在日 参政権 国籍 戦争責任 冬弓社 メル友交換日記 内田樹 鈴木晶  
天動説としての「在日・帰化」論?=その2=





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前回、在日に関する内田樹氏の発言(冬弓社のサイトにある「晶・樹のメル友交換日記」から)を読んで感想を書いた。そういうことがあったせいか、この問題をどうせなら徹底して厳密に考えようと思い始めた。今までは徹底していたとは言い難いということだろう。そうしたら今回は、内田氏に同意して続けているはずの鈴木晶氏の発言(リンク)に、いろいろ違和感を感じてしまった。

鈴木氏はこう書く。

<在日韓国人は、日本国籍をとらないまま政治への参加を求めるべきではなく、政治に参加しようと思うのであれば、日本国籍を取得するべきである。>

しかし、次のようにも書く。

<しかし、では在日コリアンに対して、胸をはって「日本国籍をとれ」と迫れるか、というと、それは別問題で、逃げるわけではありませんが、私はこの問題に関してこれまで公にはいっさい発言したことがありません。>

そしてその理由を、次のように書く。

<在日コリアンは日本に大挙侵入してきたわけではない。そして昔の日本が朝鮮に対してやったことを考えると、日本人の立場から「日本国籍をとれ」とは言いにくい。>

こういう流れ、どこかすっきりしないなあと思う。その違和感が何かをつきとめるために、次のように考え始めてみた。

日本人と呼ばれる戦後世代のAと、在日と呼ばれる戦後世代のBがいる。 国籍というものが名目か実質かは別にして、Aは日本国籍であり、Bは日本国籍でなく、その現在の段階の法的な帰結として、Aには日本国の参政権があり、Bにはそれがない。この点で、両者は社会的な権利や立場が大きく隔てられている。

では、 過去の戦争で日本や日本人が朝鮮や朝鮮人に対して行った歴史を、現在の日本に住む個人はどのような立場や態度で引き受けるべきなのか。この点においても、AとBは、やはり大きく隔てられているのか。

在日差別が存在することやその不当性を認識できるとされている側の人々は「その通り、大きく隔てられている」と考える、と私は捉えていた。私自身も「隔てられている」と考えてきた。そして、在日というテーマが必要以上に神経質に取り扱わないといけないものであるかのように私が感じていた理由も、そこにあったと思う。

しかし本当は、「隔てられている」というのは誤りだ。たぶん。最近そう思うようになった。

次の部分も、なんだか気になる。

<在日コリアンが日本人になったら、ずいぶん日本人の「均質性」が崩れるのではないかと、私には期待しているところがあります。異質な人間が増えていって、いちおう今の国という枠組みを守って、少しずつその国を変えていく、というのが日本の将来にとっていいのではないかと思うのですが、どうでしょう。>

在日が日本国籍になれば日本社会の均質性が崩れるかどうか。それは眉唾のような気がするし、それ(均質性が崩れること)が日本社会の将来にとっていいかどうかも即座には判断できない。でもまあそれはどうでもいいのだ。ここで見極めるべき点は、在日の国籍とか参政権とかの課題と、日本社会の均質性という課題とが、ついつい同一テーマであるかのように言われるが、それは重大な錯覚なんじゃないかということだ。どういう錯覚か。それはまた次回。

発言を厳密に、というか自分の気持ちに忠実に読んでいったせいか、次のごくごく基本的な理屈すら、そうあっさり言われると、なんだか首をかしげたくなってきたのである(前回私が立とうとした理屈だったにもかかわらず)。

<在日韓国人は、日本国籍をとらないまま政治への参加を求めるべきではなく、政治に参加しようと思うのであれば、日本国籍を取得するべきである。>

<1)ある国に住む人間は、その国の国籍を有しているか、別の国の国籍を有しているか、どちらかである。二重国籍はこの際、前者に含める。
 2)その国の国籍を有していない者は、「外国人」として生活 している。
 3)「外国人」として生活している人は、その国ではなく自分の「祖国」に対して帰属意識をもっている。
 4)よその国に対して帰属意識を抱いている人間がその国の政治に参画するのはおかしい。>

これに真っ向から反対だというのではない。ただ、私が在日のことであれこれ考えている一番のポイントはこれとはちょっとずれているなあ、という気持ちだ。今回は全般的にいって、それが違和感となって現れたのだろう。では私にとって一番のポイントとは何か。それは次回!(近い将来)。

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Junky
2001.11.9

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