追想 '99夏

旅先でことさら
思い当たらなく
てもいいことに
思い当たる旅先
















8.17第6日上海→火車
超級市場

7時頃起きた。きょうも上海は曇っている。おおたか静流を聴いた。この旅のために買ったMDウォークマン。「花」「ゴンドラの唄」「悲しくてやりきれない」などを聴いていたら、胸が熱くなった。旅をしていると「生きていることが空しい」ということをさほど意識せずにすむのは何故だろう。世紀末の日本で、たとえば<いつの日かいつの日か花を咲かそうよ>とか、<悲しくてやりきれない>だとか、<命短し、恋せよ乙女>(「ゴンドラの唄」より)といった(それは珠玉のような言葉だけど)思いに駆られるような心境や情景に出会うことや、出会う余裕はあまりない。しかし、それはつまり、旅先の上海のホテルでたとえばおおたか静流を聴いて物思うことは月並みだが、東京の通勤電車内でたとえば宇多田ヒカルを聴きながら物思うことの方が、ずっと難しいつまり高度に哲学的なことなのだ、とも言える。

川(正確には黄江浦という)向こうにある都市開発地区へ行った。外灘から見えている高層ビルのほとんどは建設がまだ終わっていないことを知る。

学生参考書の専門店が二軒並んでいた。中国の「夏休みの友」とでもいうべきものがあったので、珍しくて買った。

西安行きの火車(中国では鉄道列車のことを火車=フォーチャ=と書く)に乗る前に食べ物を買いに行った。長時間の旅だから食料を持ち込む必要があるのだ。食堂車もあるが値段が高く開いている時間も限られている。中国には「超級市場」「超市」と名の付いた店があり、文字通り日本で言うスーパーマーケットに近い。通常の店と違ってきれいで明るく外国産を含めた高品質の製品がそろっている。ホテルのそばにあるその超級市場でプリングルズにマクビティビスケット、カップ麺などを調達した。中国製のスナック菓子はどれも安くつい手が伸びるが、食べてみるとこれが見事にまずい。まれに口に合うものもあってそういう時は一日楽しくなるほどなので、試してみる価値がないとは言えないが、大抵は失敗する。そんなわけで列車に持ち込む時は高額を惜しまず外国産の安全パイを選ぶようにしている。

中国を旅した人で列車にまつわるエピソードを語らない人はいないだろう。苦闘の末ようやく手にした乗車券を握りしめ、猛烈に混雑する駅の待合室からホームそして自分の席にたどり着くまでの行程を踏破するした後、今度は列車内で中国人の乗客そして服務員(車掌さん)との著しくカルチャーショックな遭遇が待っている。その濃さは寝台車よりも普通の座席(硬座という)の方がヒトシオである。

でもこういった話は、やはり同じ体験をした人には面白かろうが、そうでない人にはどうなんだろう。そんなことを言ってると、そもそも書くことがなくなっていくし、何か伝える自信や前提もなくなってしまうのだけれど。

8.18第7日火車→西安
日本人がみんなしてしまうこと

中国の人は列車内で初めて会った相手ともかまわずどんどん話をするように見える。日本ならたとえば新幹線で隣り合ってもそんなに話が弾むだろうか。私の乗った硬臥(二等寝台車)というのは、3段づつのベッド席がカーテンもなく至近距離で隣合い、日中は上のベッドの人が下のベッドに腰をかけているのが普通だから、これで一泊も二泊もするとなると口をきかないわけにはいかないのかもしれないが。それにしても朝から晩まで大変やかましい。もちろん彼らは外国人にも興味津々で、我々が窓から異国の景色を眺めつつ一人静かに旅情に浸りたかったとしても、それは許されない。こちらが覚えたての中国語など不用意に使ってみたりメモに漢字を書いて筆談でも始めようものなら、もう大変。完全に彼らのペースである。

そんなわけで列車の中はさながら日中国際交流センターだった。同行の日本人とそばに座った中国人。皆でワイワイやりながら一泊二日をすごし、あっという間に西安に着いた。北京の大学で土木を専攻している男子大学生のY君は、上海の会社で実習がありそのまま夏休みで郷里の蘭州に帰るところだった。中国人には珍しく落ち着いて控えめ。はみかみすらある品の良い若者だった。蘭州に来たら連絡を下さいと言ってくれた。電化製品のセールスに中国各地を回っている男性もいた。物知りで話好き。中国語しか話さないのに身振りと表情でなぜか意図を伝えてしまう面白い人だった。ハルピンに留学するというドイツの女性Pさんも輪に加わった。彼女は中国語が上手だ。ビールを無理矢理飲め飲めと勧めてくれた髭の男性。聞いてみると彼は画家で自分の画集など見せてくれた。アダムとイブをイメージさせるリンゴを好んで描いている。「迷朔的方舟」というのがよかった。それと16才の賢そうな高校生もいた。彼とは戦争責任の話になった。日本人は良い人々だし日本へも行きたいと言うが、同時に日本政府についてははっきり非難した。「日本は南京などでたくさんの中国人を殺したのに、それを認識もしないし謝罪もしない」と。面と向かって言われるとそうだうなずくしかない。面と向かって言われなくてもそうだとうなずくしかないのかもしれないし。アクノレッジ=認識、アポロジャイス=謝罪と、中国語で書いてもらって確かめた。このことについては、自分なりのやっぱりもう一度考えてみよう(とノートに書いてある)。このほか食べてばっかりいる小さな女の子とお母さんもいた。一人っ子政策のためと思われるが、中国では子供はそれは大事に扱われ着ているものも大人に比べれば断然華やかだ。西安に着いた時、Yくんたちはホームまで降りて我々を見送ってくれた。感激した。

ところで帰国後の話に飛ぶが、英文法に関する本を読んで驚くことがあった。「I am an American.(私はアメリカ人だ)」や「I am an Englishman.(私はイギリス人だ)」という表現はあるが、「私は日本人だ」の場合「I am Japanese.」であって「I am a Japanese.」とはならないというのだ。つまりアメリカ人やイギリス人なら各自が独立した人格を持つが、日本人など誰であってもJapaneseという単なる属性(形容詞)を一様に持つだけという感覚だろうか。母語が英語の者が聞くと「I am a Japanese.」では変な感じがするらしい。複数形も「Americans」はあるが「Japaneses」はない。多彩な日本人が集まっていたとしても、あいつらまとめて「Japanese」なのである。

この話と関係あるかもしれないこと。今ここで旅日記をまとめながら「中国人」という表現をなるべく避けようとしてしまう自分がいる(結局使っているのだけれど)。それは、中国に住む人を十把一からげにしてこちらの持つイメージに塗り固めている、というムードを私の文章から伝わらないようにしたいからだ。中国の人たちの近頃の生活様式や対人態度は日米欧の一員たる私から見て文明的・社会的に洗練の度合いが足りない場合が多い。そのせいで中国の人を皆単なる「中国人」という一種の属性だけに固定化してしまうというか、早い話が「中国人」と言う表現には蔑んだニュアンスが混じるのである。その蔑みを避けたいと思うのである。なぜなら私は時々中国の人を蔑むからであろう。これは、たとえば新宿かどこかで「あ、ベトナムがいるぞ」とか「なんだお前フィリピンか」といった言い方を誰かがしていたら少なくとも私はとても不快である(私がベトナム人であるかフィリピン人であるかどうかは別にして)、そういうこととも少し関係があるかと思うが、細かい分析をしていると旅行記が進まないので、やめる。旅をしていると、今の自分の行為や思考が「こりゃ差別的かな」と感じることがあるが、そこで立ち止まると旅が進まないので、その都度中断して、帰ってからじっくり考えようと思うが、帰ってもやっぱり同じだね。旅行者なんて流れ者、旅行記なんて流れ文なのです。読み飛ばしてください。

駅前広場に出るともう暗かった。タクシー運転手が群がってきた。毎度のことだが、初めての街で重い荷物を背負っている身にはそれだけで滅入ってしまう。西安人民大廈公宮という名のホテルにバスで行こうと決めていたが、駅前の果物屋のおばさんにバス停を尋ねると「この時間はもうバスがない」との返事。ガイドブックの情報と違うから、これはタクシー運転手とつるんでいるに違いないと思い、無視して行こうとしたら、このおばさん「日本人はみんな私がそう言っても信じないでわざわざバス停まで見に行くけれど、ホントにないよ」と呆れていた。それで気が変わってタクシーにした。どうも日本人がみんなしてしまうことを、私もしてしまうね。それがあまり嬉しく思わないのは何故だ。この場合の日本人とはJapaneseであるのか、Japanesesであるのか。ちなみにバスは8時以降は本当になくなるのであった。

*話がつい硬くなる。

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Junky
1999.11.5

著作・Junky@迷宮旅行社=http://hot.netizen.or.jp/~junky
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