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高橋源一郎『日本文学盛衰史』
読書しつつ感想しつつ(4)
 普請中
-----ネタバレあり。注意。

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若い詩人たちの肖像


「塵溜(はきだめ)」という詩。なかなか生産的、じゃなくて凄惨的だなあ。
それにしてもまたこんな悪ノリの詩を捏造しやがって!>高源
待てよ、これは実の詩か?
啄木デフォルメ加速化にあてられて、
そのへん区別がつかなくなってきた。
・・・・だいたい、実の詩/虚の詩って何だ?

『新修国語総覧』で「近代詩人の系譜」を見ると、
明治末期、「象徴詩」のやや斜め下に「口語自由詩」があり、
しっかり川路柳虹「塵溜」とある。おまけに川路柳虹は太文字だ。
そこから点線が斜め下に出て、その先には萩原朔太郎(太字)がいる。

しかし、夏目漱石や森鴎外はもちろんのこと、
石川啄木、二葉亭四迷、萩原朔太郎は一発変換だが、
かわじりゅうこう、なんて・・・・・あれ?一発変換だ。驚き。
文学史はATOKに聞け。

その川路柳虹が初めての口語詩を書いた。
「やられた、やられた」
周囲の若い詩人の、嫉妬、羨望、失望の入り交じった奇怪な感情とは、
今で言えば、そう
中原昌也が三島賞を取ってしまった時の、
エッジなクリエーターたちの狼狽に似ているのだろうか。

小説では二葉亭四迷が導入した言文一致が定着しはじめた。
詩もまた空疎な文語詩ではなく、
言文一致つまり口語で書かれなければならない。
その最初の口語詩を成功させたのが「塵溜」であった。

しかし、「塵溜」が火をつけた、
文語詩から口語自由詩への雪崩を打った転回は、
章末でこう結ばれている。

詩人たちは自ら進んで「塵溜」の中に落ちていったのである。

この章では、
詩に対するアイロニカルな態度が、時代を超越して表明されている。
これは、現代詩を自分のこととして感じていたとおぼしき時期が、
高橋源一郎にあったことと、大いに関係するだろう。
現代詩を批評しつつ、詩ではなく小説を書くことによって、
なにごとかをなさんとした高橋源一郎と大いに関係するだろう。

さて、文語詩にはできないことが、口語詩なら本当にできたのか。
そもそも、詩の可能性と限界とは?

「若菜集」を出した島崎藤村は、
若い詩人たちの期待に反して、詩を捨ててしまう。

はじめのうち、藤村もまた「言文一致による詩」あるいは「写実的な散文詩」を書くつもりであった。だが、その過程で、藤村は日本語は「言文一致による詩」や「写実的な散文詩」には向かないのではないかと思うようになった。日本語には、詩に真実を(二葉亭四迷なら「実相を」といったであろうか)描き出せる力がないのではないか。それは明治前半最大の天才詩人であり藤村の盟友でもあった北村透谷をついに狂死せしめた疑問でもあった。

藤村(という登場人物)によれば、
人から見て面白くない詩を自己満足で書くくらいなら、
もうやめようということらしい。
蒲原有明なんて、「ちょべりば」の一言で片づけられてしまう。

「お言葉ですが、先生の例の『小諸なる・・・・』なんか大ヒットしたじゃないですか。小室哲哉の曲と同じくらいに人口に膾炙したんでしょ」
「中身もいい勝負だけど。というか、小室哲哉の詞と質が変わらないからあんなにヒットしたといえるんじゃないかな。もう少しマシなことを書こうとすると難しくなる、面白くなくなくなる。予言しよう。あと百年もしないうちに詩を読むやつなんかいなくなるって」

「書くべきテーマの大きさと
 武器たるべき言葉の貧しさの落差に戦いていた」と
この章で書かれている北村透谷の、狂死もまた壮絶だ。

明治二十七年五月十五日深夜、月の美しい晩であった。透谷は自宅の庭の木で縊死しているところを発見された。透谷は顔に青いペンキを塗りたくり、耳にはヘッドフォンをつけていた。透谷の遺体を見つけた美那子はひったくるようにヘッドフォンを外した。ヘッドフォンからはドアーズの「ハートに火をつけて」が流れていた。

ヘッドフォンから流れた曲がロックなら、
透谷は、いや藤村もそのほかの若い詩人たちもみな、
60年末以降に登場したロックミュージシャンの群像そのものだ。
ドアーズの詩人ジム・モリスンがほぼ同年齢で変死したことは、
ここで思い浮かべるべき事項として、読者に期待されるのだろう。

顔に青いペンキを塗る。これは、
ゴダールの「気狂いピエロ」のラストシーンだろう。
前章、啄木の腰くだけ電車飛び込み場面でも、
この映画との関連に触れていた。

気づくのはこんなことばかり。しかし本当は
「春」など島崎藤村の作品をちゃんと読んでいれば、
それを匂わせる場面に気づけるらしい。(2ちゃんねる情報)
そりゃそうだ。
この本『日本文学盛衰史』なのだから。

『新修国語総覧』で、藤村は2ページ見開きだ。
代表作はなんといっても『破戒』(一発変換)。
日本自然主義文学の成立を告げる作品、
自費で世に問うた小説、
とある。

4人の妻と別れるのもいとわず、ではなく、
3人の娘を栄養失調で亡くすのもいとわず書ききった
『破戒』こそ、詩に対して永久に埋め込まれた地雷だった。

藤村は、詩の世界に起こした自分の遺産を抹殺するための武器を、自らの手で与えようとしてのである。

さて、
『破戒』が、自然主義文学の成立を告げたまさにその時、
反自然主義という全く逆のタイプの小説『坊っちゃん』が、
また誕生しつつあった。
高橋源一郎は、ここで、
両者はともに明治文学の頂点の一つであるといい、そして、
表面上の違いにもかかわらず『破戒』と『坊っちゃん』は
ひどく似通っていた、と書いている。

このあたり、この小説の本筋だろうか。どう展開していくのだろうか。
先が楽しみだ。

*引用の表示のしかたを今回からちょっと変えました。


Junky
2001.6.7


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