追想 '99夏
旅先で思い当たれば
よかったことなのに
いまさら思い当たる
ことがむしろ多いか
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8.19 第8日 西安 嬉しく悲しい円高
*昨夜は、宿のすぐそばで賑わうDAD'S CAFEという食堂に行った。英語がどうにか通じメニューも英語表記。バックパッカー向けのこういう店は他の観光都市にもあって夜遅くまで開いている。ウェイトレスの黄平は生後9ヶ月の子供を抱えているが夫が稼ぎを家に入れてくれないから別居状態だという大変な人。なかなか親切で(というか日本の水準でいえばごく普通で)、西安市内の地図をくれたりした。バス路線が細かく載っている。これは重宝。あれしかしこの地図さっき俺が宿のフロントで買わされたのと同じ? 同行のW君、唖然・憤慨・諦観。というかそもそもこれタダの品だね。それはそれとして、頼んだマーボー豆腐と酢豚、どちらも不味し。う〜む。LONLY PLANET(西洋人バックパッカー御用達のガイドブック)推薦の触れ込みも、怪しいもんだ。そんなわけで今日の昼はDAD'S CAFEを微妙に避け、こそこそと別の店へ。卵トマトスープのうどん。これは旨かった。卵とトマトは一緒に炒めた料理などが中国ではポピュラー。なおこの店は店員募集中だった。就職ねえ・・・。夜は、DAD'S CAFEの道を挟んだ向かいにMAM'S CAFEという似たような店があり、そちらへ。働いている店主の姪と甥にあたる若い姉弟と話した。**さてここに「話した」などと堂々と書いてはいるものの、実際はどんな様子か。私の場合「これいくら」とか「トイレどこ?」なんていうサバイバル用語はさすがに覚えているが、それ以外は会話集を真似てたまに試してみる程度。あとは相当いい加減だ。中国の庶民は相手が誰であろうと中国語でがんがん喋ってくる。「あの〜、ウォーシー、リーベンレン(わたし、日本人)」と言うと、なんだそうか〜と頷いて、再びがんがんがんがん。「いや、あの、だから全然わからないんだけど・・・え?あ?・・う〜ん・・うん?」とかやってるうちに、何の話題かおぼろに分かることがあり、「そう東京から」とか「あした敦煌に行く」など答えると、よしきたとばかり一層がんがんがんがんという具合。しかし中国語の発音は頗る難しく、私の場合せっかく言い回しを覚えても全くと言っていいほど通じず、旅の途中で放棄した。いきおい筆談さらには絵描きという手段に重点が移る。メモ帳とボールペンは必携。単語をある程度知っていてお互いが本気を出せば、かなり伝わるものである。駅で切符を買う時や値段・日時の確認にもまずは筆談だ。このほか言葉の達者な日本人留学生や旅行者もけっこういるので、同席していればありがたく通訳を任せた。
***これを書いていてふと考えた。私は、英語ペラペラの欧米人を前にしてブロークンイングリッシュをなりふり構わず口にするなんて恥ずかしくてできない。しかし相手が中国の人だとなぜか英語でも一層ブロークンな中国語でもかまわん使ってみるか!という気が起こる。この差はどこから来るのか。理由は二つ考えられる。一つは要するに欧米人&英語コンプレックスだろう。もう一つは、欧米からの旅行者に対しては同じバックパッカーとして自分の興味や考え方など難しい話もしなくちゃと思う一方で、中国の庶民に対しては立場や生活に隔たりを感じて「仕事は何ですか」とか「お住まいは」といった単純な話題でお茶を濁したり、時には買い物会話(これいくら、高いよ、負けて)に用足し会話(郵便局どこ、何時に開きます)のみの場合が多いせいだろう。でもそれって中国人に失礼だね。場面が変わって、フランスやドイツやアメリカからの旅行者が輪になって英語で真面目に話をしているのに、傍らの我々に対しては「ニッポン人、お元気ですかあ〜」とちょっかいの声だけ掛けることがあり、もちろんこっちは英語が苦手だから仕方ないのだが、内心「待て、俺は英会話は子供だが思考は子供ではない」と言いたくも、「イエ〜ス」とにこにこ手を振ってしまう、というありがちな屈辱を思い起こしつつ、はたと自らが中国の人に接した時の態度にも気が付くのであった。
****ところで。ここまでの文章は、いちばん上にある「*」の部分が旅行中の日記を写したもので、その説明というか解説のようなものが次の「**」となり、またそこから連想・発展したことが「***」となって続く、という構造をしている。そうこうしているうちにさらに思い当たることが出てきて、それを付記せずにいられず、今この「****」を書いている。仮に元の日記が100ページありその解説に半分の50ページが必要だったとする。でもその説明を書いたせいで説明についての説明がさらに半分の25ページ必要になり、そのせいでまたさらなる説明が12ページ半だけ必要で・・・ということを繰り返すと、これは有名な「アキレスと亀」の話になるのかな。「アキレスは亀に永遠に追いつけない。なぜならアキレスが亀に追いついた瞬間、亀はどんなにのろくても少しだけは前に出ているから」というやつだ。始めに書いた内容を後から書いた内容で決着させようとしても、それは永遠にできないんだよとでも言おうか。高橋源一郎が「ある小説を批評しようとしたら、その小説を全文引用しないと本当はできない」とか言っていたことも思い出す。ただし、想定ではページを半分づつ加えればいいのだから、無限大になるのではなく実は最初の倍の200ページですむ計算らしい。じゃこの繰り返しはいつかは終われるんだと安心していると、いや「それでもこの行為は不可能だ」という説があって、その理由は「人には永遠に書き続ける時間などないから」ではなく「無限に繰り返すという、この無限なんていうことが現実には存在しないからだ」というような話が、集合論だの無限論だのという数学のような哲学のような本を読んでいると出てくる。ていうか、ずっと半分にすることを繰り返すと、いずれ、はい次は2行の半分で1行ね、で次は1行の半分だからえーと20文字か、だったらその次は10文字で・・・といったあたりでもう文章にならない、という気がするのだけれど。じゃ想定を変えて、100ページの事柄を説明するのに別に同じく100ページが必要で、さらにその説明にも100ページ、ということになったら(文章を書く場合はそっちの方がありえそうだ)? この時は計算上は無限大になるだろう。しかし我々の知っている言葉や言い回しは、たくさんあるとは言っても無限ということはあり得ないから、どこかの時点で「あれこういうこと前にも一度書いたな」ということになろう。後は結局いろんな言い回しの組み合わせの違いだけが続き、その組み合わせも遂には尽きる時が来て、あとは全く同じ文章が出現せざるを得ない。んだろうかね。しかし文章というのは不思議なもので、「悲しい」と「かなり悲しい」が違うことであるように、「悲しい」と「悲しい、悲しい」では違う。「悲しい、悲しい、悲しい」も違うだろう。また、ある文章を読んでいて初めて「悲しい」が出たらはっとして、二度目に「悲しい」が出たらまたかと思い、三度目にはもういいよと思い、でも四度目に「悲しい」が出たら妙に感動したなんてことがあるかもしれない。そう考えると、永遠・無限の文章というのも無価値ではないかもしれない。
さてこの日、日本語のニュースを初めて聞く。NHKのラジオジャパン。世界各国に刻々電波を送っている。ソニー製短波付き携帯ラジオが頼もしい。ニュースはトルコの大地震の被害を伝えている。それと円高が進んで111円。う〜む。日本円を両替して使う中国では大変ラッキーだが、中央アジアのために118円も出して買ってきたドルはどうなる。
それと夜遅く宿の中庭に出ていたら、若者グループがそばにきてたまった。聞くとキルギスから働きに来ているとの返事。なんとキルギスの人に、訪問する前に会ってしまった。といっても彼らは完全にロシア系だが。
それとこの日、午前中に洗濯をした。説明すると長いので、やめる。
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