鄭大均 『在日韓国人の終焉』 参政権 国籍 内田樹 メル友交換日記 ハイゼンベルク 『部分と全体』 量子力学 天動説 地動説 高橋源一郎
天動説としての「在日・帰化」論?=その1=




もうだいぶ前になるが、鄭大均という人の『在日韓国人の終焉』(文春新書)という本を読んだ。表紙の折り返しには、こんなことが書いてあった。

<今日の在日韓国人に見てとれるのは、韓国籍を有しながらも韓国への帰属意識に欠け、外国籍を有しながらも外国人意識に欠けるというアイデンティティと帰属(国籍)意識の間のずれであり、このずれは在日韓国人を不透明で説明しにくい存在に仕立て上げている。では、どうしたらいいのか。そのアイデンティティに合わせて帰属を変更すればいい。日本国籍を取得して、この社会のフル・メンバーとして生きていけばいいのである。>

早い話が、在日に無くておかしいのは「参政権」ではなく「日本国籍」だという主張である。これはもうコペルニクス的転回といってよい。いやその逆か。つまり「それでも地球は回っている」はずだったのに「やっぱり太陽が回っている」と。

私はどちらかといえば、(いやそうではなくて、どちらかというならはっきりと)「在日に参政権がない。それはつまり差別である」という立場にいた。というかその立場の人たちと交じることが多かった。しかしその立場では、「日本国籍を取る」という解決方法は指摘すること自体がタブーのようだと、少なくとも私は感じていた。だからそういうことは普段は黙っていた。でも内心ではそのことがずっと引っ掛かっていた。だから、鄭氏の言うことは、まさに「スポンジに水」状態で分かりやすく納得もいった。これまでこの方向の意見は、私の印象では反人権系の無茶意見ばかりだったことを思えば、『在日韓国人の終焉』は本当に拾うに値する一冊だ。

しかし、この読書については表立って日誌に書いたりしなかった。それはやっぱり「在日に日本国籍を」という主張がいわば天動説の蒙に戻ることなのではないか、という心配があったからかもしれない。

では、今になってこれを蒸し返すのはなぜか。それは、この本を入り口にして、かの内田樹氏が、実に鋭い洞察をしているのを知ったからだ(トラの威を借るキツネである)。内田氏は「メル友交換日記」というかわいいタイトルのサイトで、こんなこと(少しだけ引用)を述べている。

<「在日」の問題は、一見すると、それらの問いにどれほど「正しく」答え切るか、そこに「知識人」たるものの知的・倫理的生命線が賭けられている問題のように見えます。しかし、実際にはそうではないのです。私がどれほど善意であろうとも、公正を期していようとも、国際情勢に通じていようとも、私の「答」が「正解」として認知される可能性はないからです。なぜなら、これらの問いは、「正しい答」を求めて立てられているというよりは、むしろ「誰一人『問いかけるもの』を満足させる答を出すことができない」という事況そのものを印象づけるために立てられているからです。>

<「在日と共生」の問題は二つの水準を含んでいます。具体的にどうやって「快適で合理的な共生社会」を実現するか、という制度的な保証の問題。これは純粋に「論理的」な問題です。
「共生の実現」に踏み込むより先に、まず「支配―被支配」という歴史的事実の「貸し借り」を、「権力関係の中で清算する」ことが重要だというのは「政治」の問題です。私たちが混乱させられるのは、「ロジカル」であるべき議論の場に、「権力関係の清算」を求める「政治」が侵入してくるからです。
「政治」は、「この困難な問いに、正解があろうはずがない」という言葉遣いで、議論の芽を摘んでゆきます。「政治」からすれば、「問題」は解決されてはならないのです。というのは、まさに「議論の芽を摘む」者こそが、「父の審級」に擬制的に立ち、植民地主義的過去の「権力関係」がわずかなりとも「清算」される感覚を味わうことができるからです。それが「解けない問題」から引き出すことのできるささやかな「利益」です。>

ところで、地動説とか天動説とか言いたくなったのは、また別の本、ハイゼンベルク『部分と全体』(山崎和夫訳・みすず書房)の影響がある。このところ量子力学をなんとなく勉強しているのだが、ハイゼンベルクは、量子力学という山の二大頂上の一つに当たる学者であり、『部分と全体』はその自伝みたいな本だ。かねてより評判を聞いていたが、これ実際「20世紀の20冊」に入れたい(とはいえ他の19冊がはっきりしているわけではない。「北陸三大祭」のようなもの)。

『部分と全体』の中で、大学に入ったばかりのハイゼンベルクは、友人のパウリ(この人も有名な学者)らと議論している。だいたい次のように話が進んでいく。

・物理学でもなんでも「理解する」というのはそもそもどういうことなんだろう。
・正確に計算できるということが、すなわち理解するということだろうか。単純にそう思っていいだろうか。
・もしそうなら、天動説を取りつつも日蝕や月蝕を正確に予測できたプトレマイオスは、惑星系を理解していたということになる。でもそれはおかしいんじゃないか。地動説を取ったうえで天体の運動を説明したニュートンこそが、惑星を本当に理解したというべきだ。

このようなやりとりのあと、パウリの台詞。
<"理解する・わかる"というのは、とにかくごく一般的に言うと、それを使ってたくさんの現象を統一的、相互関連的に認識できるような表象や概念を所有すること、つまり"把握"できることだ。外見的にはこんがらかったある種の状態が、何かもっと一般的なものの中の特殊な場合に過ぎないものとして、より簡明に表現できることを認識したときに、われわれの思考は安心するのだ。>
<予め計算することができる能力は、しばしば理解すること、正しい概念を所有することの結果であるが、しかし予め計算できる能力は理解することと全く同じものだとは簡単に言い切れない。>

内田氏の論はこれに似た意義があった。つまり、「メル友交換日記」を読んだ私は、在日問題という「外見的にはこんがらかったある種の状態が、何かもっと一般的なものの中の特殊な場合に過ぎないものとして、より簡明に表現できることを認識した」んだろう、たぶん。

こういう流れで考えてきて、いささか機械的ながら浮かんでくるのは、「在日に参政権を」の説がむしろ、計算のできる天動説であったかもしれない可能性だ。

もちろん鄭氏や内田氏の見解が最終解決ということではないだろう。というか、これまで私が聞いてきた言説はどれも、在日という不思議な現象をめぐって生じた私の気持ちを、まだまだ完全には説明できていない。だから、私ももちろん結論が出ない。

そしてこの「従来の言説では説明できない」というもどかしさが、量子力学における「原子のふるまいがそれまでの古典物理の言葉では説明できない」という事態と、いくらか似ているというふうに、『部分と全体』を読んでいて思ったのである。

『部分と全体』で、ハイゼンベルクは、上に挙げた議論の直後に、師となるボーアと出会う。当時ボーアは、原子という現象についてある独創的な構造を使って説明していた。それを巡って二人は会話する。二人は、原子という不思議な現象は今の科学の言葉では説明できないこと、および、それでもそれを直観的に理解するには、とりあえず今ある言葉で説明していくしかないこと、を確認していく。

ボーア
<今までの物理学、あるいはその他の自然科学でも、もしもある一つの新しい現象を説明したいと思うときには、すでに存在している概念や方法を使って既知の現象や法則に帰せしめることができたわけです。しかし原子物理学においては、今までの概念では決して十分なものでないと言うことをすでによく知っています。>
<(原子の説明には)、それが直感的なものでなければならないというまさにそのことによって、古典物理学の概念が使われねばなりません。ところがそのような概念では、現象をもはや把握できないのです。そのような理論でもって、本来ほとんど不可能なことを、われわれはやろうとしているのだということがあなたにはわかるでしょう。なぜかといって、原子の構造について何かを言いたいのに、それを使ってお互いに理解しあえるような言葉をもっていないのです。>
<そこに住んでいる人間の言葉も、彼にとって全然聞いたことがないものなのです。彼は意志の疎通を求められているのに、そのための手段を全然もっていないのです。このような場合、理論はその他のときに通常科学で使われるような意味でも説明をすることは全然できません。>
<私はこの猫像(ボーアが原子を説明するのに用いた猫像)が、古典物理学の直感的な言葉を使ってできる範囲内で、原子の構造をうまく記述することを希望していますし、まさにただそれだけを望んでいます。ここでは、言葉が詩の中におけると同じようにしか使えないということについて、はっきりしておかなくてはなりません。詩の中の言葉は、事態を正確に表すということだけでなく、聴衆の意識の中に猫像を生ぜしめ、それによって、人間同士の心の結びつきをつくり上げるのでなくてはなりません>

ハイゼンベルク
<もしも原子の内部の構造が直観的な記述では、そんなに近づきがたく、あなたが言われるように、そもそもそれについての言葉も持ち合わせていないのならば、いったいわれわれはいつの日に原子を理解できるようになるのでしょうか?>

ボーア
<いやいやどうして、そう悲観的でもないよ。われわれは、その時こそ理解するという言葉の意味もはじめて同時に学ぶでしょうよ。>

もしも在日という課題がまたこのような課題であるならば、在日という意味を理解するにも、このような学び方が相応しいのではないか。

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*補足ながら、ハイゼンベルクとボーアの会話は、『文学じゃないかもしれない症候群』(高橋源一郎)の「翻訳の量子力学」にも引用されていますよ。

*内田氏が在日の問題について書いていることは、こちら「ニンジン戦線」というサイトの日記(10月23日)で知りました。感謝。




Junky
2001.10.28

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