーザンは、イルデフォンソの弟もまた聾者で、しかし二人には独特のコミュニケーションが成立していたことを知らされる。またイルデフォンソとその弟に連れられて、同じく耳の聞こえない友人たち10人ほどの中に入り、彼らが、かつてイルデフォンソがそうであったように、言葉はなく手話も知らずただ身ぶりだけによって長時間コミュニケーションしている現場を直に目撃する。これについて同書は詳しい分析をしていない。しかしこれもまた「言語なし社会あり思考あり」の一例でありうる。彼らのやりとりの多くはそのまま一般の言葉に置き換え可能かもしれない。比較するのも失礼だが、動物に見られるようなコミュニケーションとは全く質が違うのだろう。●なお、スーザンは言語学や認知科学の専門家ではない。また、これらの報告はイルデフォンソが自ら書いたのではなく、スーザンがイルデフォンソを観察して書いたものだ。この点は留意すべきだろう。それでも言葉のない世界を垣間見る材料として、この一冊はまったく貴重な報告書だ。

●ところでこの本は読んでしばらく放っておいたせいか、パソコンにメモを残したと思いこんでいたが、そのような書類は見当たらず、しかたなく書名で検索してみたがやっぱり出てこない。その代わりというわけでもないが、かなり昔の97年にもらった一通のメールが引っ掛かった。ある方が『言葉のない世界に生きた男』という本を読みましたよ、と紹介してくださっているのだ。完全に忘れていたが、そのころも私は言葉がどうの思考がどうのと、素朴な疑問をめぐってウェブにいろいろ書いており、それに応じて紹介いただいたようだ。今から思えば、その本はまさに私の素朴な疑問へのなによりの解答だったのだ(ありがとうございました)。●そういえば思い出した。この本のメモを記しておこうとした日、私は家の扉に右手の人さし指を挟んで傷めてしまったのだった。おもしろいことに、指一本使えないだけでキーボードで文章を打ち込む作業は難儀する。伝えたい思いがあっても表わせないというイルデフォンソの苦悩が、かなり違ってヘンな形ではあるが、ちょっぴり共感できた気にもなった。●それから、この本はネット上で知って「ぜひ読もう」と思いたった。でもそれってどこのサイトだっけ忘れたなあ、と諦めていたが、『言葉のない世界に生きた男』をグーグル検索したらそのぺージが出てきた。『羊堂本舗』だった。●まあそういうわけで、一応言葉のある世界に生きている私だが、せっかくの大事な言葉をどんどん忘れる世界に生きており、しかもその言葉を後から検索機能でいくらでも思い出せるような世界に生きた男。

●それと、イルデフォンソは幸いにも言葉を豊富に獲得できたが、ほんの片言しか身に付かないままになった聾者にもスーザンは出会っている。するとその人は、自分の一番切実だった体験や心境のすべてをたった一個の単語に無理やり託そうとする。人に会うたびに手話でその単語だけを示し、関心を向けてもらってなにがしか思いが伝わっているようだと安心する。さて、私たちは一応書き言葉を十分に把握してコミュニケーションしているつもりだ(身ぶりの示せないネットでは特にそうかもしれない)。それでも、言葉が思いの丈に足らないことはしょっちゅうだ。乏しい言葉だけを呆れられるほど繰り返してしまうこともある。きっと私たちが言葉を交すのは、正確無比の伝達機能だけを求めてのことではないのだ。●イルデフォンソと野生児を比較してきたスーザンは最後にこう述べている。《イルデフォンソはときとして人間らしい取扱いを受けなかったが、自分が人間であるということを知っていた。彼には、自意識があった。わたしを彼にひきつけた最大の特質の一つは、他人と結びつきたいという、たとえ手段は欠けていてもコミュニケーションを保ちたいという強い願望であった。


2004.2.19 -- はてなカップ --

アクチュアリズムって何だろう
 ↑スルーパス、そしてゴール↓
「動員される側」のお守りとして

嫌煙派は害虫であるだろうか
 ↑こちらのパスは、辛うじてカット↓
http://d.hatena.ne.jp/churos/20040218#1077065199

●それぞれどちらのサポーターに回るべきか、実に迷う!


2004.2.18 -- 数学とは何か(というほどのこと) --

足立恒雄という数学者が一般向けに書いた『無限の果てに何があるか』と『√2の不思議』。私はこの2冊で「数学とは何か」がついにわかった! ……またもやインフレ目標政策のごとく言葉を乱発して恐縮だが、そういうことにしたい。もちろん数学のド素人としての弁だが、同じド素人の方にはむしろ聞き捨てならないはずだ。高校時代いちばん泣かされたのは数学だった。二次方程式の解の公式は忘れても、中間・期末テストの答案を一人ずつ教壇まで取りに来させすぐには返してくれなかった**先生の顔だけは忘れない。そのころ40点が落第ラインだったが、その界隈を毎度うろついていたあの頃の私とその愉快な仲間たちに、以下のテキストを捧げよう。

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2004.2.11 -- イラク問題ではなく私の問題 --

美濃口坦「イラク派兵についてどう考えるか」(『萬晩報』)。これを読んで思いきりため息が出た。なぜか。それは美濃口氏の猜疑が、占領軍に対してでもイラク各勢力に対してでもなく、この私(たち)に直接向けられていたからだ。●《今イラクに派兵することは米国の侵略戦争の追認になると考える人は多い。でもこれは筋違いである。侵略戦争犠牲者に良かれと思ってを援助することが侵略の追認なら赤十字の活動の多くがそうなる。本当は、米国を助けることを多くの人が我慢できないのではないのか。でもここで「我慢できない」のは、自分たちが無力で侵略した張本人を処罰できないこと、また国際社会に(国内と異なり)警察も裁判所も存在しないことに対してである。でも自分たちの国が無力で、国際社会がこうであるのは昔からの不愉快な事実であり、この事実に直面することは戦争の追認にならない。》●では美濃口氏は、自衛隊派遣にも同意するのか。……というと、微妙に違う。日本における自衛隊派遣の議論は、まるで《…何が何でも結婚したい結婚至上主義者と独身至上主義者の論争…》だとして非難する。どういうことか。●《米国からの圧力があるかもしれない。でもそれ以上に、憲法九条問題で既成事実をつくりたい日本政府にとって、武装兵士の海外派遣そのものが自己目的になっているのではないのか。とすれば、これは、結婚したいだけで、相手かまわずに結婚したがる人と似ている。だから相手、つまりイラクのことなど本当はどうでもよいのである。》●《イラク派兵に反対する人々にとって、派兵、すなわち結婚そのもに反対することが重要で、相手、すなわちイラクの事情も二の次である。だから反対するために何が何でも「戦闘地域」にして、「占領軍に抵抗するイラク国民」と思いたいのではないのか。》●とにかく実に深く考え抜かれている。こうした意見は、テレビでも新聞でも国会でも中心に躍り出てよさそうなのに、そうなっていないようなのは、これいかに。


2004.2.9 -- Tあの気持ちU --

綿矢りさ蹴りたい背中』(芥川賞)●「おお青春、ああ孤独」と浸りかねないところだったが、淡い、淡い。いやまあ高校生活における出来事なんて、大人のしかも他人にすれば、どれも気の抜けた炭酸水にちがいない。それでも当人は目下それが濃すぎて熱すぎてもう死にそう! とまあそういうぐあいに青春は実在する。つまり淡さのなかにも実質的な濃さがある。だったらもっと過剰に告白し描写してもよかったんじゃないか、その濃い内面や状況を。全体になんというか、希薄だったかなと。なにより主人公の女子が相手の男子に向けた心情、すなわち「背中を蹴りたい心情」のことだ。恋愛とはまた違った気持ちなのだとも解釈されるが、実はそう特殊でもなく、わりと一般的な話なのに説明が不足して神秘化されているだけにも思えた。汚く惨めになってもいいから、そこはもうちょっと書き込んで伝達してほしかった。こういう仮想と比較が正当かどうかわからないが、たとえば綿矢個人が高校の時につけていた日記なら、きっともっと長ったらしく、もっときわどかったり身も蓋もなかったりするのではないか。あるいは、そういう19歳が小説を書いてみると結果的にこういう淡さになるところに、なにか真実味があるのかもしれないが。●凝っていながら生硬な文章に「いかにも高校の文芸部」とは誰しも感じるだろう。私もそうだった。でもそれは軽くあしらったという意味ではまったくない。創作の手の内、言い換えれば、若い苦い個人の小さな事件がどう語られうるのか、それがなんとなく見えそうなところにむしろ惹かれた。また、高校の文芸部の同人誌などというものを、結局読んだためしはないわけで、しかしあの人たちはいったい何をどう書いていたんだろう、ちょっとそのつもりで読んでみるかと、そんな大昔を振り返るような期待も手伝って、萌えた(←これは嘘)。●『蹴りたい背中』を手にするというのは、消費行動としては、新人バンドのデビューCDをためしに聴くようなものだろうか。音楽の場合はテレビで流れてきたりレンタルしてBGMに使ったりという関わりもあるが、小説本を一冊読むには、CDならオーディオにきちんと向き合って聞き込む程度の集中力が必要だ。しかも純文学の新人となると事前情報や周辺情報が行き交うことはめったにない。そう考えると、芥川賞のプロモーション力は破格だ。さもなくば『蹴りたい背中』も読んだかどうか、あやしい。


2004.2.7 -- きれいな戦争、きたない平和 --

●雑誌SIGHTに触発されて手にした藤原帰一「正しい戦争」は本当にあるのか』。(参照1.27

●『「戦争反対!」なんて意気込むと「あなたは現実を知らないね」と諭される。たしかによく知らないので言い返せない。そうか現実を前にしたら平和は諦めるしかないのか、と。ところがその現実をしっかり見つめてみると、戦争だ戦争だと意気込む連中だって現実をよく把握していないことがわかる。しかしいっそう思いがけないことに、平和への空論は、戦争への空論と同じくらい大きな過ちに転びかねないのだ。このインタビューは、戦争をめぐる政治の力学を冷静に丁寧に平明に解き、こうした図式に気づかせる。藤原帰一は「戦争は絶対避けられる」と楽観はしない。だが「戦争は絶対避けられない」と悲観もしない。そして平和という細道を理念よりも実践の課題として探っていく。戦争の可能性は0%でも100%でもなく、常にその中間を揺れ動いてきた。そうした政治と歴史の現実が次々に示されて、目から鱗も次々落ちる。最終的に私はこう励まされたように感じている。諦めるべきは平和じゃない、戦争のほうだ、と。( →まだまだ続く全文をどうぞ


2004.2.3 -- 知恵熱 --

●検索ロボットはたぶん人間より低能だから、こういう高度なページは他のPRページと識別できないだろできるならやってみろと思うと、可笑しくてしょうがない。いやでも人間も案外そのレベルだったりして? とりわけ営業を検索ロボットに任せてしまうような会社なら、やはり検索ロボット並みに首をひねるかも。知恵熱を出しつつ文句をつけてきたとしても、いっそう話がややこしくなって、また可笑しい。(リンク先『圏外からのひとこと』)


2004.2.2 -- 論争の果てに何かあるか --

●1月23日にも触れた『無限の果てに何があるか』(足立恒雄)を読んで、数学という思考はあまりに特異な位置にあるのだと改めて実感。その感動についてはまたいずれ。きょうはそこから派生して考えたことをひとつ。

●数学の証明とは何かという話になると「公理系」というのが必ず出てくる。「ある点からある点に線を引ける」「直角はどれも等しい」といった当たり前みたいな条件を「公理」として取り決め、それを基にして図形のさまざまな法則を厳密に証明していく、そうした枠組みのことだ。だから公理系はいくつでも想定できる。その好例として「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」がしばしば紹介される。我々はふつう「三角形の内角の和=180度」と考える。このときは「ユークリッド幾何学」という公理系に立っているのだ。しかし、たとえば北極・シンガポール・ナイロビを地表で結んだ三角形ならどうだろう。内角の和は180度を超えるはずだ。つまり、三次元的に曲がった世界では公理系を「非ユークリッド幾何学」に転じる必要がある。●この異なる二つの幾何学は、ニュートン力学とアインシュタインの力学(相対性理論)それぞれの拠り所になったとされる。加えて、力学の大きな理論変更としては量子力学も出現した。ニュートン力学がたとえば野球のボールや自動車の動きをほぼ正確に計算できるのに対し、銀河や光といった巨大あるいは高速のスケールでは相対性理論を用いる必要がある。逆に、原子核や電子といったごく小さいスケールでは量子力学が成り立っている。つまり物理学では、対象となる物質や現象のスケールが変わることで、それを扱う数学に公理系の変更が要請されてきたということだ。(相対性理論と量子力学の違いが幾何学の公理系の違いに当るのかどうかは不明)

●さて、こういうことは経済学や戦争をめぐる議論においても言えそうだ。ふとそう思いついた。●経済学では、まるきり初歩的な例だが、小さい市場で売り買いする経済と、国や世界の規模で揺れ動く経済には、それぞれ別の数学・別の理論を当てはめる。これも公理系の転換みたいなものだ。それが「ミクロ」「マクロ」とスケールで区分されるのはなにか象徴的。あるいは、マルクスという人は、「資本主義が成り立つ」という絶対の公理系が支配していた経済学に、「資本主義が成り立たないとしよう」と別の公理系を対置しようしたと言ってもいいだろう。●「戦争は避けられない(平和はない)」「戦争は避けられる(平和はある)」という根深い対立も、まさに相異なる公理系であるかのように感じられる。つまり、戦争をめぐるこうした見解は、議論によって白黒つけるべき課題というより、むしろ他の具体的な命題を証明するための公理として最初から要請されているように思えるのだ。たとえば「自衛隊のイラク派遣は正しい」「北朝鮮への制裁は正しい」といった具体的な命題が、「戦争は避けられない」または「戦争は避けられる」どちらの公理系に拠るかによって、真にもなれば偽にもなる。たとえ話で言うなら、政治の幾何学として「イラク×アメリカ+日本=平和」と「イラク×アメリカ+日本=戦争」二つの公理系が共に成立している、ということになるか。

●「論争って空しいね」と言いたいのではなくて、ここからくみ取れることがある。経済や戦争について、ただ一つの原理、ただ一つの公理系で説明しつくすのが無理だと感じられたときは、べつに全部を説明しつくす必要も義理もないということだ。スケールや視点の変化に応じて、別の経済論や別の戦争論を異なる公理系として使い分ければよい。当てはまる部分だけ当てはめて、ほかの部分との整合性には少々目をつぶる。そうやって難しい現実が納得できるなら、べつに不誠実でもない(数学の証明では無理だろうが)。たとえば財政とか金融とかあるいは安全保障とかを考えるとき、家の財布と国の財布、あるいは個人の殴りあいと国家の殴りあいでは、どうしても異なる原則や理屈があるように思える。誰しも実感しているところだろう。●正しい不平等。正しい戦争。そういうものが成立するスケール(共同体)がありうることに、目をそらすのはおかしい。同時に、それがどうしたって成立しないスケール(個)がありうることに、目をそらすのもおかしい(保留)。

●さてさて、政治や経済の議論を公理系として眺め直すのであれば、数学に絡んでぜひとも踏まえておきたい事実がもう一つある。それは「数学は自然科学ではない!」ということだ。数学の証明は公理系を踏み外さないかぎり完全に永久に正しい。それは数学というものが、自然現象とはなんら関係ない、まったくの仮想世界における思考だからだ。…いや私ではなく足立恒雄氏がきっぱりそう言う。●ということは…。そう、他のあらゆる科学は完全でも永久でもない。地球のことも生物のことも、空間のことも時間のことも、我々は数学をそこに当てはめることで現象を解釈し納得している。しかし宇宙が本当にそうなっているのかというと、その保証はない。少なくとも隅々まで実際に確かめてみるまでは。ミクロやマクロの経済学も、戦争や平和の思想もそうだし、相対性理論や量子力学もそうだ。これらの理論は、物質や社会のふるまいを計量し予測する道具として磨き抜かれ、かなり実用的でもあるけれど、これらの対象が本当に数学的に生成され構成されているということを意味しない。いやそれどころか、このリンゴやあの火星、あるいは現実の不景気や現実の戦争が、そもそもどのような数学にも法則にも従っていないという可能性すらある。そうでないとは誰も言えない。●だから何だ、ということにもなるが、それもまた改めて。

●正月、古い知りあいに「東京で毎日どんなふうに暮らしているのか」と聞かれた。どうにも答えがたく「ああ、だったらウェブの日記読んでもらえれば…」と言いそうになるが、でも「こんな暮らしです」というわけにもいくまい。いや案外これで生活の要約だったり…。何だろうか、これは。生活の果て?


2004.2.1 -- 経済大盛りつゆだく --

稲葉振一郎経済学という教養』。これは凄い! やっぱり独創的というべき一冊だろう。感想を頑張って書いた(別ページへ)。


04年1月

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