追想 '99夏

旅先でことさら
思い当たらなく
てもいいことに
思い当たる旅先

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9.24第44日ビシュケク→夜行バス
風が吹けば旅に迷う

朝起きたら雨。傘をさして市内を歩く。小さめの折り畳み傘をリュックに押し込んで持って来ているのだ。乾燥地帯の旅行であり、出番は滅多になかったが、たまの雨降りにはやっぱり重宝した。しっとりしたビシュケクもまたよし。人群れも、塗れた路面を走る車も、街路樹も静か。こっちのビシュケクの方を覚えておこう。

中央アジアの各都市には、ツムとかグムといった、旧ソ連圏でおなじみの国営百貨店がまだある。途上国ゆえか、あるいは役所が商売したりするとこれほどしみったれてしまうのか!の好例であるのか、とにかく気のきいたものは何もない。やけに重厚な建物の中は店員以外は品物も客もまばらで薄暗く、喧騒・熱気の自由市場(バザール)と好対照だ。でも三越も高島屋も西武もないのだから、「デパートでお買い物」といえばここらの人たちにはツム、グムなんだろうか。退屈した旅行者も一度は遊びに行き、やはり退屈して帰ってくる。我々の住んでいるニッポンが、物品の王国・流通の王国であることを思い知る日である。

でも、ここビシュケクのツム百貨店は、意外に良い物があった。有名らしいフェルト製品、あるいは陶器や絨毯。木製のテーブルも欲しくなった。日本で買うよりはるかに安い。ただ、残念ながらこれからバスでウズベキスタンを回るのだから、かさばるものを持って歩くのは面倒だ。だから「お土産は最後の訪問国で」という原則に従って、結局何も買わなかった。まあテーブルなど買ってもどうしようもないのだが。フェルト製品の中には、キルギスの大統領の顔がどどーんとあしらわれた壁掛けのようなものがあった。民主的と評判のキルギス大統領の風貌は、ニュースで見た方がいるかもしれないが、横山ノック元大阪知事にちょっと似ていると思った。しかし、この時はまだノック知事の辞職に至る運命など知るよしもない。早や記憶のうすれた日本人技師拉致事件はまだ解決すらしていない。ああ、時の流れは早い。旅した日と書く日のカンカクが、大きくなっていくばかりだ。いいかげんに先に進んで、この旅を終わらせねば。

で、ここキルギスの首都ビシュケクには、もう一日くらいは滞在したかった。しかし、結局この日の夜行バスで移動することに決めた。行き先は、最終目的国ウズベキスタンの首都タシュケント。

なぜそう急ぐのか。それは「きょうビシュケクを出なければ逮捕される」からだ。いや、それでは誤解を招く。「風が吹けば桶屋が儲かる」というのがあるが、あれに近い。

・きょうビシュケクを出ない。
・そうすると、あしたビシュケクを出る。
・そうすると、あしたは土曜日で、夜のバスだから、タシュケントには日曜日に着く。
・そうすると、日曜日は旅行会社が休みだろうから、航空券などは買いにくい。だからといって、タシュケントにもたもたしていたくないので、日本へ帰国する航空券の手配をせぬまま、サマルカンド、ブハラ、ヒバと移動していかなくてはならない。
・そうすると、再びタシュケントに戻ってから航空券を手配せねばならない。
・そうすると、すぐ乗る飛行機は、なかなか取れない。しかし、ビザの有効期限切れは迫ってくる。そして、ついに、帰国の飛行機に乗れないまま、ウズベキスタンのビザが切れる。
・そうすると、ウズベキスタンの警察に逮捕される。

そして向かったビシュケクの西バスターミナル。これで3度目だ。そしたらまたもやポリが近づいてくる。イクスキューズミー。パスポートプリーズ。これも3度目だ。こいつら私服のくせに。しかも3人つるんできた。しかしもう怖れない。むしろ出方を楽しんでやれという気だ。「ポリスオフィス」という横柄な呟き声を「え?は?ん?」とシカトしてベンチに座ったままでいると、別のツーリストがそばにきたので、3人とも標的を変えて、さっとそちらへ飛んでいった。「ポリスオフィス」。なんかそのツーリストはそのまま連れていかれたみたいだったけど。

ビシュケクからタシュケントへのバスは、雨がカーテンやシートにしみた、悲しく辛いものだった。あまり降らない雨が降ったときの防備がしっかりしていないのか。バスは午後5時に出て、やがて夜を迎えたが、車内の電灯はほとんど消されたまま。寒さと、狭さと、さらには、私の前後にいたおばさんの体と衣服が放つらしい強烈な臭いに悩まされながらの旅。ついでに、チョルポンアタの湖でボートを漕いで剥けた尻と腰の間の皮まで痛む。のどもこのところ悪化に向かっていた。とにかく、ここまでで最も辛い移動だった。バスは一人185キルギスソム。

9.25第45日夜行バス→タシュケント
ウズベク、ウズベク

バスはたぶんキルギスからカザフスタン領内を通ってウズベキスタンに向かっている。何度かは街に止まり、何度かは理由がわからず止まる。ひどい乗り心地の中で、それでも少し眠れたのが不思議だ。

未明にウズベキスタン国境に到着。やはりここでバスから降りなければならないようだ。「ウズベキスタンに入るバスは、この年のテロ事件の影響で、すべて国境でストップする。あとは各自がタクシーを使ってタシュケントまでいくしかない」との情報を得ていたが、どうやらその通りらしい。

しかし外はまだ真っ暗。目の前が国境ゲートだが、入国審査を誰にどういう手順で受ければいいのかわからない。下手に動いて間違えちゃいけない。不安ばかりが広がる。ちゃんと難癖付けられず入国できるのか。タクシーはちゃんと連れてってくれるのか。相場はいくらなのか。両替はどうしたらいいのか。そのあたりのことが、ほとんどわからない。しかし、とてもラッキーなことに、助けてくれる人がいた。キルギスの大学に留学していて、今回タシュケントに里帰りするんだという青年が、たどたどしい英語で我々を導いてくれたのだ。彼はこの時なぜか親戚のおばさんら3人も連れていて、大奮闘。軽ワゴンのタクシーを拾い、少々狭いが、みんなで乗り込んだ。

それでも国境ゲートにおける一連の執拗なチェック。私の荷物はなぜか2度も開けさせられた。パスポートは何度見せたかわからない。一度はオフィスまで行った。まあ、しかし問題はなし。ワイロなど出すつもりもないが、そういう状況にもならなかった。

そこからタシュケント市内は意外に近かった。ところが最後になってタクシーの運転手と青年が料金のことでもめだした。青年は私に「どうしよう」と相談してくる。もしや日本人が一緒だからと多めに要求してきたのかという気がする一方で、この運転手は入国審査でそばにいてくれたりして気心も通った感じがしていたから、そういうことではなく、深夜で国境通過という苦労があったのでそれが適正価格なんだろうとも思う。こういう場合、青年とタクシー運転手がグルになって、ということも疑ってみる必要があるのかもしれないが、青年は真っ正直に見えるし、あの状況ではどうみても親切で声をかけてくれたとしか思えないし、現に今本当に困っているらしく見える。てなことで、ドルでそれなりに払って、その場を凌いだ。いくらだったかは記録がない。でもさほど高くなかったはず。まあ、こんな話、もういいや。

さてタクシーでやってきたのは、ハドラというガイドブックにある安宿。門番が眠そうな顔で鍵を開けてくれた。キルギスより1時間遅いので、まだ6時くらいだったと思う。ツインが一人1350ウズベクスム。朝日の出かかった時間だが、バタリとベッドに倒れ込むようにして、寝た。

昼、起き出す。タシュケントの第一食は、宿の近くにあったベーカリーで、ナンとピロシキ、それに菓子パン。いける。それと丁寧にいれたコーヒーが、また、うまかった。それにパン、安すぎ。

さてここでウズベキスタンの両替について説明しておく。ウズベキスタンでは、1ドル=135ソムの正規レートがあるが、市中では1ドル=500ソム以上という破格レートで闇両替が行われている。だから大抵のバックパッカーは、少々の面倒と極小の(あるいは皆無の)罪意識を押して闇両替をする。そのうえで、ドル払いとソム払いの両方ができる代金は、必ずソム払いにする。たとえばある航空券が仮に100ドルだとする。ドル払いにすればもちろんそのまま100ドルだ。ところがソム払いだと、正規レート135ソム×100ドル=13500ソムを支払うわけだが、このソムを闇両替で調達しているから、実質的には13500÷500=27.5ドル分でよいことになる。なお、旅行者が合法的に銀行で両替をすると、正規レートでも闇レートでもない、1ドル=200ソム程度(ちょっと記憶があやふや)の「バンクレート」というもので両替してくれるようだ。こうなると、ますます正規レートって何なのということになる。まそんなわけで、ウズベキスタンは旅行者にとって闇両替が一般的な国のひとつである。ガイドブックでも闇といわず実勢レートと呼ぶこともある。

ウズベキスタンはカザフスタンやキルギスより物価が安いと言われており、私の実感としてもその通りで、乗り物や食べ物は中国以上に安いと思った。これは闇両替のレートで計算したからとも言えるが、それはウズベキスタン経済の実際であるとも言えるのだろう。

で、早速その闇両替を宿の人に頼んだ。1ドル=550ソムくらいと聞いていたが、20ドルだけだったせいか(100ドルくらい換えたほうが、レートは良い)、1ドル=510ソムにしかならず、計10200ソム。それでも、ほとんどが100ソム紙幣なので枚数がやたら多くなり、財布に入りきらない。たった20ドルでこれだ。成金気分。地元の人も事情は同じだから、ちょっとした買い物でも100ソム、50ソム、25ソム紙幣の札束を糸でしばって持ち歩いている。

この日はほかにもけっこう動いた。まずサイラムツーリズムという旅行会社へ。ご存じの方も多いと思うが、ウズベキスタンなど旧ソ連圏の国々のビザを大使館に申請するには、招待状という紙切れが必要だ。もはや形骸化した、しかし手間と金だけはしっかりかかる変なシステムであるが、とにかくその招待状を、通常は日本の旅行社もしくは現地の旅行社に頼んで手に入れないことには、ビザが出ない。

で、私は「地球の歩き方」に載っていたこのサイラムツーリズムというタシュケントの旅行会社に、ウズベキスタンの招待状を電子メールで頼み、ファックスしてもらったのである。その手数料が一人25ドル。支払い方法はいろいろあるようだが、私はウズベキスタンに着いてから支払うということにしていて、きょうはそれを真面目に支払いにいくのである。同時に、ウズベキスタンから帰国する飛行機についてもブッキングを頼もうと思ったのだ。土曜とあってオフィスには留守番が一人だけだったが、連絡を受けたヤングエグゼクティブといった風情で英語ペラペラの社長らしき男が、15分後に姿を現し、クールに応対してくれた。

次にインターネットがしたくて、「旅行人」のガイドブックに記載のあった2カ所を訪ねたが、土曜のせいか、どちらも閉まっていた。悲しい。期せずして、街歩きの時間となった。

夜は。ブロードウェイと呼ばれる賑やかな通りに出た。寒い日だったが、週末とあって華やいでいた。露店の食道も並んでいて、うまそうま煙をたてている。プロフ(けっこう油っこい焼きめし)とシャシリク(串焼きの肉)を食べる。というか、以前も書いたかもしれないが、中央アジアの外食はこればっかりなのだ。シャシリクは牛肉と羊肉を一本ずつ頼んだが、とうとう私は、牛と羊の味の違いがわからなくなった。プロフに入っていた肉も、羊のはずだが、牛だと言われればそうかと思ってしまうだろう。ちなみに、ぜいぜい400スムで腹が満たされた。首都のこんな大通りでこうだ。

この通りの道ばたには、アンティークを(半分ガラクタっぽいものも含めて)売る人たちがずらっと並んでいて、これまた (またまた同じ感想で恐縮だが)驚くほどの安さ。金属製の調味料立てセットなど買うが、さほど値切らずとも800ソムでオーケー。170円ほどか。それ、ケタがひとつ小さいだろう!てな感じ。

それにしてもタシュケントは、アルマティ、ビシュケクに増して都会であり、中心街はすっかりモスクワ=ヨーロッパ風であり、「中央アジア」という名の不思議さを思う。一方で、チムールという人物が、ブロードウェイの銅像となって目の前に現れて、ああ世界史の時間に覚えた記号だけではないのだ、こうして生きた表象となっている場所が今この世にあるのだ、と思う。それから、モスクワ生きうつしの地下鉄が良い。あの、時代を感じさせる薄暗い電灯の、重厚な地下ホームに、青いヘビーな車体が轟音を響かせて入ってくる。それでも、駅内のドームのレリーフはイスラム風。中に座る人々は、我々がきちんと輪郭を描けないこの国を、いやがうえにも象徴して、こういう人々を見たことも想像したこともない、ヨーロッパ人とも違い、アジア人とも違う、しかも、一様でない実に多様な顔、顔、顔。この地下鉄に私はまたひとつ迷宮を感じた。

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Junky
2000.2.3

http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html
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