「ローマ字日記」の文学史的価値について、
小田切秀雄の一文が最初に示される。
この評価は素直に受け止めていいのだろう。
そして、さあ今度こそ、
啄木のその「痛切な実験」の中身に浸れるのか。
というと、すぐさま
アダルトビデオ屋の親父がやってきてしまうんだな、これが。
かくしてローマ字日記は、
現代性風俗に、繰り返し繰り返し、誘惑され陵辱されていく。
◆
何かしなくちゃならない。
でも何をしたらいいんだ。何も手につかない。
啄木が、「あらん限りの馬鹿な真似」をしつつも、
何かをしたかった、その何かとは、
何だ。教えてくれ!
誰にも共通するような、この漠とした焦燥。
◆
明治の啄木のつれづれが、現代の青年のつれづれに重なって述べられる、
その意義は?
明治という時代を、過去形の高尚さやレトロ性にはとどめず、
一気に現代の糜爛した風俗へもってくる。それによって、
近代人は現代の我々と同じ卑小さを抱えていた可能性を思い起こす。
近代人の悩みを現代の我々の現実に引きつけて理解する。
たしかに『日本文学盛衰史』を読むことは、
そういう用途にもかなうだろう。
しかし、それが第一の眼目だとは思えない。
◆
また一方。
ちかごろ高橋源一郎は奥泉光との対談で、
内容より形式よりただエクリチュールにこだわる、旨の
発言をしていた。
その観点でいけば、この章も、
啄木の内面とはどうであったのか、
啄木は何を告白しようとしたのか、
それらを丹念に検証することが、
べつに読書の本義、感想の本義でなくてもいいのだともいえる。
たしかに、
たまごっちにローマ字日記と、
明治の場面、明治の会話がスルっと滑って
思いもよらぬ頓狂さに変じる面白さ、
その筆遣いが、ひたすら形式的に続くだけにもみえる。
そうなんだとしても、この章をいったん読み始めれば、
結局のところ、
啄木の葛藤というものが、
現代風かつ明治風であるところの妙な内実を伴って、
それこそ痛切な思考的実験として迫ってくるのは、どうしてなんだろう。
◆
『新修国語総覧』(京都書房)という文学史の教科書が家にあったので、
「近代文学・小説」のページを開いてみる。
森鴎外、夏目漱石、島崎藤村らの写真が順に掲げられている。
短歌の項目にいけば、例の啄木の写真もある。
かつて授業中、漱石にサングラスを書き加え、
鴎外にカツラを書き加えてみた人はいませんか。
啄木の短歌を覚えさせられ、解釈を試験で答えさせられ、
でも点数は悪いに決まっているので、またたそがれていく。
そういう青年が、
落書きの戯れを通してなら、
いわばなんらか「鑑賞」できた、近代文学の先生たち(の顔)。
漱石も鴎外も啄木もちゃんと生きていて、
仕事も、勉強もしていて、
年齢差もあって、金や女性の苦労もしていて、という
国語の時間じゃなかなかできない、実感の領域への、
手がかりくらいは、
あの落書きに、あったんじゃないだろうか。
そしてこの「ローマ字日記・続」にこそ、あるんじゃないだろうか。
さらに、
啄木の「文学」とは自覚しないままの短歌や日記もまた、
こうした、たそがれ気分、つれづれ気分、たわむれ気分によってこそ、
われわれと直に繋がってくるのではないだろうか。
最後の短歌なんて、もう
本当に啄木の短歌のように感じ入ってしまうのだった。
(本当にそうだったりして?)
◆
それにしても、前章に輪をかけた悪乗り展開。
このエスカレートぶりは、
すでにこの時点で『あ・だ・る・と』を彷彿させる。
伝言ダイヤルにメッセージを入れた女の正体を暴いていくくだりは、
どこか素人離れしていて、笑える。
◆
もうちょっと急いで進めよう。
あとから加筆訂正してもいいのだから。