TOP

▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2004.1.29 -- 豚丼大盛りつゆだく --

●牛丼各チェーンのメニューをNHK7時のニュース畠山さんに逐一教えてもらえるとは、これまた。それにしても、食糧というか貿易というかそういう現実は、このように反転した形でようやく実感する。●こうした禁輸措置を重ねに重ねると、北朝鮮みたいな食糧事情に陥るというわけか。


2004.1.27 -- 青汁 --

●音楽に対する一個人の強い感受性を譲らぬままに雑誌出版を貫いてきた渋谷陽一という人物が、時を経て、今度は政治や経済にも向かいはじめた個人のやむにやまれぬ思いを新雑誌に込めて世に問うた、それが『SIGHT』。…と見てはどうだろう。●複雑な成り立ちをしている雑誌や会社というのは、時代の先へ先へとそう柔軟に変化できるものではない(時流を追いかけて転業しまくった『宝島』は例外として)。だが個人の一身なら、自らが普通に思考をやめないかぎり、ちゃんと先へ進むことが可能だ。かといって、その先へ行こうとする一個人の思考をズバリ反映できる雑誌なんて「この世にあるものか!」と言いたいが、探してみたら「一冊だけありました」、というところ。●その『SIGHT』04年冬号を読んだ(出たのは年末なので、日はたっている)。表紙に「政治・経済・エンターテインメント この一年を総括!」とある。音楽の人だった渋谷陽一が、その「音楽」と並べてもどうしても触れたいものとして「政治」や「経済」が浮上してきた。そんな信念を窺わせる。やっぱりこれも、今という時代の実相だろう。たぶん。

●で、おそらく満を持して選び抜いた3人に渋谷陽一自身がインタビューしている。政治学者の藤原帰一、元経企庁長官の田中秀征、リフレ派の経済学者小野善康。イラク戦争や国会や景気の動向にまったく関心を持たないではいられない、幸か不幸かそんなふうに出来ている層にとっての、良質なスタンダードが語られていると感じた。(つまり良い意味の実学? 良い意味の「中級やや難」的知識?)

藤原帰一は、なにも珍奇な理屈や陰謀を解くのではない。イラクには主体となる政府がなく、アメリカは統治不能で、国連と欧州も手を出したがらない。だからゲリラ戦は当分続くし、この枠組みを根本的に変えないかぎり、自衛隊がのこのこ出て行っても復興など決してできない。いわば常識的な構図を示すのだが、根拠のリアルさ、論述の明快さのせいでぐいぐい説得される。●そして問題は、そんな状況がわかっていて、なぜ日本は大義もなにもなくひたすらアメリカ追従なのか。藤原は、政治に携わる連中にはそれ以外の選択肢は最初からないのだと断言する。そして「素人は黙ってろ」が本音なのだとも。自民党だけでなく民主党もそうなのだと。藤原《…政治業界だと、こんな風になります。まず、北朝鮮の危機がある以上、対米協力以外に選択はないことはわかりきってる。アメリカが金と兵隊をよこせと言っている。で、その通りにしなかったらアメリカに何をされるかわからない。やるしかないじゃん、これが常識になってるわけですね。で、この常識を共有している民主党の議員が常識を掲げている自民党とやり合うわけだから議論になるわけないんですね》 ●このインタビューには、猜疑ばかりでも純真ばかりでも見誤ってしまう、政治認識のある水準点が示されていると思った。●もちろん渋谷陽一は、この現状に対して、《どうして誰もその青臭い原則を問わないのか》と強い異議を唱える。こうした青臭さへの拘りこそ『SIGHT』の拠り所なのかもしれない。

●それならば最も青臭いことを考えてみよう。今回のぐちゃぐちゃは、ブッシュ政権という独断にみちたバカ戦略集団が元凶と考えられている。国連の承認なしに戦争に踏み切り、イラクという一国を壊滅させてしまい、大量破壊兵器は見つからない。占領組織と武装勢力が絡んで殺し合いもやみそうにない。どうみてもツッコミどころ満載だ。これでは「戦争OK」が多数派にならなくて当然だ。逆にいえば「戦争NO」は今こそ言いやすい。99年NATOのコソボ空爆に世界中が悩んだのとはだいぶ違う。●ではこれがたとえば、フセイン等が大量破壊兵器を本当に製造し、地域の内外で使用しそうな状況、あるいはもう使用してしまった状況において、世界はどうするのか。日本はどうするのか。自衛隊はどうするのか。憲法9条はどうするのか。それでも「我々は戦争には行かない」と、いや「世界の誰一人として武力行使をしてはいけないのだ」と、私は主張できるだろうか? 非戦を論証するのに、今回のイラク戦争はずいぶん易しい例題なのだ。しかし本質的に難しい命題に挑戦する日がやがて来るだろう。すなわち、そもそも「正しい戦争」は本当にあるのか。…いやこれは藤原帰一の著書だ。なんとロッキング・オンから出ている。●う〜む、全編これパブリシティみたいになってしまったか。ちょいと金を振り込んでもらってもいい。(でも以前SIGHTに皮肉も言ったので、これでチャラということで)

 ↓(ちょっと追加)

私が23日の日誌に書いた中級やや難』という括り方を、仲俣暁生さんがウェブで取り上げていた(!)。80年代にはこうした層だけがなかった、という見解でそこに期待している。私は『中級やや難』を『中道やや左』になぞらえてシニカルに眺めたわけだが、そこは当然アンビバレントな気持ちであり、そうした知識を私自身がスノッブでなく消化したいという願いも隠れていた(だから同感です)。あのころ「むやみに難しいものを理解したつもり」が流行ったのだとすれば、今ようやく「いくらか難しいものをきちんと理解しよう」という姿勢が出来つつあるとも言える。そんなわけで、やや気を取り直し、雑誌『SIGHT』を『中級やや難』の一例として素直に評価したしだい(上)。●話題の『経済学という教養』(稲葉振一郎)が「素人の、素人による、素人のための経済学入門」と銘打ち、素人こそ目利きになれと呼びかけているのも、やはり似たような志向だと私は思う。読み始めたばかりで、まだ8分の3だが、もうはっきり「今年のベスト1」と宣言しよう。……あれ、似たようなことを誰か言ってたっけ? 誉め言葉のインフレターゲティングで知の景気を少しでも良くしようとか? いやいやそんなことはない、まさに血肉となる本である。それはまた後日。


2004.1.25 -- マネーゲーム、マネー戦争 --

●去年の暮れ、テレビ塔から紙幣をばらまくというニュースがあったが、その後のリポート。⇒参照:毎日新聞。つくづくいろいろ考えさせられた。

●貨幣の原理を考えると、「お金を使わず貯める」のも「お金を貯めずに使う」のもどちらも貨幣制度の延命には役立つ。しかし「お金をばらまく」ことだけは本質的に違う。この人は真の貨幣革命を実践したのだ。ところがそんなアナーキストが、あっさり自己批判とは、ちょっとつまらない。その判断基準も「やっぱ引きこもりはダメだよ」「警察も出てきたしね」なんて、完全にがっかり。だいたい「厳重注意」なんて余計なお世話だろう。……いやホントは余計ではない。彼は「お金=資本制=日本」という共同幻想の根幹を壊そうとしたのだから。金を捨てるのは、金を盗むよりタチが悪い。

●記事の見出しに「ネット株取引のむなしさ」とある。まあついそう思うが、「待てよ、資本制の経済がそもそもむなしいのでは?」という疑問を忘れすぎてはいないか。おまけに「株取引」は物やサービスの取引ではないから「おかしい」とか、とにかく「ネット」だから「よくない」とか言いたげだ。●今風のリフレ派経済学によれば、景気回復にはなにがなんでもお金が出回ることが肝心という。だから、「市場から利益をもぎ取るだけで、世間に何のプラスも生み出していない」という弁に対しては、「いやいや十分プラスですよ」との反論がありうる。デイトレードだって、ちゃんと株式市場を刺激するのだから、何もしなければ下がる一方の株価すなわち経済を正当に支えている。景気とは、ただもうお金がすいすいそしてどかどか動くかどうかにかかっていて、関わる人の価値や物の価値とはどうやら無縁らしいのだ。だいいち政府も企業も家庭も、常にそうした数値(経済成長、財布の成長)だけを指標にしているではないか。●もしデイトレーダーを悪とみなす立場であれば、大銀行などまさに巨悪と言うべきだ(いやホントにそうかもしれないが)。彼が「ためた金でいずれ事業を」というのだって、デイトレードと違って全く悪ではない、とも言い切れない。●まあ私が言うまでもなく、本当は彼は、こうしたからくりをいやというほど実感し、お金という「意味のある無意味」に日々さらされていたからこそ、それをばらまくほどの虚無と錯誤に至ったに違いない(記事にはそうは書いてないが)。いわば自爆テロ?

●ところで。「アイロニーが余裕を失ってシニカルな短絡さに転じたあげくロマン主義を駆動させている」といった趣旨の、すかっと面白い洞察が「嗤う日本のナショナリズム」(北田暁大)で提示されたのは、ご承知のとおり。で、その反応や応用でも、ロマン主義は当たり前のごとく非難され牽制されている。そこで私はちょっとこんなふうに問うてみた。「でも、たとえば今イラクで鉄砲を持って敵と直接向かいあい撃ちあうハメになった人なら、ロマン主義のひとつも駆動しなくちゃやってられないのでは」と。⇒参照 ●しかしさらに考えるに、現代のハイテクな空爆はいたってクールだと指摘されてきたわけで、もしかしたらそれに加えて、目前の相手と撃ち合うことすらゲーム感覚でやれる兵士というのが米軍などに出現していないともかぎらない。事実はわからない。しかし、仮にそのようにゲーム化された戦闘であるのなら、ロマン主義は駆動しないし不要だとも言える。

●それを踏まえてさらに。一般に、戦争の次ぐらいに深刻で切実なものというなら、やはりお金だろう。そして、企業のビジネスや家計のやりくりには、アイロニーもあろうが、社会とか人生とか幸福といった用語で語られる「経済ロマン主義」が駆動している。ところが面白いことに、かのデイトレーダーの告白にあるごとく、マネー戦争の最前線だけは、戦闘がまさにゲーム化、日常化している。グローバル化した世界に経済ロマン主義は蔓延しているけれど、その最前線に行ってみたらロマンのかけらもなかった、ということになる。●もっとも、お金のやりくりについては、最前線まで行かなくてもほとんどゲーム化している人はけっこういる。で、そういう人が立脚する「マネーゲーム」の物語は文字通りロマンだが、そのマネーゲームの実践自体には、やはりロマン主義は絡んでこないように思える。

●ともあれ、このように不可思議なマネー戦争ゲームのただ中で、彼は、アイロニーにはとどまれず、経済ロマン主義とは別種の、そしてもしかしたらもっと本質的かもしれないロマン主義を放出させてしまった。というか、日本円を放出した。やっぱりどこか自爆テロに似ている。●しかし、金融という巨大ゲームやアメリカという巨大ゲームを支えながら、およそすべての人々に薄く広く行きわたる経済というロマン主義、政治というロマン主義、戦争というロマン主義、そういうものと比較してみるならば、この自爆テロというロマン主義は、まだましなのではないか。●私は、幸いなことに、爆弾の自爆テロをしようと思ったことはないし、今後そっちの側に行かされることもまずないだろう。でも、お金の自爆テロなら、ちょっと憧れる。

●いや、言葉がすべった。たしかに爆弾の自爆テロは、平和な(戦争に対してのんきな)私からみて想像を絶している。破綻している。それと同じく、金ばらまきテロも、平和な(マネー戦争に対してまだいささかのんきな)私からみれば、やっぱり正気とも言えまい。どちらもはるか遠くの事件だ。「まさか私がそんなこと」というやつだ(いや「まさか私がそんなこと」が起こった事例もつい最近あったけれど)。●それよりも本当は、もっと曖昧なロマン主義が、もっと曖昧な日常の前線で潜行してはいないかと、疑いの目を向けたほうがいい。命や金を賭けた直接戦闘とは違うけれど、そこでも誰かが曖昧に戦争をやっている。きっと誰かが曖昧に自爆テロをやっている。


2004.1.23 -- 難解の果てに何があるか --

●まもなくその歴史を閉じようとしている『ニュースステーション』だが、久米宏が脚光を浴びだしたころ、ビートたけしがよく「久米宏みたいに言っておけば、文句が出なくて安全なんだよ」とか呟いていたのを思い出す。栗本慎一郎もたしか「中道やや左、これが今の日本ではいちばん支持されるんです」などと皮肉っていた。どちらも正確な引用ではない。ただ「中道やや左」という表現だけは、虚を突かれたので今も憶えている。私は「中道やや左」の存在は日本社会に無益であるよりは有益であったと思う。それでも、たしかに「中道やや左」がまるで無謬であるがごとき図式は、なんだか興味深くあった。そんななか、やぶれかぶれの潔さで極左や共産原理主義(?)に惹かれたりしないでもなかったものではないのではなかろうか、である。●ところが今や「中道やや左」には、ネットの反論をはじめとして迫撃弾の雨アラレ。それは誰の目にも明らかだ。これまた「時代がそうノンキではなくなった」という括り方にもなろう。

●さてさて、昔は「中道やや左」が光っていたとすれば、今は思想の流布は、左右ではなく難易の差異にこそ鍵がある、と見ることはできないか。いやちょっとした思いつきだが、近ごろ求心力のある思想が左右いずれも「中級やや難」に位置する気がしないでもないのだ。難しい思想は難しいし、易しい思想は易しいのであって、それと実効性は関係ないはずなのに、易しいものはバカにされ、かといって難解も基準を超えるとそっと外される。政治経済社会文化いずれの思想もそんな状況なのでは? ちょっと努力すれば家が買える「金の中流=プチブル」に変わって、ちょっと努力すれば本が読める「頭の中流=プチインテリ」が案外コアな階層を形成しつつある。●そんなことを、たとえば『はてなダイアリー』なんかをブラウズしていると感じてしまうのだった。なお、難と易の分水嶺は人によってずれるだろうから、「中流やや難」が誰に当るかは各自想定されたし。

●こう考えてみて、島田雅彦の『無敵の一般教養』という対談本も、そうかこれはつまり「中級やや難」に安住しているんだ、と膝を叩くことになった。前も言ったが、島田雅彦には同世代の知性代表として期待するところが私はとても大きい。だから、この学問対談もやはり難解は難解のままぐっと極限まで追及してほしかった。島田氏にこそその能力や資格はある。それは島田氏も自覚しているはずだ。それなのに、そうしたなりふりかまわぬ格闘はちょいと避け、「中級やや難」の大学教授として振る舞う。●NHKの小津安二郎特集にゲストで出た時も、それなりにはっとすることを言うが、本当の小津フリークには全然生ぬるいだろう。その程度がテレビに馴染んでお洒落でもあるのだろうが、島田雅彦が中庸の人ではつまらないじゃないか。たまには無茶苦茶なことを言ってほしい。気がふれるまで考え抜いてほしい。

●さてその『無敵の一般教養』の対談相手として、足立恒雄という数学者を初めて知った。で、この人の話に「これは!」と直観するところがあり、著書を読んでみることにして『無限の果てに何があるか』という一冊に行き当たった。というか神に出会った。これぞ、数学の何たるかの本質を難を難のまま初心者にもどうしてもわかってもらおうとする至高の入門書だ。まだ4分の1しか読んでいないが、もうはっきり「今年のベスト1」と宣言しよう(というか今年はまだオンリー1か?)。ちなみに元はカッパサイエンスだが、「なんだ、易しそう」と軽んじる者こそバカを見よ。●それにしても、「数学が苦手で」という島田雅彦じゃないけれど、この私が数学の本を他人に勧めることになろうとは。まあ長生きはするものだ。そのことについては日を改めて。

amazon 無敵の一般教養
amazon 無限の果てに何があるか


2004.1.22 -- 今見たばかり --

侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画『恋恋風塵』(戀戀風塵)を、ついさっきNHKで見た(そのあと寝たけれど)。やっぱりこれぞ私の好きな映画ベスト1だと言いたくなる。「好きな映画ベスト1」とは「好きな映画ベスト1」という意味だ。しかしこんな形容ばかりでは、検索に引っ掛かった人に申しわけない。すでに劇場で2回見ているが、たまには忘れないうちに具体的なことを記しておこう。●たとえば、永遠の記憶に刻まれた数多くのシーンのほんの一つ。やや長いブラックアウトが明けると、台北駅のホームに、さっき着いたばかりの少女ホンがいて、幼なじみの主人公ワンが迎えにくるのを待っている。田舎から上京し働き先もこれから見つけようという状態だ。しかしワンはなかなか来ない。そのうちに見知らぬ男がホンの荷物を騙して持ち去ろうとする。すんでのところでワンが現れ、それを奪い返す。やれやれと思ったワンだが、ホンから「芋がまだ男の手にある」とか言われ、さらに男と格闘させられる。その弾みで、ワンの持っていた弁当箱が線路にぶちまけられる。ワンはすでに台北に2年ほど住んでおり、小さな印刷屋で働きながら夜学の高校に通っている。で、この弁当箱は、その印刷屋の女主人がワンに命じて小学校の息子へ届けさせるはずのものだった。このトラブルでワンは女主人からひどく叱責され、もともと居心地のよくなかった印刷屋をやがて辞めることになる。一方、この芋というのは、郷里にいるワンの爺さんが、印刷屋の親方に孫をよろしくというつもりのお土産として、上京するホンに持たせたものだった。爺さんがワンを思いやる素朴な気持ちが、芋となって台北に向かい、それがワンにとっては少々迷惑な荷物に転じたわけだ。●しかし、この映画は実に寡黙なので、出来事がいつも説明抜きで先行し、こうした背景はいずれも、映画を注意深く見ていくうちに徐々に知れてくる仕掛けになっている。とはいえ私は2度見ているのだから、すっかり知っている、と思いきや、すっかり忘れている。たとえばこの弁当箱ぶちまけのカットでも「なぜこんな物をしつこく写すのだろう」と訝しく思い、あとで事情がわかって「ああそうだったっけ」と徐々に知れてくる仕掛けになっている。●それどころか、なんと、兵役を終えて帰郷したワンが、爺さんと実家の裏にある畑で語らうラストシーンで、爺さんはまさにその芋を作っている最中で、その苦労と誇りについてもしみじみ語っているではないか。一番好きな映画のくせに、これほど大切なことを自覚していなかった。なにが永遠の記憶か。唖然とするばかり。●それにしても、じゃあなぜこの映画がそれほど好きなのか。その核心はなかなかわからない。そもそも映画を見ることの何が素晴しいのかが、同じくらいわかっていない。むしろ、何度も何度も見ることでそれが徐々にわかっていくのを、映画を見る幸せと捉えたほうがいいのかもしれない。●たとえば、あの台北駅とそれに続く展開のなかには、芋や弁当箱の話にとどまらず、ワンにまつわるいくつもの事情が埋め込まれている。映画の進行とともにそれが解きほぐされるのが待たれてもいるわけだ。『恋恋風塵』のような作品は映画全体がそうであるようだ。描かれている主題は、ハリウッド映画みたいなグローバルさで明瞭になるわけではない。十分に説明されているとも言えない。だからたとえば、台湾と中国との関係や過去の日本との関係をもしまったく知らない人がいれば、映画のなかで年配の者がワンに語る戦争体験や、ワンが赴任した金門島という場所の緊張感も、感じとることはできない。それと同じように、ワンとホンの世界像となっているはずの具体的な事物や感情の一つ一つは、外国人であり素養もない私にはそう易々とはわからないと思ったほうがいい。もちろん、2時間ほどの間に映し出されるシーンだけを見て、なんらかの真実に迫るのが映画というものであり、それが達成された証拠に感動もする。しかし、同じ2時間を何度も繰り返すことで、やっと新しく発見されるものが、まだまだ埋め込まれているだろう。そうした可能性を信じて好きな映画を見続けることは、なにより楽しいだろう。●『恋恋風塵』を初めて見たのは郷里の名画座だった。たぶん日本公開(89年)に近い時期だ。2回目はずっとあと。東京で台湾映画の特集があった時だ。この映画には映画上映のシーンが何度かあるが、その劇中映画のひとつ『アヒルを飼う家』もその折りに見た。調べてみたらちょうど6年前だ。(参照:昔の日誌)ちなみにその時期もフセインとホワイトハウスは揉めていた。そういえばそうだった、忘れていた。ブッシュ一人を悪者にして話をまとめたいところだが、当時はクリントン政権だ。●だから考えてみれば、6年前に見たきりの映画をそんなに詳しく憶えているわけがない、というのが正しいのかもしれない。もちろんここ6年間で『恋恋風塵』に関する情報に一切触れなかったわけではない。たとえば四方田犬彦が『電映風雲』という分厚い本のなかで侯孝賢を精力的に取り上げているのを読んだ。『恋恋風塵』についても得るところ大きく、台北駅のシーンにも詳しい。他にも侯孝賢について書かれたものはいくつか目にしたはずだ。つまり、『恋恋風塵』自体をじっくり見る回数はけっして増えないのに、『恋恋風塵』について知る回数だけは増えた。これは映画との関わりにおいてありがちと思われる。その映画に関する情報はちゃんと憶えているのに、映画自体をもう何年も見ていないことだけはつい忘れる。というわけで、やっぱりもっとしっかり何度でも映画を見よう!●これは実人生もしかり。少年や青年のころの記憶とは、反芻し確認してみれば、けっこう誤りや新事実が発見されるものだ。このことが示すのは、自分の人生や思い出というものは、長年のうちに揺るぎなく体系化され価値付けされているが、それに直に触れるような作業は実は案外ないがしろにされている、ということだ。『恋恋風塵』などの映画は、ちょっとそんなことまで示唆してくれる。●(注意!注意!ネタバレあり!)『恋恋風塵』では、ワンが兵役に行っている間にホンが郵便配達の男と結婚してしまう。「ええっ、そんな…」とまたもや驚愕。…というのは嘘だ。さすがにそれは忘れない。ただやっぱりここはいつ見てもあまりに唐突だ。もっとも、ホンの心情や明白な理由が描かれないからこそ、その唐突さが悲痛さをいっそう引き立てもする。しかし、実はそれにつながると深読みできなくもないような、二人の細かい仕草や台詞や出来事が、どこかにそっと埋め込まれていないともかぎらないではないか。『恋恋風塵』、あと100回は見たい。


2004.1.17 -- ウェブ教養学部 --

●今ウェブを回っていて気になる本は『経済学という教養』(稲葉振一郎)そして『責任と正義』(北田暁大)だ。どちらも手強そうだが頑張って読みたいとも思わせる。稲葉氏の本は『Hot Wired Japan』の連載が元になったという。あの連載は独創的で、私もある程度フォローした。北田氏は「嗤う日本のナショナリズム」という2ちゃんねる論が鋭い切り込みぶりで、ネットで大いに注目された。前著『広告都市・東京』の名もウェブでしばしば目にした。どちらも個人サイトがあって近況や考察に触れられるところも、わけなく親近感をおぼえる。●考えてみれば、2人とも私はそもそもネットで名前や著書を知り、個人的に盛り上がった。ただネットを離れると、それに言及したりされたりという機会は今に至るまであまりない。こういう落差はもはや普通になったかもしれない。まあ、私にオフがなさすぎともいえるのだが。

●このところ社会学倫理学といった分野は、世の知的関心の中心に躍り出ているように見える。かつてのポストモダン思想が「ああたしかに流行にすぎなかったんだ」といよいよ頷けるほどに、自由や正義をめぐる議論はそれに代わって盛んだ。キーワードというなら「リベラリズム」だろう。加えて、経済学も「いや〜わかりません」ではすまなくなった実感がある。2冊への興味はたぶんこうした流れの上にある。ちなみに、昨年の『自由を考える』(東浩紀・大澤真幸)でも、哲学や文学の退潮と社会学などの隆盛が指摘されていた(現状肯定的ではない)。

●その北田氏は、ウェブにこんなことを書いている。●《「応答することは決して許されない」という状況に置かれたとき、そして、いかなる意味においても「応答」を試みることが絶望的な他者と対峙したとき、たぶん僕たちは絶句するしかない。その人のために悩むことも苦しむこともつっぱねることも怒ることも許されない(その人は確実に苦しんでいるというのに)。許されないという状況に怒る程度のことしかできない。そしてそのメタレベルの怒りが不当なものであることも認めなくてはならない。自分が応答可能性の外部に置かれざるをえなくなるということ。その恐怖を分かっていない責任論はクズだ。》(http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040106#p1)●応答することが決して許されないこと。これは実は自分や身近に起こりうる。しかし同時に、たとえば中東で明日にも自爆テロで命を捨てようとしているはずの人のことが、私はふと頭に浮かんだ。

●80年代から90年代にかけて、冷戦構造や55年体制あるいは中流意識といった実は長閑な気分がまだどうにか持ちこたえるなか、文化や思想は、まさに戯れとして華々しくバブリーに浮かれていた。今となってはそんなふうに括ることもできる。●それが崩壊して久しい昨今、同時多発テロやイラク戦争が目の前で起こり、自分たちも不景気のなかで財を奪い合っている。なんともすべてが熾烈な情勢で、昔からみれば生活はもちろん生存すら不安ではないか。それに対する処置として、サロンの遊戯みたいな文化や思想とは別のものが求められている、ということがあるのだろう。だいいち戦争というものがいよいよ身近に迫っている。賛成するにせよ反対するにせよ、遠くの話でも昔の話でもなく、そのことを判断しないわけにはいかない。●先の2著書には、そうした思考への導きを期待するところがきっとある。●もう一つ付け加えると、ブログや掲示板の普及という点からみても、たとえば責任とか応答とかの用語で喚起されるコミュニケーションの問題は、けっして他人事ではない。それが日常の中心課題になってしまったユーザーも増えているのではないか。●まとめて言うと、80年代的な思想の優雅さ贅沢さとは違って、現在は、いくらか応急処置や特効薬としての思想が求められるということになろう。●ただ、応急処置といっても、『君もこうして年収アップ』とか『誰にも好かれるコミュニケーションのコツ』とか、まるきり対症療法的な本に殺到してしまう現状もあるようで、それはそれで時代を映しているのかもしれない。もちろん、稲葉本や北田本に期待するのは、年収やコミュニケーションで「利するための方法」ではなく、年収やコミュニケーションを「考えるための方法」だ。それはいうまでもない。周囲を見渡せば、危機に際して監視や排除を強化し先制攻撃までしてしまう対症療法が、あれよあれよと正当化されている。その手しかないのかどうかをこそ思考したいのだ。●実学という言葉がある。実際の困難に正面から立ち向かって問いかけるという意味でなら、今は実学が求められていると言ってもいいだろう。

●ところで、いま「実学志向」というと、都立大つぶしに躍起のバカ石原を嫌でも思い出す。最後にこんな話をしたくなかったが、この件、知れば知るほど空前絶後の悪行だ。大学の当事者が年数をかけて積み上げた改革案を、あのバカときたら、一撃でひねりつぶし嘲笑すらしたうえで、いきなり新大学構想(統廃合ではない)とやらをぶち上げたことを、ご存知だろうか。人文・法・経済・理・工の5学部をすべて混ぜこぜにして「都市教養学部」にするらしいが、理念やカリキュラムを積み上げることは当然できず、なんと予備校の河合塾にその作業を丸投げしたのは、ご存知だろうか。石原め、殿様きどりか独裁者か。そうだとしても、こういうのを千年の愚行と呼ぶべきだ。●全体として、学問という都の遺産を行政が横取りし産業に投げ売りしている、というふうに見える。こういうのが新しい時代であってそれを俺様は先導して嵐を呼ぶ男(の兄)だぜ、と図に乗っている態度も見てとれる。取り巻きロビーもいるのだろうが、それが財界の取り巻きというより、どうも学界自体にいる取り巻きであるような気がして、なんともタチが悪い。●石原はきっと「実学」とか言うに違いない。でもそれは「企業に好かれる大学のコツ」にすぎない。今私が求めている実学ではない。


2004.1.14 -- DTW --

●「アサヒコム 作家に聞こう」に乙一が登場。評判の『ZOO』を前に読んだとき、なんとなくDTW=デスクトップライティングという言い方を思いついたのだが、やはりそんな印象のコメントだ。●《ぼくの書き方は、ルールがすべてだと思います。基本的に全体を4分の1ずつに分けるとか、起承転結を厳密につくっていくとか。これを言うと編集者の人たちは皆眉をひそめるんですけど、ぼくは、シナリオの書き方の本に沿って小説を書いているだけなんです。》
http://book.asahi.com/authors/index.php?ppno=2&key=27


2004.1.13 -- マイノリティ --

●娯楽系に分類されない文芸書を読むことは、いま平均的な習慣や話題としては成立しにくい。そのことはつねづね弁えている。いや私自身ほんの数年前からなんとなく読んでいるにすぎないのだ。じつに寂しい乏しい趣味だと思う。ましてやその感想文など誰が読むか、と思いつつ、やぶれかぶれで長々と書いた。先日からハマりこんでいた阿部和重シンセミア』の評。やっと完結した。●→「写実、叙述、呪術 ?」

●こういう時、たとえばかつての同級生45人のうちなら何人がそうするだろう、というふうに私は昔からときどき考える。きのう成人式に出た100人のうち『シンセミア』を読むのは何人くらいかなとか。壇上でクラッカーを鳴らす人の数とどっちが少ないかなとか。●実際正月には高校の学年同窓会なんてものがあった。120人ほどの出席だった。でもやっぱり、阿部和重が好きなんていうやつはめったにいないだろう。まさか読んだのは120人中私1人とか? 校内マラソン大会で優勝したような(というか一人だけおいてきぼりになった)気分だ。いや、人の好みは十人十色なのであって、嘆いているわけでも読めよと言っているわけでもまったくない。そこは誤解しないで。だいたい読書を他人に強要するなど警察の任意同行くらい悪質だ。ただ私は、高校時代は目立ちはしないがかなりヘンなやつだったかもしれず、その後の歳月はそれを挽回するようなつもりがなかったわけでもないのだが、今となってまた私は違った意味でヘンな位置に来てしまったような気がして、なんだか黄昏てもくる。●でも、郷里のある友人は『シンセミア』を読もうかなと言っていた。なんでも図書館で探したら貸出中だったそうで、「きっと*君が借りているに違いないと私はにらんでいる」などと、こちらもよく知っている別の友人の名を挙げる。たしかに福井市は20万人あまりの小都市だ。でもそこまで『シンセミア』の世界は狭いか? 学級文庫じゃないんだから。


2004.1.10 -- 新春の悪夢 --

●新年早々なんの因果か、こんなおぞましい体験を書き留めねばならぬとは。やはり初詣の賽銭をけちったのが悪かったな。みなさま聞いてほしい。私このたび、こともあろうに、痴漢に間違えられ、警察の取り調べを受けるハメになってしまったのだ。→続き「福井警察署・取調室ツアー」


2004.1.8 -- 無題 --

●《もしもし、今さら何言ってるんですか?》←ははははは! 大いに笑ってしまった。(初笑いか) 参照:neats.org〜外部の情報 #45●《なんか最近うまくブログできない》と感じる人は、やはりそのとおりうまくブログできないのだろう。そんなことより、あそこのコメント欄のほうが、ちっともうまくブログできないんだけど、そのほうが、よほど困ったことではないか? ぬるいものでも、おもしろいものはおもしろい。だからブログはおもしろい。でも、あのように、ぬるくて、しかも、つまらないものは、いったいどうしたもんだろう。


2004.1.7 -- だったら江戸も --

●「長野県」から「信州」へ。田中康夫知事のやることは、いちいち面白いじゃないか。ところがこれをやるのに、なぜか信州国の民より先に統括政府(日本国)の沙汰を待たねばならないらしい。そんなアホくさい実状が知れたこともまた提案の成果かもしれない。なお、呼び名に「県」を付けさせられる必要はないと私も思う。もしかしたら全く逆の現象として、誰の都合か知らないが郵便番号がいきなり全国一律7ケタに変更させられた過去などを思い出す。●ところでその田中知事、入院中につき年始の弁がビデオだったというではないか。そりゃあ大変だ。いや、知事じゃくて病院側が。というのも、以前テレビで「看護婦100人に聞きました。絶対に担当したくない患者は誰?」とかいう質問があって、堂々1位が「田中康夫」だったからだ。私はたしかに田中知事の政策にはいつも感銘を受ける。ところが田中知事の人柄には、なんだか逆に嫌な感銘ばかり受ける。だから、昔の長野県の幹部の下では働きたくないけれど、田中知事の下でもあんまり働きたくないな、などと関係もないのに呟いたりする。●もちろん「患者として世話をしたくないかどうか」を基準に政治家を選ぶなんてのは、「いかがなものか」と言われるのだろう。しかし、これが全くおろそかにしていい基準かというと、そうでもない。あの番組はそうした得もいわれぬ指標を自覚させて有益だったのだ。

●待てよ、「長野県→信州」が好評なら「東京都→江戸」はどうか。それはイマイチのようだ。石原慎太郎知事東京都立大学などの統廃合に突進中だが、新大学の名はまさか「大江戸大学」? と冷やかしおよび迷惑の声がちらほら。●参照1=都立の大学を考える都民の会。 参照2=Google「大江戸大学」 

●さてさて、生まれ変わったあなたが絶対になりたくないのはどっち? A 看護婦からいちばん担当したくないと嫌われてしまう知事。B 首都の大学を世にも非民主的な手法で絶命させたあげく独善的な信念によって学問の府を産業と時流の府へとねじ曲げてしまった馬鹿として歴史に名を刻んでしまう知事。


2004.1.1 -- なんだよ、いきなり、小泉さん --

●まあ私も、きょうの初詣はべつに宗教のつもりではなかった。だからといって、神社を宗教とみなす人がヘンなのではなく、どちらかといえば私のほうがヘンだ。したがって「小泉首相の靖国参拝は憲法違反」という批判は正当だろう。ただこれは靖国論争の中心ではない。●批判の中心はもちろん「靖国神社は日本の戦争を賛美しているからいかん」というものだ。しかし、毎度毎度こればかり強調されるのもどうなんだろう。たしかに日本の戦争は犯罪だったとみなされた。ではアメリカの空襲はどうなのだ。沖縄や広島はどうなのだ。他の連合国の殺傷行為はどうなのだ。そっちは犯罪ではなかったと国際社会はみなしたらしい。だから戦勝国だけは自らの戦争を美化しても文句を言われない。国家のために敵を殺した人や敵に殺された人を国家が堂々と褒めたたえている。いやもちろん、だから靖国も美化していいというのではない。日本の戦争が徹底して否定される陰で、戦勝国の否定されるべき行為がまったく否定されずにいるとしたら、それは間違っていると言いたいのだ。いやそんなことは当たりまえだ。だが、その当たりまえのことが、靖国をめぐる議論では軽視されているようで、私は嫌なのだ。●本当なら、靖国神社について考え出すと、日本の過去の戦争を改めて問うことになるのと同時に、現在でも肯定すべき戦争と否定すべき戦争の両方があるのだろうか、もしそうならどの戦争がそれに当るのか、といった疑問が生じてくるはずだ。日本の空襲、湾岸戦争、コソボ空爆、アフガニスタン攻撃、イラク戦争、いろいろあった(テキトウに挙げただけ)。すべてを全否定はできないのか(わからない)。ではこれら国家やその連合による戦争を私は場合によっては肯定するのか。いや〜、う〜む(できるわけがない)。しかし…。ああこれは難しくて避けたい問題だ。●では、こう問うてみよう。国家の戦争で犠牲になった軍人だけは、他のことで死んだ人と違って、国家は特別重大に扱う。それを私は否定するのか。それとも少しは肯定するのか。昔の日本の兵隊も今のアメリカの兵隊も、死んで神にはならないにしても、すべて犬死になのか。そこを問わないかぎり、靖国を議論しても中途半端だ。私はそう思う。●参照:アサヒコム01/01「小泉首相、靖国神社参拝 4年連続、元日は初 」


03年12月

日誌 archive

* この日誌ははてなダイアリー(id=tokyocat)に同時掲載しています。

著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)