石川啄木?
思い浮かぶのは清々しい青年の顔。
みんな一緒なのは、国語の教科書なんかの写真を見たせい?
いつも同じ一枚が引用されるのだとか。
あと、啄木の歌。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手をみる
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみのなかに
そを聴きにゆく
さぞかし質素で真面目で暗めの勤労青年だったんだろう。
そんなイメージだ。
ところが、石川啄木の生活が、
こんなにも出たらめで享楽的だったことを、私が知るのは、
この『日本文学盛衰史』と、漫画『坊っちゃんの時代』によってだ。
今回読み返したこの章前半の啄木は、
つい最近『坊っちゃんの時代』を読んだ私としては、
漫画でみたあの姿の生き写しだった。
そしてその姿は、後半には過剰形となるのである。
◆
では、その啄木の葛藤とはなにか。
ということで、ローマ字日記を読んでいこう。
畳の上に腹ばいになり、本を横に眺め、
一音づつ軽く声に出しながら。
すると日記はすぐさま急転、
現代渋谷の風俗模様にスリップする。
この章のハイライトはなんといってもこれだ。
この作戦成功のカギは、
紙面の前後で目に入るのはローマ字ばかり、
横目で先読みして展開がバレるという心配が絶対ない、という状況だ。
だから、オチは確実、どっとウケるお茶の間。
ローマ字を読解するたどたどしさと、読解して出てきた話の軽薄さとの、
その落差もあいまって効果は倍増だ。
借金王啄木の窮状をリアルに描写したあと、
ローマ字日記の意義をきちんと前置きしつつ、
作家がなしたことは、
その時代めいた特殊な形式(近代のローマ字日記)を、ただ借りて、
どこかSFっぽくすらある新感覚現象を生じさせるという、
前代未聞の導出だった。
ただし、不思議なことに、
ローマ字もだんだん目に慣れてくるのだ。
たとえば「kotaeta」なんて、
繰り返されるうちに、ひとかたまりの像で覚えてしまう。
まるで漢字のようではないか。
◆
と、いろいろ思いをめぐらせていった果てには、
なんだ、日本語訳(?)が全文載ってるんじゃないか。
最後まで律義に朗読したのに。
群像の連載を読んだときは、どうだったっけ?
途中からは日本語訳を読んだっけ?
それは不明だが、その日の記録は少しある。
○○図書館へ行く。
群像の高橋源一郎の小説「日本文学盛衰史」を読み、
一回目と同様の仕掛けながら、
不意をつかれて世界の塗りつぶしにでくわす。
◆
で、その啄木の葛藤とは。
ローマ字日記に入る前に、啄木の手紙が紹介されている。
=ここから引用=
「僕は僕の小説に於て、自分が先ず素裸になつて、一点の秘すところなく告白しようと思ふ。・・・僕にとつて、小説は僕自身の告白だ(広い意味に於て)。・・・」
(略)
しかし啄木は自分が主張しているような小説を書くことはできなかった。小説を書いても、素裸になることはできなかった。
(略)
結局のところ、啄木が実現した小説は「ローマ字日記」だけだった。啄木は「ローマ字日記」の中でだけ、素裸になれた。
=引用ここまで=
小説は僕自身の告白だ!なんて
今どきこんな風に意気込んでしまう人がいたら、
下のような一撃を浴びせられることは、ご存知だろう。
日本の「近代文学」は告白の形式とともにはじまったといってもよい。それはたんなる告白とは根本的に異質な形式であって、逆にこの形式こそ告白さるべき「内面」をつくりだしたのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』より)
もういっちょう。
私は表現さるべき「内面」あるいは自己がアプリオリにあるのではなく、それは一つの物質的な形式によって可能になったのだと述べ、そしてそれを「言文一致」という制度の確立においてみようとした。同じことが告白についていえる。告白という形式、あるいは告白という制度が、告白さるべき内面、あるいは「真の自己」なるのもを産出するのだ。問題は何をいかにして告白するかではなく、この告白という制度そのものにある。隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すべきことを、あるいは「内面」を作りだすのである。(同書より)
「啄木の葛藤」という宿題を律義な問いとして追及するならば、
どうしても、この柄谷行人の指摘が気になりますね。
しかし、そういう指摘をひととおり踏まえたうえで、
それでもふっと
「そんな理屈もういいよ忘れようぜ
これ読んでりゃもっとゾクゾクするんだから」
と思わせてしまう力こそが、小説の本領なのかもしれず、
そういう点では『日本文学盛衰史』は、ローマ字日記の章は、
大健闘をしているのだろう。
◆
さっきの引用から、下の一行を改めて取りだす。
啄木は「ローマ字日記」の中でだけ、素裸になれた。
啄木は、赤裸々な日記が家人に見つかっても読めないよう、
わざとローマ字を使ったという。
しかし、自分しか読まないノートだから包み隠さず事実が書けた、
なんて解釈をわざわざここでしなくてよいだろう。
人間が素裸になれるなんて、あるいは、素裸の人間なんて、
本来ありうべくもないのだが、
仮になにかの間違いのようにしてそれがありえるとしたら、
それはたとえばローマ字日記といった
キテレツな形式としかでしかないだろう。
なんか、そんな風に解しておこう。
そうしたときに、考えてみる必要があるのは、
では、
啄木という国文学史的青年が、渋谷まったりコギャルと援交する、
そんなキテレツなシーンが描かれることで、
何があらわになっているのか、という点だ。
ローマ字の日記というキテレツな形式の中で、
さらにキテレツなことが起こるという、
この章のメタキテレツな形式によって、
高橋源一郎は、あるいは読者は、実は、
何かを告白するという積年の呪わしき迷いを、
なんらか解き放つことが可能となった。
な〜んてことが、言えなくもない。
形式。
二葉亭が自覚的に目指した場所に、
啄木と私たちは、知らず知らず到達していた?
◆
あと、もう一言。
私は石川啄木の短歌など知らず、
今生きている俵万智や穂村弘の方にずっと共感するつもりなのに、
その現代で啄木が、
「短歌って、タワラマチとかああいうやつ?」と言われたら、
なんかちょっと。