たしかに、
近ごろの子供に与えられる名前を、こうして改めて眺めるとき、
あらわになってくるものを、
歴史意識の忘却、と呼んでいいかもしれない。
同じことが、育児書の変化にも当てはまるとみえる。
産科の廊下で、為すすべなく座る男の隣に、
森鴎外が渋い表情で現れる。
無政府主義によって、
あるいは戦後の自由主義によって、
あるいは「失われた10年」とも言われる近年において、
確実に失われてしまったとおぼしきもの。
「なにかそらおそろしいものを感じませんか」
「公」という文字の化身であるかのような鴎外は、嘆く。
わたしはといえば、
赤ん坊の大きな泣き声を前に、もはや、
「策の出すべきなく、瞠目して過ぐるのみである。」
◆
さてさて、
我々一人ひとりは、具体的にどんな将来を選択したらいいのだろう。
生まれてくる子供に、具体的にどんな名前を付けたらいいのだろう。
(源一郎とか、純一郎とか?)
作家は具体的にどんな小説を書き、
具体的にどんなタイトルを付けたらいいのだろう。
登場人物には具体的にどんな名前を付けたらいいのだろう。
読者は具体的にどんな感想を持ったらいいのだろう。
具体的なものは、常にどこか、まぬけだ。
しかし、生まれてしまった以上、
国家も子供も小説も、けっして抽象的な存在ではいられない。
歴史についても、
具体的な各学校においては、具体的な一冊の教科書を、必ず選ばねばならない。
この章で生まれた赤ん坊には、具体的にどんな名前が付くのですか?