阿部和重『シンセミア』
写実、叙述、呪術 ?
●読書中の感想読み初めてまず注目させられたのは、叙述が徹底して写実的ということだった。60人に及ぶ人物はみなフルネームで登場し、年齢や職業から社会的な背景まで必要に応じてきちんと紹介される。舞台になった神町は詳細な地理が示され、事件が進行していく年月日もはっきりしている。ページが進むのに合わせ、まるで画布が淡々としかし端から空白を残さず厚塗りされていく感じだ。必要かつ十分の事実を記録したルポのようでもある。小説が写実的なのはべつに普通だろうと思っているが、案外、放っておくと無闇に饒舌になったり自堕落になったりするものだ。これほど明瞭な実質と機能に特化した『シンセミア』の文章を対比してみると、初めてそう気づく。また、正攻法ともいうべき三人称が用いられているが、視点人物が細かく切り替わることで、輻輳する出来事の数々が多角的に綿密に記述され、場面の転換や事態の推移も自ずと確定していく。このスムーズさにも驚いていいのではないか。陳腐なリアリズムを脱しようと奇妙に壊れた小説を拵える作家もいるわけだが、阿部和重はむしろ正反対の方向に徹するところに職人的な拘りがあるのかもしれない。
こうした緊張と端正さを一定に保った叙述は、しだいにナチュラルハイの薬効をもたらしつつ、いつしか微かに変調をきたし、ふいの乱調にも転じるはずだ。阿部小説を読む体験の比類なさと言うならこれだと記憶している。そもそも文章とは、指し示す意味内容とは別に、使われた言語自体の自律性や関係性とか、それが行として連なっていく質感といったものを必ず纏ってしまうが、ここで「叙述」と言うのは、もっとずっと俯瞰したスケールを想定している。長い文章がひたすら語られていくこと、それをひたすら読んでいくこと、それら全体が集積され統合されていく次元での様相や効果ということになる。これとは逆に、たとえば、あたかもワープロが変換した漢字を無造作に使ったかのような印象があるが、こうした語の表記といったスケールでは、文脈の多重化や意味の揺れはあえて抑えようとしたとも考えられる。つまるところ、阿部小説のマジックは「文体」や「描写」ではなく「叙述」に掛けられていると考えてみたいのだ。こうした魔法と中毒に焦がれる気持ちは、今回ももちろんあったし、作品の規模や構えが大きい分いっそう高かった。
冒頭から沸きたった期待が、もう一つあった。「そうか、この小説は、なにかを、まるごと、描くんだな」という思いだ。この小説は一つの地方都市に舞台をほぼ限定し、そこの風土や産業、そこに暮す家族と人物、それらの営みが繁茂して絡み合う様子を克明に記述する。神町はただ一つの無名の世界にすぎないが、その内実を隅々までスキャンするとき、現在日本の私たちを同じように構成している基盤と要素がきっと浮かびあがることだろう。『シンセミア』を読むことで、それらを一個ずつ確認、点検できたらいい。当然その作業には歴史が参照されるだろう。しかも、20世紀の日本という特定の範囲を生きてきた私たちであるかぎり、敗戦ということアメリカということに行き当たるのもまた不可避だ。ただしそれは、歴史自体を記録したい回想したいというのではなく、なにかを十全に把握しようとしたら、同時代の状況が反映されるのと同じく、いやでも歴史というものに触れてくるということだ。プロローグで、戦後日本にパン食が普及した経緯や、パン屋を創業した田宮家の戦前からの来歴が示されたとき、こうした期待が早々に現れた。
いっそう大ざっぱな言い方になるが、私たちは、なにかひとつの世界を根本的に総体的に描いてみたい、眺めてみたいという志向を常に抱えていると思う。その役割を小説に託すというのは、当たり前すぎるし、もはや古びた考えなのかもしれない。しかし、そうした「まるごと描く」ことのなかで、書くそして読むという実践自体の底力あるいは特異さといったものが「語るに落ちる」ごとくに総ざらいされる。そういう意義が今なおありえるのではないか。作家の個性や小説の技法が試されるはもちろんだ。この忙しい現代にさしたる目的もないまま長編小説を読みとおすというのは、そうした叙述の総力戦に立ち合いたい欲求なのかもしれない。『シンセミア』はズバリそれに応じている小説に思えた。
なお後から知ったのだが、阿部和重は『シンセミア』について、《大江健三郎と中上健次というふたつの名前の間で、どういう日本文学が可能であろうか、という命題に立って書き進められた作品として読むこともできる》と述べている(http://book.asahi.com/authors/index.php?ppno=2&key=24)。基本的でありすぎて詳しい意図はわからない。しかし私は実際に『シンセミア』を読みながら、ある地方の町の総体をまるごと写実的に描写する点では中上健次の『枯木灘』が、それを歴史的遠近のなかに配置する点では大江健三郎の『万延元年のフットボール』が、それぞれ思い浮かんだ。たぶん誰もがそうだろう。
さてさて、こうして最初からずっと携えていた二つの期待は、上下巻にまたがる壮大な叙述が終了した暁に、どのように結実したであろうか。 =「読書後の感想」へ続く=
*ではみなさんよいお年(落し?)を
●読書後の感想(以下はネタばれあり)『シンセミア』の読後感を一言でいうなら、実は「あきれるほど面白かった」。高まる一方のワクワク感こそ、ページをぐいぐい牽引するエンジンだった。だから、実際この小説を他人に勧める時も「ぜったい面白いからまずは読んでみて」となる。先ほど示した二つの期待は念頭に置いていたはずなのに、気がつくと度肝を抜く面白さにただ読み耽っていたというのが正直なところだ。形式だの叙述だのというより、内容や物語という点で圧倒されたと言っていい(これとてもちろん、作者が方法を狙いすまし技法を研ぎすましたがゆえの成果であるはずだが)。さて、感想をどうしたものか。
じゃあ、どんな種類の面白さかをともあれ整理してみよう。すぐ思い当たるのは、社会派推理小説の面白さだ。たとえば宮部みゆきや松本清張を好む人なら『シンセミア』はOKだろう。私は特に東野圭吾の『白夜行』を思い出した。また「最初に殺人があり、最後に動機がわかる」というスタイルを踏んでいると見ることもできる。
言い換えれば、いわゆるストーリーを堪能したのだ。大勢の人物が苦境や闘いをそれぞれに抱え込み、幾筋もの事件が複雑に絡みあって展開し、しかし最後にはすべて謎が解けて決着する。そんな豊饒と成熟のストーリーが希有の興奮をもたらした。比較すべきかどうか迷うが、たとえば村上春樹『海辺のカフカ』なら、奇妙なエピソードの背景や関連がいやでも気になるのに、謎が解けたとは感じられない。期待するとバカをみる。しかし『シンセミア』は、ストーリーとしての落とし前はきっちりつけるのだ。本流と支流に分かれつつ時おり交差していく大小のエピソードは、語る順序や視点の転換などが巧妙に操られている。おかげで、いくつもの場面が滑るように連鎖するし、断片的だった出来事やもつれあいも徐々に全景としてクリアになっていく。これは快感だった。しかも、全体は六部構成だが、その大きな単位でみても、ストーリーの中身さらには雰囲気までもが、そのつど新たな局面を開いてうねっていく。これも快感だった。
それにしても、ストーリーとはなにより具体的に面白いのだから、どう面白いのかを少しは具体的に紹介すべきだ。しかし、どれか一つを選ぶのが惜しい。たとえば、洪水というスペクタクルのなか、水に覆い尽くされた町の通りを、行方不明だった老人の死体を収めた木箱が漂う、とか。ああだめだ、もちろんそこは最高に面白いが、最高は他にもたくさんある。もれなく書き留められる自信がない。
阿部小説ならではといえる面白さも炸裂する。暴力、謀略、妄想、淫行、殺戮などなど、ともかく「禍々しい」という形容がぴったりの所業が連続するのだ。出てくる人物は性格・行動・思考のことごとくが禍々しい。しかも、その心情を彼らの視点で読んでいるのに、良心や倫理はふしぎと邪魔しにこない。小説のどこを切ってもそうだ。田宮博徳が妻と和解を求めて逡巡する箇所だけは、下降する一方だった良心の株価が急に上昇に転じたようで、むしろ疑わしい気がしたほどだ。たとえば筒井康隆の小説であれば、妄想によってストーリーや文体までもがエスカレートするけれど、それに対する照れや哀感も用意されている。阿部小説はそういう抜け道を与えない。一つだけ例を挙げると、巡査の男が恋い焦がれる一人の少女を執拗に追跡し、妄想が膨らんだあげくとうとう自宅に乱入して父親に襲いかかってしまうが、この場面なども、やや滑稽ではあるものの潤いや温かみというものは全くない。
それでもこれらが絵空事でないのは、禍々しさを醸しだすエピソードやアイテムが同時代性を持ち、消費生活やメディアに変調させられた我々の風景に他ならないからだろう。この点もまた阿部テイストだと言いたい。電磁波恐怖の訴えがあり、お台場ではテロもある。いわゆる電波系や陰謀史観を思わせる連中も登場する。《マスメディアの報ずる危機的情報が、星谷影生を本気で怖がらせていた。怖がらせて、それ以上に彼を悦ばせていた。星谷影生は、世の中の恐ろしさを実覚することによって娯楽を享受し、独自の欲求を満たしているのだ。彼にとってはいわば、全世界がお化け屋敷みたいなものなのだ》。そうだ、我々の世界とはつまり「お化け屋敷」だ。たとえばイラクの人と比べて、質はまったく違うが、量は同じ程度の困難を、我々は抱えているのかもしれない。
さて、面白いと言ってばかりいないで、例の二つの期待がどうなったのか、いよいよ少し考えてみなくては。
*まだ続きます。このあとが本題です。
●なにかをまるごと描くということ一つめは、なにかをまるごと描くこと、その必然として日本という共同体の背後にある戦争やアメリカに突き当たることへの期待。この課題はストーリーの面白さの陰に消えてしまったか。読み終えた時点で私はそうも思った。ところが、振り返ってみると、けっしてそうではない。
まず何よりも、小説の本筋といえる田宮家の父および息子の苦闘は、敗戦に由来するアメリカとの爛れた因縁とその断絶への意志を象徴している、と捉えることができる。これと並んで、誰もが見逃さないはずのことがもう一つ。小説の後半になって、神町が封印してきた敗戦直後のある事件が明かされる。それは、アメリカ兵相手に売春していた女性の一人が、町内の諍いを引きずるかたちでスケープゴートに仕立てられ、リンチされて身を投げたという出来事だ。言うまでもなく敗戦と占領という事情がこれに絡んでいる。しかも共同体特有の陰湿さに直に触れてくる苦さがあり、よく聞かされる日本軍の侵略地での残虐非道などが想起されなくもない。しかし、神町の人々にとってこの事件はなんら罪悪感を伴った記憶にはならなかった。なぜなら《遥か昔にやっちまったことを、いつまでもくよくよ後悔しているよりは増しではないか――そもそも罪を悔いる気持ちなんてものが、快楽の渇望に勝ることなどあるはずがないのはあらゆる歴史が証明してもいる……》。そして、この共犯的な忘却が、小説の冒頭で老人が殺されねばならなかった理由に直結していくのだ。だから『シンセミア』は、すでに述べた「最初に殺人が起こり、最後に動機がわかる」というストーリーの骨格としても、戦後日本に明瞭にカタをつけたと言える。
とはいうものの、読書中はストーリーにまさに洪水のように翻弄され、こんな分析は忘れている。特に、主たる登場人物全員が地獄の審判のごとき災厄に見舞われるクライマックスは、そこに至る経過をふくめてあまりに鮮やか過ぎた。急ぎ過ぎの感すらした。実際は、最終日として相当のページ数が割かれているので、それは錯覚と言うべきだが、全部の謎があれよあれよと解けてしまう展開が上手すぎるのは確かだろう。こうした面白さは小説を進ませる(読ませる)エンジンにはなるが、そうしたエンジン狂の小説を阿部和重に望んだわけではない。大事なのは、そのエンジンを駆使して小説がどこをどう走りどこへ向かうのかだ。そうしたドライブの総合評価を改めて見直しても『シンセミア』はぶっちぎりトップだと言いたいが、エンジンの優秀さがいっそう勝ったとも言える。誉め殺しみたいだが、そうではない。
さて、なにかをまるごと描くという点で、もう少し。この小説が一つの町を多角的な視点で隅々まで照らし出したことは明らかだ。しかしさらに指摘したい。その舞台が都市ではなく地方であったことが、実は、日本の戦後の決算とまで感じさせる広がりを実質的に確保するのに不可欠だったのではないか、と。
私はこの小説の読みはじめから、あるしょぼい地方都市の住人の有り様が具体的に執拗に開陳されていくのが、殊に興味深かった。地方は均質化したとよく言われる。たしかに、山形の名も知らない町にあるようなパン屋やラブホテルや貸ビデオ屋は、全国どこの町に行ってもあるだろう。またこれが大都市の影響下にあるのも間違いない。しかし地方どうしの均質ぶりは、大都市内部の均質ぶりとは実はだいぶ異なるという点を見逃すべきではない。地方には大都市にない独特の現実が依然ある。家業を継ぐという進路がありえるし、農作業などもなにがしか日々に絡んでくる。知り合いどうしは互いの来歴をいやというほど知っていて、しばしば血縁ですらある。さらには年寄が同居するしないによって陰影や差異が生まれる。これらは大都市におけるコミュニティーとは違う。都市圏に住む人の多くは、似たような形態の集合住宅に住み、似たような家族構成を持ち、似たような満員電車で似たような企業や役所に通勤する。人口が極端に密集しながら、ほぼこれしか選択肢がないゆえの均質性だ。これを地方は少しだけ免れ、案外多彩で謎めいた生活を繁茂させている。『シンセミア』はそれを感じさせた。交番の巡査が少女性欲の持ち主であることは大都市でも地方でもありえるが、その巡査の家がつぶれそうな食料品店で当直の夜食に商売品のスパゲティを持ってくるというようなことは、地方にしかないだろう。
そして『シンセミア』は、こうした多様性をひそめた地方都市神町について総体的に語ったからこそ、たとえば戦後史に迫るという際にどうしても必要とされる通時性および共時性の幅を自ずと広げていけたのだと、見ることができる。
もちろん、神町が今言ったように大都市の影響化にあって、しかもメディアなどで見聞きする刺激や変化を直接には得られず、地方ならではの鬱屈を抱えこむこともまた避けられない。そんな神町の若者たちはどうしたか。
《欲求不満が一時に噴出したわけではなかった。少しずつ、潜在していた欲望が形を成していったみたいなものだった。彼らにとって特に問題だったのは、端的に刺激を得る手段だった。神町で暮していても、どうやら誰もそれを与えてくれそうにはなかった。おまけに彼らは望むばかりであり、気の利いたアイディア一つ積極的に考え出そうともしなかった。ただ集っては酒を酌み交わし、くだらないお喋りに時間を費やすだけの会合を続けていた。毎週末の夜には車で遊びに出掛けていたし、数少ない近場の娯楽施設はどれも散々通い詰めていた。やるべきことはもう何も残されていないかに思えて、現況への不満を口にして暇を潰すことしか出来ずにいた。つまり彼らはいかにもありがちな、心満たされぬ地方青年たち特有の閉塞感に陥っていたわけだ。適当な小道具さえ手にしてしまえば、あとはなるようになるしかない状況だった。差し当って役立ちそうな小道具はすでに、彼らの手近に揃ってさえいた。消費社会に溢れる諸々の物品の中から彼らが手始めに選び出したのは、デジタル・ビデオカメラだった。》
うっすら降り積もった鬱屈を解き放つ手段として、神町の若者らがふと手にしたのは、そこに転がっていたビデオ機材だったのだ。そして彼らはそれを手に、地域内のあちことで盗撮に励むことになる。それによって田宮家をめぐる熾烈な闘争に火が放たれる。(この辺は、たとえば中上健次の四半世紀前の写実とは違い、まさに進行中の我々の現実を嫌らしく写実しているのだろうが、それはそれとして。)
●叙述の魔法と中毒ということ(実はやっと本題)ビデオによる盗撮。これは『シンセミア』を彩る重要なアイテムとエピソードだ。私は過去の阿部作品「鏖(みなごろし)」を思い出した。ファミリーレストランで相席になった男がテーブルに置いたモニターで近所にある自室をのぞき見ていると、妻の浮気が始まる。男が席を立ってしばらくすると、その男が金属バットで妻と浮気相手を殴り殺しているところが図らずもモニター中継される。喩えようのない変な感じ嫌な感じがしたのを憶えている。浮気や惨劇の事実以上に、それがモニターに映っていること、それをファミレスという平和な場所でありありと眺められてしまったことが、衝撃的なのだろう。この感じが小説全体を覆うように広がり、むしろさほど変でも嫌でもなくなりそうなのが『シンセミア』の世界だと言いたい。
『シンセミア』では、車内での性行為、ラブホテルの出入り、女性の入浴、応接室での密談、さらには交通事故で瀕死の人物まで、通常見てはならないシーンが続々とビデオ撮影されていく。ここからは、携帯電話のムービーやデジタルカメラが爆発的に普及してビデオの撮影と公開が日常化した現代、あるいはダイアナ妃の死亡現場写真なども当然思い起こされる。しかし私は、もう少し不可解な引っ掛かりを持った。
この小説を読んでいて私は、ビデオ盗撮のくだりだけでなく全編において、「のぞいている」そして「のぞかれている」という意識にずっとつきまとわれたように思ったのだ。それはなぜだろう。一つには、この小説が敵対する者たちの相互監視による陰謀の物語であったことが影響しているのだろう。視点人物が見ているものを語っていても、その人物自身が同時に他の誰かにそっと見られている気がする。それを読む私までもが背後に誰かの視線を感じてしまった、というと過剰すぎるだろうか。加えて、巡査と少女の過激な性交渉の一部始終や、田宮博徳と妻との間の秘め事に代表される、やはりのぞかれてはならぬ事情が淡々としかし執拗に明かされていくことも関係するだろう。こうしたシーンが、すでに述べたとおり徹底して写実的な筆致で描かれること、さらには、内面をさらしている視点人物が数多くいてしかもそれが巧妙に頻繁に切り替わりながらシーンが描写されていることも、大いに影響しているだろう。
リチャード・パワーズの小説『舞踏会へ向かう三人の農夫』に関して、写真というものが出現して以降の小説は、それゆえに、それ以前の小説とは本質的に違ったものを帯びるはずだ、といった趣旨のことを高橋源一郎が言っていた。そこからいくと『シンセミア』はビデオの普及抜きには説明できない小説として見ていく必要があるのかもしれない。
そして、ビデオ盗撮のムードが全編を覆っているように感じたという、私のこの拘りの行き着くところが、ずいぶん回り道をしたけれど、『シンセミア』への期待のもう一つ「叙述の魔法と中毒」に絡んでくる。もう端的に言おう。事実がビデオに映し出されることが事実そのものに増して衝撃的だったのと同じく、そもそも事実が文章に写しだされるということ自体が、やはり事実を超えて衝撃的なことなのではないか。そんな思いに至ったのだ。
なにか事実というものがはっきりあって、それをきれいに書き写したものが文章であると、我々はつい考えるところがあり、しかしそれに対する疑いはたぶん昔も今も投げかけられている。文学にとって欠かせない、それどころか最も重要なテーマがそれだとする立場もあろう。そしてもちろん、独自の読み心地を通してそのテーマを考えさせられるのが阿部和重の小説だった。忘れようもないのが、『インディヴィジュアル・プロジェクション』や『ABC戦争』などで、語る主体と語られる対象が混交していく奇妙さだ。そこは作者による周到な仕掛けと問題提起があったのだろう。では今回の『シンセミア』はどうだろう。この2作品に比べれば、事実をまさに右から左に書いて写した(移した)ような文体と内容の文章が延々続く小説だった。しかし、そうした完璧な写実の単調さ、変調の無さゆえに、かえって、文章でなにかを書き表すということ自体の本来の怪しさに、疑惑がじわりじわりと立ち返っていった。私はそのように読んだ。もちろん、女子高校生のウェブ日記の文章が突然挿入されたり、阿部和重という人物が登場したりといった撹乱はあった。しかしその撹乱は『インディビジュアル・プロジェクション』ほどの骨格を成してはいない。たしかに、この気まぐれな一吹きは、ボートを転覆させるほどの揺らぎをもたらす。最後の二行は特にそんな印象だ。しかしこれは、撹乱のせいというより、全編を読み進んでいく読者というボートがまったくのべた凪の海上を漂い続けているがゆえの効果なのだ。(べた凪という点では「公爵夫人邸の午後のパーティー」もそうだった。)
繰り返して言う。『シンセミア』の冒頭から期待していた阿部和重ならではの叙述の魔法と中毒というものは、小説全体に広がった叙述の単調さゆえの奇妙な変調として、今回は現れた。それはある事実の衝撃よりも、その事実がビデオに撮影されてしまうことの衝撃に近い。風景であれ心情であれ出来事であれ妄想であれ、戦後の歴史であれ個人の闘争であれ、それを克明に文章に書き写していくというのは、本来なんとも不可解な行為かつ現象なのだ。それは言い換えれば、「のぞく」ことと「のぞかれる」ことが背中合わせになった感覚かもしれない。書き写すということは「のぞく」悦びに他ならないはずが、書き写すことの根源的な不可解さゆえに、やがてそこには「のぞかれる」恐れを付随させてしまう。なおこうした実感は、一般にウェブサイトに何かをまるで中毒のごとく書き写している人々、たとえば本の感想をこうして書き写している私自身などが、いつのまにか直面しているはずの不可解さではないかということも、ぜひ付け加えておきたい。
添え物みたいではあるが、いくらか関連しそうな引用を一つだけ。町中を盗撮しそのビデオを鑑賞するという隠微な快楽にハマってしまった連中の実感だ。
《いくつかの商品を皆で観賞するうちに、事件は生じぬのではなく、視界の外に置かれて隠蔽されているだけなのだという認識が一同の間で強まっていった。都会であろうが田舎であろうが事情は変わるまい、と彼らは話し合いもした。撮影対象たる事件はまさに、人の数だけあるはずだった――人の数だけ、魅惑の小さな秘密が存在するはじだった。彼らにとってこの路線変更は、コペルニクス的転回にも等しい発想の転換だった。
ところでシンセミアとは何のことか。我々はそんなことはちゃんと知っている。みんな『ニッポニアニッポン』の主人公のごとくグーグルで調べるのだから。ほらこんなのが出てきた。《マリファナを開花させる段階で雌花を雄花から離し、雌花が受粉しないことでより強くハイになれるように作られたマリファナ》(http://www.cafetulip.com/ams/index-body.files/a/yougo.html)。そうか。ならば私は、連中がビデオ盗撮にハマったごとく、しっかり『シンセミア』にハマった。上巻の終盤あたりから一夜で最後まで読み切ってしまうなど、溺れたとしか言いようがない。
ちなみに私は実際の麻薬体験はわずかしかない。大昔アジアの安宿で同行者に誘われハッシシを試したくらいだ(紋切型旅行辞典)。そんなある日一人のドラッグ愛好者が「やっぱりケミカルはよくないね」と話したのを思い出す。植物から成分を抽出したものと、化学合成したドラッグを比べて言ったのだ。このニ分類が正当かどうか私は知らないので、たとえ話として使うだけだが、文学はバイオだろうか、ケミカルだろうか。たぶんそれは、書く行為や読む行為を自然とみるか人工とみるかによるだろう。そして阿部和重の小説は、自然そのものと思い込んでいた文章行為が実は必ずや人工のものにすぎないということを常に気づかせる。またこれとは別の観点になるが、たとえば村上龍などの深刻面白小説(『希望の国のエクソダス』や『共生虫』を思い浮かべている)は、本当によく出来ていて『シンセミア』にも似た読みごたえがあるにも関わらず、阿部小説のような文章中毒を引き起こすことはまずない。この観点で中毒作用のある作品というなら、高橋源一郎ということになる。そして高橋小説がまるきり人工のドラッグなのに対し、阿部小説はきわめて自然な薬効というところだろう。でも見ようによっては、高橋小説は生物種の不安定さをかかえているとも言え、阿部和重のあくまで端正で緊張の切れないシンセミアこそが化学製品かもしれない。まあとにかく、いつか私もアムステルダムにでも行って『シンセミア』なみのハイ気分を味わってみたいものだ。
*付記:映像と文章とでは主体の現れという点で本質的な差異があるという問題に、最近の『偽日記』(04/01/09〜04/01/10)が触れていて、あまりに興味深かったが、ここではビデオと文章の同質性のことを考える余裕しかなかった。