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路地に迷う自転車のごとく
▼迷宮旅行社・目次■これ以後
2004.3.30 -- 仰げば尊し我が師の怨 --
●アサヒコム「都立校教員ら180人処分 卒業式の「君が代」不起立で」 (記事コピー)●なんとも複雑な心境だが、ともあれ21世紀の東京とは、卒業式で「日の丸」に向かい起立して「君が代」を歌わないとマジに処罰されてしまうような土地なのだ。●しかしながら、一般に、国家という統合や国民という意識をいくらか重んじる人であれば、それに合わせて国歌を重んじるのも道理だろう。そして国歌を重んじるなら起立くらいしたくなるのもわかる。さらには「国歌なんて好きな人だけ歌えばいいじゃないか」ではすまない焦りも理解できる。そうだ、国歌とはひとりで勝手に酔いしれることはできない。みんなで参加しないと国家が成立しないのと同じく、みんなで歌わないと国歌なんて格好がつかない。●ところで、それぞれの卒業式で校歌の方は皆それなりに厳かに歌ったのだろうか。仮にそうだとすると、「君が代」だけがなぜかくも憎まれるのか。それは、国家という集団は学校という集団とは根本的に質が違っており、国家や国歌を疑ったりそれに抗したりすることには、より正当な根拠があるということだろう。そして当然のことだが、国歌一般の問題を超えて「君が代」固有の問題がなにより大きいはずだ。●しかし、「君が代」がとにかく「悪」であることが強調され、国歌自体の功罪に目が行かなくなるとしたら、それも私は嫌だ。さらには、校歌を歌うことのほうは、もうまったく疑われないとしたら、それも嫌だ。だいたい卒業式なんてもの自体が、学校にまつわるさまざまな「悪」をいったんチャラにしてしまうところがあるではないか。国家の歌も学校の歌も、起立して斉唱という行為自体も、卒業式のあとみんなでカラオケボックスに行って歌いまくるのも、いずれもどこまで本当に楽しく美しいことなのだ? ●だから結論として、もし私がその卒業式に出席して「君が代」を起立して歌わされたなら、とても気持ち悪かっただろう。でもそれは「君が代」が嫌なのか、国歌という欺瞞が嫌なのか、卒業式という欺瞞が嫌なのか、それらの強制が嫌なのか、複雑に絡んで解きほぐせず、いっそう居心地が悪かっただろう。●それにしても、自分がむかし学校を卒業したころはさして反抗した覚えもないから、こうした違和感は大人になってしだいに固まったということになる。自分でそうなったのか、誰かに言われてそうなったのか、そこのところがもうなんだかよく分からない。●ともあれ、東京都教委のこうした措置が高じれば、「君が代」で起立するかしないかという、それだけみれば実に瑣末な違いのせいで、仲良しだった友達や師弟の関係にまでヒビが入ることもありえよう。大袈裟だろうか。でもちょっと、たとえば旧ユーゴスラビアなどで起こってきた深刻な紛争すら予感させるのだ。
2004.3.28 -- ブラウン管の中 --
●ミスターは病床にあり、原辰徳は解説席に回り、松井秀喜は敵陣でホームラン。そんな巨人。固有名は確定記述の束に還元できない、とはこのことか(「巨人」は「長嶋が見守るチーム」でも「原監督が率いるチーム」でも「松井が4番のチーム」でもない)。毎年毎年募っていく「それってほんとに巨人?」。ましてや「1番センター柴田、2番セカンド土井、3番ファースト王、4番サード長嶋、…」なんて一体いつの話ですか。馬鹿と呼ばれつつ野球は巨人、そんな心すらいつしか完全に消えうせているところに、歳月のやたらな長さと現在の空々しさを思うべきなのか。巨人軍は永久に不滅でも、巨人の中身は常に変動している、という当たり前の事実が嫌になって人は老けていくのかな。●では、日本はどうだろう。同じ歳月に日本もまた中身はあまりに変わったはずだ。でもこれを「日本」と呼ぶ。何が同一性を支えるのか知らないが。私は巨人ファンである程度には日本ファンだったかもしれないと思い返してみるが、こっちもそのうちやめてしまう可能性はないのだろうか。それとも人は昔を懐かしみ今を否定するとき初めて日本ファンになるのか。あるいは21世紀にもなっていい加減そういうのはやめたほうがいいのか。というか、日本ファンっていったい何を応援すればいいのだろう。●……などと無常観に耽っていたら、そういえば監督は堀内なのだった!
2004.3.25 -- 毒を食らわば爆弾まで --
●「資本主義は気持ち悪い(から好き!)」…って、それただの仕事中毒なのでは? 民主主義というと聞こえはいいが、その実ただの戦争中毒にすぎないのに似て。痛みを希求するという不思議を理由にそれがなにか至上の秩序であると信じるなら、錯覚だ。美しい痛みは、なにも金儲けにかぎった話ではない。あれよあれよと世界を覆ってしまって揺るぎなくなったこれらの価値観に、いちいち迷っていても置いていかれるばかりだからなるべく迷わない、のではなく、今や単に迷わなくなっている。そんなのずっと昔からだろ、というと案外そうでもない。とはいえ、誰しもこのやわな毒を本気で断てるわけもなく、しかしこれを読まされただけでは、いくらなんでもそれこそ「気持ち悪い」ので、この際もっと激しい毒を一緒にあおっておくとしよう。→「あまりにもいい加減でだらしなく出鱈目な」(少し古いが我が家の常備薬)●まあ私は、どちらかといえば映画とか読書のほうが気持ち悪い。散歩や昼寝はもっと気持ち悪い。まんじゅうこわい。
2004.3.24 -- 小説その不可能性の中心? --
●星野智幸『ロンリー・ハーツ・キラー』●なにかの脚本をそのまま読んでいるような感じがしないでもなかった。これをたとえば漫画に仕上げたら、いっそうのめり込めたのではないか、とか。つまり文章表現としてお手軽に感じられたのかもしれない。じゃあ、円熟して渋味があったり個性的に凝った文体なら好かったのかというと、それはそれで面白そうだが、いま気に留めているのはそこではない。●ちょっとネタバレになるけれど、この小説の大半を占める第一部と第二部は、実はすべてウェブにアップされた手記だったことが、それぞれ読み終えた段階で分かる。第一部は「この世こそあの世、あなたも死になさい、誰かと二人で」と最終的にアジる文章で、それがネットを介してまき散らされ、第二部の題名でもある「心中時代」が到来するという筋書きだ。自分が書き込んだテキストによって世間が大きく動く。ネットで誘いあって自死などというニュースが目立つ昨今、インターネットにそうした作用がないとは言い切れないし、ウェブに文章をアップする人ならそうした効力をまったく期待していないわけでもないだろう。しかし実際には他人はそう易々と踊ってはくれない。むしろ、文章の預言のような力など、我々はかなり諦めていると言ったほうが正しい。ウェブの読み書きに惹かれる本質というのは、そうした実社会のシステムや現象との絡みとは、また違ったところにあるのではないか。●『ロンリー・ハーツ・キラー』は、天皇制については、そのくだらないおぞましい作用ばかりでなく案外おもしろい作用もありうるぞなんて、ちょっとわくわくさせる(作者は不本意かもしれないが)。ところが、ウェブを含めた文章表現については、その作用の可能性に特に心を砕いたとは思えなかったのだ。それを中心的な題材として扱いつつも。●そういう趣旨の小説ではないと言ってしまえばそれまでだ。しかし一方で、同じく中心的な題材というべきハンディなビデオを使った映像表現の可能性なら、ぐっと踏み込んで模索し例示している。でも、ビデオ表現の面白さが小説の中で詳しく描写されても、なんだか白けるのは私だけだろうか。『海辺のカフカ』でも、ある絵画や楽曲が重大な鍵を握るものとして持ちだされ、同じようなもどかしさを覚えたのを思い出す。なにか想像を絶するような和音なのだとも書かれていた。でもどうせなら和音の響きそのもの、あるいはビデオ作品自体に触れたいではないか。『ロンリー・ハーツ・キラー』で主人公たちが制作している「合わせカメラ」「無限地獄」といったビデオ作品はとても挑戦的な表現だが、それに匹敵するような文章表現が小説として成り立っていたら……。そんなことを考えた。●ではそもそも、その天皇制の可能性(?)とかビデオの可能性に並ぶものとして、ウェブも絡めた文章表現の可能性って何だろう。それはうまくまとめられない。しかし少なくともそれは、どうしたってウェブを日夜徘徊している我々が胸に手をあてて見いだすしかない、ということは言える。そういう観点で、最近むむむ!と目が離せなくなったサイトをひとつ紹介。→『来襲』。3月11日から14日にかけて「ダイアモノローグ」とか「書き言葉で照れる難しさ」といった不思議な切り口で抽出していることが、どうだろう、我々が新しく意識せざるを得なくなっている文章表現の奇妙な位置の一つを、確実に指し示していないだろうか。●星野智幸がウェブに日記を書いていることは知られている(参照)。社会や文化の問題と真剣に向きあう作家の本音が窺えるサイトだ。ただここでも星野氏は、たとえばこうした「ダイアモノローグ」とか「書き言葉で照れる難しさ」といった問題にあえて向きあっているようには見えない。だから個人サイトとしてはよくあるタイプかなと思ったりもする。いやもちろん、星野氏は小説で本気の勝負をするのだろうし、ウェブはそれとは一線を画しているということは大いにありうる。それはそれで文句などないのだが、一般的な話として、個人ウェブにおける文章表現というのは、ひょっとして小説の文章表現以上に、もっと複雑で奇妙な作用を持ち「うる」のではないか、なんてことも、こういう局面で逆に思ってしまうのだった。
●話は変わって、『偽日記』の古谷利裕氏が『ロンリー・ハーツ・キラー』のレビューを『新潮』に書いていた。登場人物2人が、上にあげたように「合わせカメラ」と題して、互いの姿を延々ビデオに撮影し続ける意味について、こう読んでいる。●《不可能なものに向かう強い傾向は、捉えきれないことの恐怖を燃料に生き生きとした苛烈な「熱さ=充実」を産出するだろう。しかしこの熱さは、ほとんど思考停止と同義語だろう。この小説において自らをカメラと同一視し、決して社会(人間関係)へと参加せず、たんに光と音を純粋に記録し記憶しようとする存在に留まる井上やいろはといった登場人物たちは、そこに留まることによって思考停止から辛うじて逃れようとしている。意味のないほどに些細な差異を拾い上げることで、思考停止による外界の遮断、内面化、出来合いのイメージへの傾倒に逆らい、外界とのか細い繋がりを確保する。》(原文はもっと長い記述なので全部読んだほうがよい。手元に雑誌がないので、これは『陸這記』が取り上げていたものを拝借した)●さてこの、処理不能なものに超越性を見い出すのではなく、過剰さを過剰さのままひたすらビデオで捕捉し続ける行為を、可笑しいことに、イカの目玉というものに絡めた考察があった。それもぜひ紹介。→『空腹海岸海の家 実行準備委員会(アジト)』。なんでも、イカの眼球は人間と同じくらい高性能だが、それを生かすだけの脳組織がないそうだ。それなのになぜそれほど大量の情報を取り込むのだろう、と首をひねる。《通過していく情報量に対し、烏賊である自分自身の質と量は、海を無目的に漂って飯食って交尾して(烏賊って交尾するの?)くらい軽いので、情報と情報の中継地点としての『相対的な場所』しか確保できないから、その場所にしがみついていないとどこかへ流されてしまいそうそれが不安。》……。●ビデオでひたすら外界を撮影しつづけること。イカの目玉の過剰な情報処理。これらは、当然すぎて誰も指摘しないのかもしれないが、ブログ、とりわけURLと見出しだけクリップしてコメントはあるかないかのニュースサイト的な情報処理を、いやでも思わせる。●ちなみに、「無限地獄」のビデオ表現に近いような文章表現というなら、小林恭二の「小説伝」という作品がそうかもしれない(参照)。また読んでみたくなった。
●さて、いろいろガタガタ抜かしたものの、『ロンリー・ハーツ・キラー』が面白く読めだことは間違いない。まったくよそ事でない刺激に満ち満ちている。そのまま昨日今日のニュースと地続きみたいでもある。近ごろ日常のほうがテロとかいろいろぶっ飛んでいる、ということかもしれないが。
2004.3.22 -- 雨降りやまず --
●これだけの日記も、実はずいぶん手間がかかっていて、嫌になる。やっぱり書き言葉は、きっちりそのまま目に見えるのがよくない。おかしなところがすぐわかるから、続ける気が失せてしまう。ちょっと直そうとしても、必ずキリがなくなる。これが話し言葉であれば、とりあえずテキトウに始めてもその場で消えてくれるし、後からどんどん言い足せばすむようなところがある。●読書もけっこうなことだが、なるほどと膝を打ったことや自分であれこれ考えたことを、いちいちメモに書いてとっておかねばならないように感じてしまうのが、弱ったことだ。いったんメモすれば、こんどは文章の形にまとめないと気がすまない。文章にまとめれば、たとえばこういうところに出すまでは、なんだか読書が完了したことにならない。そんないちいち面倒な手順は当然積もり積もって停滞するし、ついには、その停滞を先回りして心配してしまう自分がいて、新しく本を手にする段階からもう億劫だ。病気かこれは。
2004.3.20 -- 『座頭市』丁か半か --
●北野武監督『座頭市』。DVDにて鑑賞。●「○○ったって、大したもんじゃないんだ、そんなの」。もっともらしい権威のことごとくを、こんなボヤキで笑いのめしてきたビートたけしも、映画だけは神聖な領域として扱っている。一般にそう受けとめられてきた。ところが今回は、なんだか底が割れた。殺陣のすさまじさ。勧善懲悪というお膳立て。そうした娯楽を周到にしかも徹底して個性的に練りあげたのは、たしかに映画職人としての才能と努力の賜物なのだろう。ところがその裏で私は「チャンバラったって、大したもんじゃないんだ、そんなの」というボヤキをずっと聞いていた気がする。ガダルカナルタカが小僧たちをつかまえて木の棒で剣術ごっこするシーンは、その象徴だったかもしれない。しかしそのことはかえって、たけし特有の虚無が底なしに落ちていくことでもあるように思われる。(以下ネタばれあり)●岸部一徳が傍らの子供におかしな顔をふいに作って見せるアップが、いやでも気になった。悪玉のイメージが崩れ、場面のトーンも崩れ、映画全体も台なしにしかねない。でもこれはたぶん目配せだ。「おじさんはね、いま悪い役を演じてるんだよ」と。●座頭市の金髪や血しぶきのCGに抵抗を感じる人も少なくない。映画のいわば自然主義いわば神聖を侵していると感じるのだろう。しかしこれもたとえば漫画表現のリアルに近いと思えば納得できるのではないか。●実際、座頭市の瞼には一度だけ子供だましの漫画目が描き込まれ、脱力させられる。ところが最後になって、奇妙にリアルな目玉が本当に光り、大人までだまそうとする。敵のために盲目のフリをしていたという設定なら、少々白々しい。しかしそのとき、そもそも役者は映画のために盲人の演技をしているという白々しさも思い起こされる。そしてそれらをみな超えて何か不思議なフリをこの男は見せているのかなと、そんなことを考えた。●もともとこの作品は、従来の時代劇のウソくささを暴くような狙いがあるようで、たとえば、刀を抜いた瞬間に隣にいる味方の腕を傷つけてしまうといった面倒な事実をわざと取り上げる。しかし、だからといって写実に徹したかというと全くそうではない。実にホントくさい時代劇を作ったと言うべきだろう。
●田んぼの農民が打つ鍬や抜き差しする足がいつしかリズムを刻んでいる。この趣向も無類の面白さだった。それが最後には、悪人どもすべてがいなくなって家や村を新しく建設していく槌音へと高まり、村人たちのタップダンスの大演舞へ、カーテンコールへと転じていく。●ここにもまた異論が出ているようだ。しかし、江戸の農民の祭りだからといって、東京の我々が踊るときのようなポップやパンクを伴っていなかったはずはないということは、まず踏まえておいていいだろう。さらに、こうした盛り上がりはハリウッドやブロードウェイの模倣なのかもしれないが、それは同時に、もっともらしい作り物を世界標準の舞台とみなして踊ることを、米国映画が照れない恥じないのと同じ程度には、日本映画も照れなくても恥じなくてもいいんだと、気づいてみてもいいだろう。それは、欧米からの眼差しとしてのみ現れる日本、あるいは現代からの眼差しとしてのみ現れる江戸が、そのままの姿で逆に欧米や現代を見つめ返してやることでもある、とかなんとかそんなふうに。●しかしそれより私は、たけしにとって映画とはけっきょく神聖で真剣な映画ごっこなのだという認識が、ここにもそのまま体現されているように受けとめた。
●目が見えないほうが真実が見える。座頭市はまさにそうした価値の逆転を象徴している(ということになっているはずだ)。ところがその座頭市、実は目が見えていたのか、というどんでん返し。さらに、目が見えているとわかったとたん、石に躓いて転ぶ。二度ひっくり返って映画が終わるわけだ。そうしてビートたけしは呟く。「目が見えたって、見えないものは見えないんだけどなあ」(不正確引用)。●権威や秩序を笑いのめすとき、自分だけが安全な場所に立てば新たな権威や秩序になってしまうというおなじみの構図に、ビートたけしは昔から敏感だったと思う。もっともらしさを笑うこと自体が、もっともらしくなってしまうことへの照れと言ってもいい。●そしてビートたけしを眺めていると、この「権威」や「もっともらしさ」は「虚無」にも置き換えられる。野垂れ死にということに芸人の美学を見いだすたけしは、あの交通事故を経過してその傾向をいっそう強め、映画にもそれが色濃く反映されている。こうしたことは誰しも指摘するだろう。ところが近ごろはさらに、権威を笑う自分自身を笑うことを忘れなかったのと同じく、「野垂れ死にったって、大したもんじゃないんだ、そんなの」とまで気づいてしまったのではなかろうか。死ぬことに頓着するのは美しくない。しかし死ぬことを超えた悟りに頓着するのも、また美しくない。ビートたけしがテレビで昔より凡庸な姿をさらしているとしたら、そういうことなのかもしれない。虚無と思っていたことの底が割れた。しかしそれこそ底なしの虚無だ。そんな地獄のような極楽で、たけしは遊び続けようと決めたのだ、きっと。
●そして、映画への憧憬もまた、そうした虚無にみまわれていると見てはどうだろう。「世界のキタノ」として頂点をきわめ、賞もいくつも取って引っ込みがつかなくなって「なんだかな」と内心ボヤイてもいるタケちゃん。もちろん映画とは作れば作るほど神秘なのだろうし快楽でもあるのだろう(ものごとはすべてそうだ)。黒澤明や勝新太郎への尊敬は決して捨てないでいるだろう。それでもなお、特別な領域だった映画ですら権威や秩序やもっともらしさの底を知ってしまい、ましてやもっともらしいセレブの位置などなにより居心地が悪く、どこか倦んでしまった男に、いよいよ底なしの虚無が忍び寄る? ●そうすると、北野武がビートたけしを演じているというのはやっぱり間違いで、ビートたけしが北野武を演じているのだ。映画に目がなくて映画の真実が見えているはずの北野武は、実はもとから目が見えるビートたけしだったのだ。しかしだからこそ、最後には自らが躓いてボヤかずにはいられなかったのだ。●人がばっさばっさと斬り殺され、死んでいく。たいして意味はない。虚無。そこには、権威や秩序を斬ってきたたけしの痛快さを重ねることもできるだろう。しかしそのときは、皮肉や虚無という痛快さで乗りきってきたはずの時代と半生、そして映画すらも同時に切り倒されている可能性がある。そうした凄みを、たけしという人はやっぱり湛えている。そういうやりきれない虚無の晴れ姿を、私はあの座頭市に見たように思う。――いやもちろん、こんなのぜんぶ勝手に見た気がしているだけで、本当はなんにも見えていないんだけどさ。
2004.3.12 -- なぜこんな本を読まなくてはいけないのか --
●北田暁大『責任と正義』(勁草書房)。半分まできた。ところが図書館の貸出期限もきた。う〜む、どうしよう。「なぜ本を返さなくてはいけないのか」。考え込む。「俺なんて読み終わるまで絶対返さないぜ。だってちょっとイヤミ言われるだけだろ。あ、でもお前らはきっちり返せよ。次に俺が借りるんだからさ」←規範の他者? 「はて、どういうことでしょう。私などいつも読みたい本はそのまますっと持ち帰りますが、なにか。貸出期限? ああそういえば、家に本が増えてくると図書館の棚に片づけておくことはありますね」←制度の他者?●周知のように、北田氏は2ちゃんねる的行為の理論的構成にとり組むなかで、アイロニーがロマンチシズムに陥る危険性を指摘した。若手研究者として最近は雑誌での活躍も目立つ。しかも「はてな」に日記まで書いている(参照)。そんなわけで、この人が著書ではどんなことをどんなふうに書いているのか、興味があったのだが……。●《第一部 責任の社会理論 第一章 コミュニケーションのなかの責任と道徳 一 問題としての「コミュニケーション的行為の理論」 【1】発話内行為の構造 周知のように、ハーバマスはコミュニケーション的行為の理論的構成にとり組むなかで、(1)発話内行為は行為遂行の最中にあって「当該行為は……である」という高階の自己指示をなしており、》 むむ、こりゃ予想よりずっと堅い本だ(当っても痛い)。東大の先生のマジ論考とはこういうものか。ちょっとたじろぐ(後悔が先に立つ?)。●ところが、やがて現れるのは、言うなれば「悪気はなかったのに責任とらないといけないの」とか「他人を思いやりはする。でも実際に何かするわけではないなあ」といった日常よくぶつかる類いの迷いに近い。同書はそれを延々解きほぐしていくわけだが、それも我々があれこれ悩む手順を案外なぞっている。ただそれを綿密な段取りで基礎工事からやっていくところが違う。汎用性と確実性のある理論にまとめあげるところが違う。そうなるとどうしても、ハーバマス、ルーマン、ローティ、立岩真也といった人の考えを参照し批判していくことになるのだろう。自らの疑問を自らが解消するため、気になるところはことごとくチェックするし、使えるものは何でも使う、という意気込み。論考の見取り図も繰り返し確認する。だからこれは、当人が今考えていることの実演であって、誰かがすでに考えたことの解説では全然ない。
●それにしても、我々が俗に「責任」や「正義」という言葉を思い浮かべるのは、今ならたとえば、鳥インフルエンザが発覚したりそれをめぐって経営者が自殺したりというニュースに触れたときではないだろうか。しかし、『責任と正義』はそうした具体的な出来事を取り扱うわけではない。じゃあなんで北田氏はこれほど丁寧に責任や正義について考えるのか。そこがすぐには見えてこなくて、もどかしい気もする。しかしそのときは、そもそもこの本を著わそうとしたのは、社会や関係をめぐる言説があり(いわゆるポストモダンのイメージ)、政治や法をめぐる言説があり(主にリベラリズムのイメージか)、学問の人が誠実になればなるほど巻き込まれざるをえなかったその狭間をはっきりさせたいという、まさに理論そのものの錯誤にかかわる動機だったことに思いをはせる必要があるのだろう(そここそが重要という自覚は、稲葉振一郎『経済学という教養』にも近いと思える)。責任の話から正義の話へと、まだまだ先は長いわけだし。●そういう点では、これを読み通す人はやっぱり奇特だ(著者もそんなふうに書いている)。4900円(+税)も安くない。小金のあるサラリーマンにはそこまでの暇はないし、小暇のあるフリーターにはそこまでの金がない。→ちょっと参照。でも金と暇が有り余っている人にかぎって「そもそもなんで本なんか読むのか」という他者だったりして。ブックレットみたいなものが一緒に出るとありがたいのではないか。いやそれを思うと、「はてな」の日記がその役割を十分果たしているのかも。●ともあれ、我々はたしかに難度じゃなくて軟度が高いワイドショー言説になじんでいるのだけれど、本当に気持ちをすっきりさせるには、こうした本格的な論考が欠かせないということも感じとっている。あとがきで著者は「なぜ人を殺してはいけないのか」の問答に考えこんでしまったことや、9・11の報にあまりの衝撃を受けたことを打ち明けている。我々はきっと、その浅い部分ではなく深い部分で共感できるに違いないと思う。
2004.3.6 -- よく効く薬 --
●家の前から道路に出たところで、ちょうどこっちに歩いてきた女性が息をのむように立ち止まる。私が「あ、すいません」と応じると、表情はすぐ和らぎ「この辺危ないって聞いてましたので」と照れ笑い。まあ昼間っからそれほど物騒なわけはないのだが、問題は私のマスクである。因果な病だ。●とはいえ、花粉症3年目の私が、今年はなぜかまったく大丈夫。予防薬が効いているのか。花粉症の治療は症状が出てからでは遅いという。しかし人間というのは(鶏ではないのだが)、あんなに辛かった鼻水のことを、まる一年たつとすっかり忘れてしまい、つい「このままなんとなかるんじゃないか」なんて気がしてくる。しかし桜と同じで律義にやってくるのがスギ花粉。昨春はそれを思い知った。だから今年は2月上旬から医者に行き薬(アレロック)をもらったのだ。●みみっちいが、費用は診察と薬(2〜4週間分)合わせてたしか2千円余り。去年は苦しんだあげく薬屋へ走りティッシュの箱も日々空にしたのだから、よほどマシだ。一般に花粉症の薬はよく効いて副作用もほとんどないと聞く。私も今のところ1錠でばっちり(症状が出たら2錠にせよとのお達し)。こんな簡単なことなら去年もそうすればよかった。薬とは総じてありがたいもの。小粒にして神妙の一粒だ。ところで貧乏にも薬はある。これがまたよく効く(らしい)。●ところでイラク。サマワに駐留する自衛隊が地元から土地代をふっかけられ、相場の数十倍を払わされるハメになったとか(読売の記事)。「わかったよ、じゃあ俺たち、帰るから」。テレビで見るにつけ人柄の良い佐藤隊長はそうは言えなかったらしい。アメリカの子分になるだけでなくイラクでもパンを買いに行かされるのが人道復興支援か。世界で一番お人好しの日本の私としては、交渉のアホらしさは身にしみてわかる。どうせなら、金だけを気前よく出す弱虫バカのふりを最初から通したほうが、よかったのでは。日本の私たちは、そっちのほうがよほど得意なんだという実感が、なんとなくある。●とはいうものの、中東の砂漠の民にとっても、フセインだか誰だかの顔が印刷された紙切れなんかより、ドル札のほうがよっぽど値打ちがあるということを、この交渉はありありと示す。イラクの人もアメリカの人も日本の人もまったく同じ貨幣というからくりによって幸せを得る。地球の果てでもドルさえあれば何でも買える。でもそれならわかる。我々が結局何を求めて戦っているのか、少しだけわかる。●しかし、貧困もああなってからでは遅いよ。もっと早く薬を処方しておかないと。
2004.3.5 -- ミスティックな感想 --
●『ミスティック・リバー』。ショーン・ペン(アカデミー主演男優賞)の顔がまぶたから離れない。独特の形にあいた口。淡々とした演技の刑事役ケビン・ベーコンは濃いとはいえない顔だが、やはり忘れがたい。顔の上半分がホンコンに見えるときがあって。やけに印象深い(というか彫りが深い?)顔というなら、今はケリーだ(民主党の大統領候補)。結論としては「アメリカ人の顔ってなんかヘン」。●日本人なら、その人の顔はその人の背景を(間違っているとしても)容易に語ってしまう。しかしアメリカ人となると、背景にある社会や文化について日本並に詳しいつもりでいるのに、近所の家や店にああいう顔立ちの人が何の変哲もなくたむろしていたりはしないわけで、その落差が奇妙さを生むのだろう。そもそも人の顔をあんなに大写しで見つめるという機会自体があまりないというのもある。映画とはそういうところでおかしな体験だ。テレビは言うと、全般に慌ただしくこっちも情報ばかり気にしているから、顔だけが浮き立つことは映画ほどないように思う。それでも目立ってしまうケリーさんは、やっぱり独特の顔なのか。●『ミスティック・リバー』は「いや〜な気分になる映画」と聞き、気になって見てきたが、まあ当っていた(だからこそ貴重な傑作とも言える)。ネット上のレビューを探すと、物語の最終決着をめぐって戸惑いの声も上がっている(参照)。●しかし、登場人物の行為が許せない気持ちと、そんな筋書きの映画を成立させたことが許せない気持ちとは、混じり合いそうで混じり合わない。当たり前? しかし、「この映画の登場人物の行為は素晴しい」と「この映画の成立は素晴しい」の二つなら、堂々と混合されて映画という神秘や奇跡の証にされる傾向もある。しかもそれはまったく非合理とも言い切れない。だとしたら、「こんなイヤな映画を作ったクリント・イーストウッドって、なんてイヤなやつなんだ」さらには「こんなイヤな演技をするショーン・ペンって、なんてイヤなやつなんだ」という感想も、なにがしか正しいことを言い当てている可能性がある。●話は少しずれる。私自身は「あの最終決着は許せない」という感想にはならなかった。では、もしも『ミスティック・リバー』が実話の映画化やドキュメンタリーだったらどうだろう。今度は「あの最終決着は許せない」と言うかもしれない。しかしその使い分けは間違っている可能性がある。●さらに話はずれる。私の人生はどうだろう。許されない人物の許されない行為がいくつか重なったのに、結局「こんな私の人生が許せないのです」という感想になったとしたら。それも非合理とは言い切れない。
●私たちは、映画の何を、事実の何を、許さないつもりなのか。
2004.3.1 -- 革命や内戦への漠然とした期待 --
●「Is he your firend?」「……」「Yes or No?」「…イ、イエス」「Why?」「…ホワイ?」「Because…」「…ビコーズ・アイム・ヒズ・フレンド」「Rright.」●明瞭であるかぎりにおいて公開されるかぎりにおいて人脈は成立する。世界標準の資産であるかぎりにおいて保管・証明・比較・交易ができる。我々の認識のことごとくがネット情報として顕在化していく流れの先端だろうか。●国民になればいくらでも自由にふるまえる国。しかし国民でないかぎり入国は絶対できない国。国民に仲間と認められないかぎり国民にはなれない国。orkut。密入国手引きします。でも牢屋があります。本当です。もはや虚構とも言い切れない国。●鳥インフルエンザの拡大を思わせなくもない。orkutは人から人にしか感染しないところは違うけれど。
■04年2月■日誌 archive
著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)