追想 '99夏

旅先でことさら
思い当たらなく
てもいいことに
思い当たる旅先

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9.26第46日タシュケント→サマルカンド
オートパイロット方式、ホテル入り

このところ毎日のように移動だ。それも全部バスで長距離。きょうはサマルカンドに向かう。日記も向かう。はずだ。が、あまり気が向かない。仕事もしないといけないし。

そうそう、きのうの日記で書き忘れていたことがあった。タシュケントの広場には馬に乗った勇ましいチムールの銅像があったけれど、もうひとつアリシェール・ナヴォイという人物の銅像も別のところで見たのだ。彼は「ウズベク文学の父」と呼ばれている。なぜかというと、初めて自分たちウズベク人の言葉で詩を綴ったのがナヴォイさんだったらしい。え?じゃそれまではどこの言葉を使っていたんだ?というと、この時代、中央アジアでは「文学といったらペルシャ語に決まってるだろ!」だったようだ。

6世紀に全盛を迎えたといふ古代ペルシャ帝国の威光はすごいもので、そこで生まれた唐草模様がシルクロードを伝わり、はるか正倉院の文物にまで影響を与えた、という歴史は習いましたか。

しかし、ナヴォイさんは15世紀後半の詩人。そして、この頃も現在もウズベキスタンやカザフスタンに住んでいるのはトルコ系が主だ。西アジアから中央アジアにまたがるイスラム世界は、当時はもう、オスマン帝国をはじめとしたトルコ系が仕切っていたはずだが、洗練された文化というとやっぱり「いにしえのペルシャ風」だったりしたのだろうか。ウズベキスタンで古いイスラム寺院を見に行っても「ペルシャ風の建築」という解説はよく見る。

まあ、このあたりの話は、日本でも昔は堅い文書や芸術的な文書は中国語が主流で、明治になってもインテリは漢詩を好み、平成になっても漢文の授業をインテリじゃなくても受けるのと、似ているかもしれませんな。

そういう状況で、あえてウズベク語の詩を書くというのは、そうとうな冒険であり、すこぶる新鮮だっただろう。ナヴォイさん、やや不安げに、「えっと、うちらの〜使ってる〜この言葉で〜詩なんて〜書いてみたんだけどお〜、どないだ?」

ま、べつに口語で書いたわけじゃなかったのでしょうが。しかし、当然のことながら、このことは、明治の言文一致を、構造上、思い出させますね。ただし、私はこの時、まだ二葉亭四迷「浮雲」を読んでいない。

ちなみに、ウズベク語を含めたトルコ系の言語は、日本語と同じく「私は+米を+食べる」の語順だが、ペルシャ語は、英語や中国語と同じく「I+eat+bread」の語順、だったんじゃなかったかな(だいぶ曖昧)??。仮にそうだとしたら、日本語と中国語が全然違うように、ウズベク語とペルシャ語も全然違っていたのだ。ただし、私はこの時、まだウズベク語を学んでいない。そして、今も、学んでいない。

うんちくくさく書いているものの、私などいまだに、イスラム世界というときのイメージは漠然としていて、アラブのイメージ、ペルシャのイメージ、中東とか中近東とか、オリエントとか、イランも、イラクも、トルコも、ひょっとしたら、ここ中央アジアのウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンも、スタンというならアフガニスタン、パキスタン、とどこまでいっても、なんだか、まるで一緒くたべったりの色で塗りつぶされたイメージ帝国の広大な領土としてしか認識できない。つまりどの言葉を聞いても年中同じニューロンの発火ですませているような。「ジャッキーチェンはニッポンか?」くらい、まだかわいいもんだ。旅をすればこういう認識が分化してくるかというと、あまりそんなこともない。ガイドブックは歴史をしっかり書け。いやけっこう書いてあるか。じゃつまりしっかり読め。

閑話休題。

午前中から、荷物を背負って宿を出て、まず公営のバスターミナルに向かった。地下鉄とトラムを乗り継いだ。ちょっと旅をする人のための情報として書いておくと、バスには公営バスと民営バスがある。タシュケントから出る公営バスに乗る場合は、切符を買う前にオヴィールと呼ばれる事務所で手続きをしなければいけない、とガイドブックにある。私はそれに従って、ターミナルの2階にあったオヴィールの部屋に入り、どうしてこんなにのろいのか、と歌でもくちずさみたくなるような仕事ぶりの係官に370ソムも払って紙切れをもらい、それから、1階のチケット売場に行ったところが、「サマルカンド行きのバスは夕方5時までありません」との返事。日曜日だからかなんだかわからないが、とにかく、ないものはない。仕方なく、紙切れをオヴィールのおじさんに返してはみたが、おじさんは370ソムを返してくれない。まあ、予想通りだったけど。

仕方なく、民営のバスターミナルへ向かう。これが意外に分かりにくく、このヘンだと見当を付けたあたりには巨大なバザールが広がるばかり。しかも日曜とあったものすごい人出。その先までずっと歩いて、ようやくバスがたくさん停まっている広場に出た。サマルカンド行きのバスは、いわゆるマイクロバス。かたどおりちょっと値切って900ソムで話を付けた。公営だともっと安かったはずだ。出発したのは14時になっていた。

しかし、このバスが実に快適。すいすい走る。乗っていて全然疲れない。公営だと、いつものぼろくてひどい乗り心地のでかいバスだったのだろうか。左右の窓からの景色も大型バスとは違って見やすかったような気がする。ちょうど綿花畑が広がっていて、白い綿を収穫していた。このバスで夏目漱石の「明暗」を読み始めたが、道路状況も良く、けっこう集中できた。ただし、隣に座ったおじさんが、何度も不思議そうな顔でその文庫本と私をのぞき込み、ついには本を取り上げて、この文章らしきものは、こうやって横にして読むのか、と真顔で聞いてきて、おかしかった。

サマルカンドには予想よりだいぶ早く18時過ぎには着いてしまった、と記録にある。もっとずっと乗っていても疲れないと思ったほどだ。バスの運転者も料金集め係(みんな25ソムとか50ソムとかの紙幣で900ソムも払うから数えるのがエライたいへんそうだった)も、乗客の人たちもみんな、我々にとても親切で、バスに乗っているうちから、どこに行くんだと聞くので、ザラフシャンというホテルだと答えると、ザラフシャンか、それなら、あれで行って、こう行って、いや着いてきなさい、と導かれるまま、バスを降りたところからワゴン車の路線タクシーに乗せられたかと思うと、ホテルまで一直線。このザラフシャンホテルがまたナイスなホテルで、フロントにはにこやかに英語を話す女性。一部屋5500ソムのツインは、いっそうナイス。冷蔵庫まで付いている。部屋に入るやいなや両替のお兄さんがさっと入ってきて、ドルを530ソムのレートでこれまたすぐに替えてくれて、風のように立ち去った(といってもホテルのロビーにずっといるのだが)。新しい町について、これほどスムーズに宿に落ち着くことができたのは、初めてだ。

というわけで、日記も案外快適に自動的にサマルカンドまで進んだ。よかったよかった。しかし仕事の方はさっぱり進まなかった。

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Junky
2000.2.7

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