足立恒雄
『無限の果てに何があるか』
『√2の不思議』


    image


数学とは何か(というほどのこと)


足立恒雄という数学者が一般向けに書いた『無限の果てに何があるか』と『√2の不思議』。私はこの2冊で「数学とは何か」がついにわかった! ……またもやインフレ目標政策のごとく言葉を乱発して恐縮だが、そういうことにしたい。もちろん数学のド素人としての弁だが、同じド素人の方にはむしろ聞き捨てならないはずだ。高校時代いちばん泣かされたのは数学だった。二次方程式の解の公式は忘れても、中間・期末テストの答案を一人ずつ教壇まで取りに来させすぐには返してくれなかった**先生の顔だけは忘れない。そのころ40点が落第ラインだったが、その界隈を毎度うろついていたあの頃の私とその愉快な仲間たちに、以下のテキストを捧げよう。

実際そういう人のためにこの本はある。『無限の果てに何があるか』のまえがき――《中世の暗闇的段階にとどまっている世間一般の数学的知識を、現代数学の基礎がかたまった二十世紀前半のころの数学のレベルにまで高めよう、という意欲をもって書いた》。しかも《これ以上通俗的な表現では、数学的に厳密でなくなるというギリギリの線まで譲ったつもりである》。

そういう私がそういう本から感じ取った「数学とは何か」。大きくわけて2つある。自分なりに記していこう。

  *

1つは「数学は現実世界の法則を表わしたものではない」ということ。足立先生は《数学は、ひらき直って言えば、純粋に頭の中だけの学問なのであって、その対象は、実際には思惟的にしか存在しない…》と言い切る(『無限の果てに何があるか』以下同)。

その好例が虚数だ。「2乗してマイナスになる数」なんてどう解釈すればいいか考え込んでしまう。でも実際は、「xの2乗=−1」というヘンテコな方程式を持ちだして、その解をむりやり数の仲間に入れるために、「1i」と記して「虚数」と呼びましょう、と取り決めただけのことだったのだ。

無理数もまた方程式の解として作られた(xの2乗=2の解が√2)。さらには、ピザ1/6枚といった分数や、家計が月3万円赤字といった負の数も、すっかり馴染んでいる(ああまったく赤字は実在する?)が、もとはと言えば、1÷6の答やx+1=0の解が自然数では表わせないので、じゃあ「1/6」「−1」と記して数とみなそう、という取り決めだったのだ。

だったら自然数はと言うと、やはり《…自然数こそは人間が作った》が結論。数学は、数えるという行為とは無縁に、つまり自然の物体や現象をまったく参照しなくても、理論と操作だけで自然数を生成でき定義できるのだ。四則計算もまた同じ。

数こそ宇宙生成の原理とか自然界にひそむ普遍だとか思いがちだが、こういう根拠からは、数は人間が自分の都合で作ったということになる。

同じことが幾何学にも当てはまる。

幾何学とはつまるところ公理と証明だ。たとえば「直線Aと、A上にない点Bがあるとき、Bを通ってAに平行な直線は1本だけ引ける」などの公理から「三角形の内角の和は180度」が証明される。しかしこの公理を「…平行な直線は何本でも引ける」に変えると、それに伴って新しい空間が想定され、そこでは「…内角の和は180度未満」が証明される。このように公理とは仮の前提であり、公理が変われば想定される空間も変わる。そのとき公理が想定するような空間がこの世に実在するかどうかには、数学は関知しない。いかなる公理でも証明でも内部に矛盾が生じなければ、幾何学として成立する。

それでも我々は「三角形の内角の和が180度」だけは現実だろうと言いたくなる。しかし、地球の球面上に大きく三角形を描くことを考えてみよう。重力の作用で時空が変動することを考えてみよう。そこでは「三角形の内角の和が180度」は必ずしも現実を反映しない。あるいは完璧な三角形をした土地や図形というのが現実には存在しないことからも、幾何学は空想世界の法則であると言える。

これらのことを『無限の果てに何があるか』はまず説いていく。ところでそのとき、自然数を数学的に生成・定義する方法の核になるのは、実は集合という考え方だ。というか、数学の《すべての概念は集合で表現できる》とある。図形や関数もみな集合として解釈できると言う。《…ついには数学とは、集合を唯一の原材料(物質界における原子のようなもの)にして作り上げられている論理体系であるとみなせるところまでのしあがったのである》。このシンプルな括りに唖然とした。たしかに数学では、方程式がグラフのイメージで解釈できるのをはじめ、ある領域が思いがけず別の領域に置き換えられることは多く、そのたびに「へえ〜」と思うのだが、その「へえ〜」が頂点に達した感じだ。

足立先生はさらに《数学の命題はすべて述語論理で表現できる》とも言う。論理学はもともと三段論法など初歩的なものだったが、20世紀初頭になって「すべてのXが〜である」や「〜であるXが存在する」という表現を含めた「述語論理」へと進化した。その恩恵があって「数学の命題はすべて述語論理で表現できる」のだ。

まとめて言えば《数学とは、集合とその要素であることを示す記号∈を、論理記号と一定の規則によって組み合わせて作り上げた体系である》(「林檎∈果物」と書いて「林檎は果物という集合の要素」という意味)。自然数や幾何学をはじめとする各分野の数学は、集合という発想を公理化し形式化した数学としてひとつに統合できるのだ。その理論はもはや現実や直観を完全に排して成立している(見た目はヘンテコな記号の組みあわせ)。いわば数学の貨幣化およびグローバル化か? それをひととおり追体験できるのが同書だと言える。

こうした現代数学は19世紀末から20世紀初頭という短い間に一斉に花開いた。このドラマは「ゲーデルの不完全性定理」でクライマックスを迎える。それが同書の最終章。

不完全性定理とは何だろう。いわく、ゲーデルは「自分の正しさは自分では証明できない」ことを証明した。ただし、ここで言う「自分」とは「世界のすべて」ではないし「数学のすべて」でもない。「たとえば集合論のような自然数論を含む形式的体系」にかぎっての話だ。つまり、自然数の四則計算が含まれるような数学ならすべてこの範囲に入るらしい。そして「矛盾のない自然数論の公理系ならば、正しいとも正しくないとも証明できない命題が必ずある」というのが不完全性定理だ。

数学がなにか完璧な理論だと信じている我々にとって、これは驚天動地のショックだ。まだ証明されていない命題を取りあげて、その正しさを証明しようと頑張るのが数学の営みなんだろう。そうすると、取り組んでいる命題がなかなか証明できなくて苦心している場合に、難しい命題だから簡単に証明できないのではなく、間違った命題だから正しさが証明できないのでもなく、正しいにも関わらずその正しさが絶対証明できない命題であるという可能性が否定できないのだ。

たとえ話をするなら、この時代に数学という御殿はまったく新しいハイテク様式で改築されたのだが、御殿がこの様式であるかぎり倒壊につながる致命的な欠陥が免れないという明白な検査結果が出てしまった、というところか。家計簿の計画や中間テストの解答がときどき狂うのも、もしやそのせい(?)

なお、不完全性定理はしばしば次のような話が枕になる。同書が挙げるのは――「自分でヒゲを剃らない人のヒゲをすべて剃るという床屋がいるとしよう。この床屋は自分自身のヒゲは剃るのか剃らないのか」。いろいろ考えればわかるが、剃るのは理屈に合わないし、剃らないのも理屈に合わない。この理屈の破れが不完全性定理に似ている。ただし、この話自体は自然数論ではないので不完全性定理というわけではない(と思う)。しかしゲーデルは、この理屈の骨格になるような自己言及のパラドクスを、自然数論を表わす集合の論理形式のなかで生成させることに成功した、というわけだ。そのやり方が実にアクロバティックでエレガント。…と形容してもなんのことやら、か。そこはこの本に限らずなにか一冊ぜひ。

しかしもうこれくらいにしよう(不完全性定理の紹介としてはまったく不十分だが)。数学について演説するだけでも身のほど知らずなのに、調子に乗って不完全性定理について云々とは不届き千万(**先生にちょっとこいと言われそう)。それでも今回はいつになく不完全性定理の理解に近づいた気がする。理解が進んだというより理解が戻ったうえで明快になったと言うべきか。もちろん詳しい解説書やゲーデルの原典に当るに越したことはない。それでも同書を丹念に読めばその勘所はつかめるように思う。

さて、ここでようやく話は最初に戻るのだが――。「数学が頭のなかだけの世界」というのは、さて実際どういうことか。勝手な思いつきで話を広げるけれど、生まれつき目の見えない人が、赤とか青とか緑といった光の色を想像だけで定義するとか、赤と青を混ぜて紫ということも想像するとか、そういうことに近いのではなかろうか。そして、赤と青と緑の光を混ぜると透明になることが想像上の計算で証明されたが、色を想像するだけの人には、そこはどうにも腑に落ちない。私がゲーデルの不完全性定理に抱く印象もそんなところだろう。数学とは現実世界の解読ではなく、人間がいわば空想によって作り出した世界という話だったのに、その空想世界のなかに、なぜかその空想をはるかに超える奇妙な事態や様式が出現してきたようで、不思議ではないか。

実は、数の話を読んでいても似たような感慨をおぼえた。たとえば、数直線を数の点で埋めるには自然数でも分数でも足りず無理数が間に入るわけだが、その無理数つまり数直線上の点のなかには「方程式の解としても表わせない点がある」と言われて「へ〜え!」と驚き、「πなどがそうです」と言われて「ああそうか!」と膝をたたいた。ほかにも、自然数に分数を含めた有理数、そこに無理数を含めた実数、さらに虚数を含めた複素数、という具合に数の仲間は新しく作られ増えてきたから、「この先どこまで続くんだろう」と思きや、「いえ複素数が数の終着駅です」と告げられる。その理由も一応教えられる。でもなんでだ。もっと空想しようよ。…え、空想にも法則が? 空想にも限界が? そういうことか? どうなんだ。

もう1つ。現代数学が開花するなかで、無限の扱い方も飛躍的に進展したというが、そこにも想像を超えた話があった。自然数と実数はどちらも無限だ。しかし同じ無限にも濃度という序列があって、実数の無限は自然数の無限より濃度が大きいことが証明できるというのだ。これは、自然数は1、2、3、……と数えられるのに対し、実数は順番に1個ずつ数えるということができない、という違いとなって現れる。その一方、自然数と偶数は同じ濃度の無限であると証明できる。さらに有理数も無限の濃度は自然数と同じ。言い換えれば、自然数、偶数、有理数はいずれも1個ずつ数えていくことができ、自然数1個に偶数1個あるいは有理数1個を対応させる操作がどこまでも続けられるということだ。自然数は明らかに有理数の一部だし、偶数は明らかに自然数の一部だが、それでも無限の濃度としてはみな一様なのだ(実数になると無限の濃度が変わる)。さらには、線を埋めつくす無限の点、面を埋めつくす無限の点、空間を埋めつくす無限の点、これらはすべて無限の濃度が同一だったりする。これまた不思議としか言いようのない世界だ。

  *

おっと、1つめの話がずいぶん伸びた。では頭を切り替えて、というかもう寝ることにしてあとは明日にしてもよいが、ともあれ「数学とは何か」のもう1つ。それは「数学とは抽象的な思考の源泉である」。

あらゆる事物あらゆる問題を抽象化するところに数学の本領があり、しかも抽象化こそは人間がものを考える本質でもあるということだ。数という概念がその始まりだという。《自然数、すなわち1、2、3、……という数が1匹、2人、3歩、……という具体的なものとの対応を離れて、数そのものとして独立に考えられるようになったのが、人類の文化の始まりであると私は思う》(『√2の不思議』以下同)。

足立先生はさらに噛み砕いて《抽象的思考は類別に成り立っている》とも言う。《実例を調べるうちにそのパターン、ある種の類似性を読み取るのは人間の持っているもっとも不思議ですぐれた能力の一つである。そのパターンを読み取るというのが抽象ということである》。ということは……。そうだ、抽象化は言語の本質でもある。《そもそも言語というのが類別によって成り立っている。たとえば世の中に無数にある手紙の一つ一つに名前をつけるよりは、同じものであるとみなしていずれも「手紙」と呼ぶ》。

指摘されてみれば当り前なのに「ああ、まったくだ」と感じ入ってしまう。ふだん「君の考えは抽象的だ」と言うのは非難であることが多く、「抽象的」の積極的な意義を検討することがあまりないせいだろう。

さて、自然数が抽象化の始まりなら、数学の全領域が同一形式で記述できるという現代の集合論は、抽象化の極みということになろう。《「数学すること」とは、集合をいろいろな方法で抽象化する能力だと言いかえてもよい。人類というのは複雑・精緻で豊富な体系的言語を持っていることが際立った特徴であると思われるが、その言語は類別をはじめとする抽象化の手段を基本として成立している。そしてその抽象化という概念が、数学という人工言語の中に純粋かつ先鋭な形で登場するのである。》

ところで、足立先生は数学を他の自然科学とはっきり区分する。物理学も化学も生物学も心理学も社会学もなんらか現実の対象についての解明だが、数学はそうではない。最初に述べたとおり、数学だけはいわば空想公理の空想世界で空想命題を扱う。したがって、自然科学の対象はすべてつながりを持っているが、数学だけは独立し完結している。しかしそれなら、自然現象はどうして数学によって記述できるのか。宇宙や物質や生物や人間や社会が、やはり数学の法則に従って出来ているからではないのか。ついそう考えたくなる。しかしそれは因果が逆だ。科学は自然という対象に数学というモデルを当てはめて分析するがゆえに、自然は数学に従った形で解明されてくるのだ。《自然界が数学的なのではなく、われわれが自然言語から抽象した数学という言語を使って研究するから、自然界は数学的なのである。》

これに絡んで出てきた話を1つだけ。酸素+水素→水蒸気という変化では、気体の体積は「2+1=1」になってしまうが、この変化で「2+1=3」という算術に当てはまるものとして原子量が要請された、と言うのだ。物理学という手品の種を見せられた気がして、面白かった。

すると、数学の抽象性はこの世の何ものにも縛られず独立しているのか。というとそんなことはない。なんといっても数学を生み出した我々人間の思考と切っても切れない。『√2の不思議』が最後に強調するのはそこだ。数学は文化や時代を超えた真理ではなく、自然の法則を代表するものでもなく、さらには我々の数学だけが唯一の数学でもないと足立先生は言う。つまり数学とは人間の認識パターンの集積だ。こう考えていくとまたもや言語にそっくりに思える。《数学は自然現象なり、思惟的考察対象なりのパターンをその時々の都合によって認識し、名称を与えたり、法則化していった成果であるのだが、人間の観察・思考・認識は言葉による束縛など、いかんともしがたい偏向がかかっているはずである。かんたんに言えば、数学は「人工」言語なのである。だから、数学の基本概念は発明なのだというのが私の主張である。》

  *

ところで「〜とは何か」を説明するには2つの方法がある。たとえば「ラーメンとは何か」なら、一つは「ゆでた麺に熱いスープをかけ具を乗せて食す丼物であり日本には愛好者が多い」とやる方法。もう一つは「醤油ラーメン、みそラーメン、塩ラーメン、豚骨ラーメン、もやしラーメン、チャーシュー麺、……」とやる方法。それぞれ内包、外延などと言う。今回の著書でいうと、現代数学の内包に迫ったのが『√2の不思議』、外延を挙げた解説が『無限の果てに何があるか』、どちらかといえばそういうことになる。とにかく2冊とも数学の初心者には大いに力になってくれるだろう。ここに記した以外にも面白い話がいっぱいだ

今回は同じ足立先生の『無限のパラドクス』(ブルーバックス)も並行して読んだ。無限という概念の分類・分析と、数学史のなかで無限がどう扱われてきたか、そこに集中して迫った一冊。これも同じく面白かった。

『無限の果てに何があるか』amazon
『√2の不思議』は絶版。
『無限のパラドクス』amazon

足立恒雄先生のウェブサイト(3冊についてのコメントもある)

なお足立恒雄氏のことは島田雅彦の対談本で知った。その経緯などは以下。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040123
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040202

  *

もうここからはおまけの話。

数学がなかなか理解しがたく毛嫌いされる実情は、足立先生もよくわかっていて、2冊のどちらにおいてもちょっとそれに触れている。数学は論理だけで出来ていて間違えようがないと思うのに、おかしなことに人間の頭は論理だけではダメで、なにかイメージがないと理解できないようになっているらしい、と言う。それにもかかわらず、数学は、新しい概念をひとつ作るだけでなく、その上部にまで新しい概念をかまわずどんどん構築していくところが言語と違うので、どこかで着いていけなくなるのでは、とも言う。じゃあどうしたらいいのか。意外にも、そこは徒弟制度的にガンガン鍛えて慣れてもらうしかないんだと言う。**先生ではない、足立先生がだ。ということは、かの百マス計算なども捨てたもんじゃないのか。そういえば、近ごろ本屋で『脳を鍛える大人の計算ドリル』なんてのが目につき、開いてみたらまるきり小学生の計算ドリルみたいで、ぞっとした。

百マス計算を編み出した先生が、この前テレビに出ていたのだが、コメンテーターが秋山仁で「百マスなんてくだらない」と内心思っているのはミエミエだったが、隣に当人がいるせいか「まあ低学年には百マスもいいけれど、こういうのもありますよ」と、自分で用意してきた道具を披露した。それは、円の面積がなぜ半径×半径×πになるのかを直観的に(イメージで)把握させる優れ物だった。

まあ結局、百マス計算や高校数学テストは数学に慣れるためには案外避けられないプロセスなのかもしれないが、こと数学の本質となれば、今回の2冊からすれば、百マスとはまったく別物だ。しかしまた、秋山氏の直観的イメージ数学とも別物だ、というのが私の確信。ともあれ、計算ドリルや中間期末テストはもういやだ。

いっそう話は飛ぶ。かつて人々はポスト構造主義というものについて難解な本のページをどんどんめくり脱構築とかリゾームとかそんな用語ばかりを百マス計算のごとく読んだり書いたり足したり引いたりしているうちに、いつしか直観的イメージが徒弟制度的に形成されたのではないか。現在はというと、たとえばウェブサイトを毎日だらだらだらだら見ることで、リベラリズムとか動物化とかの百マス計算になっているのかもしれない。


Junky
2004.2.18

日誌
迷宮旅行社・目次
著作=Junky@迷宮旅行社http://www.mayQ.net