追想 '99夏

旅先でことさら
思い当たらなく
てもいいことに
思い当たる旅先

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9.27第47日サマルカンド
ようやく提示された主題のごとく

青いモスクのサマルカンド。チムール帝国の栄華。シルクロードの交流。思えばここまで長かった。上海に上陸したのはいつのことだったか。こんなに遠くまで来て、ようやく、この旅行いちばんのハイライト。のはずなのに、なぜか日記には終わりかけの寂しさが漂っている。そろそろ帰国までの残り日数を数えたりする力も作用してくる。つまり、日記用のノートが残り少なくなってきているのだ。ここまできたからにはできれば2冊にまたがらないようにと、紙面をケチることにした。文字はぎっしり、要点だけを簡潔に、という風。東京に帰ってから書いてきたこの旅日記についても、もう早いとこ終わらせて、なにか次のこと(なにもないが)に目を向けなくちゃ、なんていう終わり感に襲われだしてもいる。

で、何が書いてあるかというと。

朝飯は近所で買ったサムサとピロシキ。やっぱりピロシキの方がうまい。---なんだこりゃ。紙面をケチってこれか。

レギスタン広場、ヒビハニムモスクを観光する。どれもイスラム建築の遺産である。豪華さに、壊れ具合に、それぞれ感動して。

チャイハナ、というのは木陰に台を置きそこに腰掛けてお茶をする店。そして人なつっこい人ばかりのバザール。どちらも人々の暮らしの一端がのぞける。女たちの衣装は、彩りと柄の鮮やかさを競っている。人だかりがあったので近づくと、男たちがビンゴゲームに似た賭事に熱中していた。子供たちは全員が全員ハローと声をかける。観光地だからだろう。そして、なぜかボールペンを欲しがる。でもあげない。一本しかない。

終わり。

クラシック音楽においては、第1楽章のテーマ提示展開完了といった骨太フルコースを味わうと身も心も消耗してしまうが、それに比して第2楽章の叙情には好きなように浸っていられて、楽だ。
旅もほんとうは第2楽章的に行きたい。しかしそれは第1楽章をちゃんと聴き通したうえで初めて言えることなんだろうか。 小説もそうなのかもしれない。人生もまた。

9.28第48日サマルカンド
ボールペンと捕虜の行方

ウルグベクの天文台跡。ウルグベクという人は、チムールの孫だったかな。でも軍人というより文人で、天文学に貢献した。自ら建てた天文台の跡が残っている。この時代イスラムの科学水準は中世暗黒のヨーロッパなど問題外に進んでいた。天文台はサマルカンドの街外れの丘の上にあった。街外れの丘の上。普遍的にいい場所のような気がする。下には道路と小さな雑貨屋が見えて、学校帰りの子供が買い食いみたいにして寄っていた。このあと、いにしえの貴人らを弔ったジャー・イ・ジンダ廟という墓所としての建築群を見に行った。

観光とは、旅を続けるための触媒のようなものかもしれない。観光それ自体は別にどうってことがないにしても、そこでふと見かけた光景に心が潤ったり、カメラを向けてみたり、あるいはたとえばこういうことをふと思いついたりといった反応が引き出される。そのことが貴重であり、そのことがまた、相変わらずの観光旅行を続ける糧にもなる。ま、きょう見に行った二カ所は、そもそも観光地としても良いところだったけれど。

バザールのソーセージコーナーにまた行く。ここの店番の子供が、私が日本から持参して行った黒赤ノック式ボールペンをくれくれとうるさいのが、面白くて。でかいサラミ1本とチーズ一かけらを、700スム(1ドルの闇レートは540スム程度)に、日本からここまで珍しく一度もなくさずメモ書きに多いに役だってきた馴染みのボールペンをつけて買った。シルクロードにおける現代的物々交換。代わりにウズベク製ボールペンを30スムで買う。

同じホテルにNさんというかなり年輩の日本の旅行者の方がいた。昨日今日と、夜そのNさんの部屋で話をした。Nさんは戦争に行った人で、旧満州で兵隊でいた時に敗戦を迎え、ソ連軍の捕虜になった。その行き先が、なんと中央アジア。最初はファルガナ(ウズベキスタンにある)、のちにアルマティ(カザフスタンの最大都市)に連れていかれ、合わせて3年半を過ごしたという。ソ連軍の捕虜というと、すぐ「過酷なシベリア抑留」という印象を私などは持つが、Nさんの日々に苦労はなかったという。ロシア人とも仲が良く、黒パンやボルシチをちゃんと食べていたらしい。だから中央アジアはむしろ懐かしの場所であり、そこをおよそ50年ぶりに訪ねる旅を、去年に続いて今年も決行したということだった。タシュケントの工場で捕虜として働いたこともあったとかで、今回はその跡地を訪ねたりもしたという。もう75にもなっておられるが、実に若々しい。今回は全くの独り旅で、しかも折り畳み自転車で街を好きなように歩いている。捕虜生活のおかげでロシア語が大丈夫で旅行はしやすいというが。

中央アジアと、ニッポンが、まさにこうした歴史の荒波にもまれて繋がっているということが、趣深い。青年の日に捕虜で過ごした異郷のまた異郷を、50年の時をへだてて懐かしさのあまり訪ねてくる人の存在というのも、また感慨深いものである。

9.29第49日サマルカンド
ザラフシャン籠もりがち

朝起きると雨。一日中寒くぐずついた。午前中にNさんを見送ったあと、ホテルザラフシャンに籠もりがち。遺跡の多い旧市街でなく、ロシアっぽい新市街の方をむしろちょっと見て歩いた。

夏目漱石の「明暗」を読んだり、2階ロビーにある古ぼけたピアノで「悲しくてやりきれない」のメロディーを鳴らして(みようとして)みたり。

インターネットがしたくて、電話局、郵便局、情報センターというガイドに載っていた場所を回ったが、はたせず。

9.30第50日サマルカンド
焼き肉といえば

サマルカンド最終日....と思えないような落ち着いた一日。グリ・アミール廟。チムール一族の、モスク風で美しい墓。歴史博物館。7世紀の壁画とやらは、悲しいかな停電のためにほとんど見えない。その脇から丘に登る。チンギスハンに破壊された古代サマルカンドがあったという場所(チムールはやや離れた位置にサマルカンドを再興した)だ。眺めは良いが、ほとんど茫漠とした荒れ地。かえって時代の流れ破壊のすごさの証ともいえるのか。なぜか黒い犬がずんずん歩く私の前を、ずんずん歩いて道案内をしてくれる。

町中で子供たちの写真をいく度か撮る。というか呼び止められ撮らされる。おまけに人数分の枚数を日本から送れと住所をメモされる。

夜シャシリクを食べた。1本200ソムというので、他の店に比べてずいぶん高いじゃないかと思っていたら、実際テーブルに出てきたのを見ると、通常とは全く違う余りの巨大さにびっくり。サーベルのような串に、ゴルフボールくらいの肉がぼんぼんぼんとついている。これを一人3本。死ぬほどうまく、死ぬほど満腹になった。これに野菜、ナン、お茶、キムチ風の小皿までついて、二人で1500ソムとは、どうなってるんだ、この安さ。ふと昔友人宅の屋上で炭火焼き肉パーティーを開いた日々を思いだし、その勢いでその友人に意味もなく絵はがきを書いてしまった。

ラジオを聞くと、東海村で放射能漏れの重大事故があったようだ。きのうはきのうで、下関の駅に暴走車&ナイフ切りつけという恐怖の事件があったようだし。キルギスの日本人拉致、インドネシア暴動、トルコと台湾の地震、モスクワのアパート爆破テロ。この旅行中、大きな事件ばかりだ。

あしたは、ウズベキスタンのさらに奥、ブハラという所に向かう。というのに、サイラムツーリズム(飛行機の手配を頼んだ旅行社)に電話したら、帰国便のチケットは確保できていないらしい。気がかりなことである。

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Junky
2000.3.1

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