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高橋源一郎『日本文学盛衰史』
読書しつつ感想しつつ(36)
 普請中
-----ネタバレあり。注意。

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三四郎

私が夏目漱石の『三四郎』を初めて読んだのは、
大学生になりたての頃だった。
例にもれず田舎から東京に出てきた若者だった。
周囲に見えるものすべてが新しい。
可能性は無限に広がっているかに見える。
でも自分はまだどこにも足を踏み出せない。
誰しもそんな思いで過ごす一時期。

そして、かなりの年月を隔て、私は『三四郎』を読み返した。
詳しいストーリーは忘れていたのに、
あの頃の気分だけはちゃんと甦ってきた。

今また『三四郎』をぱらぱらとめくってみるに、
主人公のことが懐かしいのか、
それを読んだ自分のことが懐かしいのか、
だんだん区別がつかなくなってくる。

青年の昔を振り返るというのは、実にセンチメンタルだ。
いや、回想するという行為は
すべてセンチメンタル以外のなにものでもない。

でも、だからこそ、私は、年老いたら、
新しいものになぞ目もくれず、
くる日もくる日も思い出ばかりにうずもれて暮らしたい。
昔読んだ本を何度も読んで、昔見た映画を何度も見て、
昔の仕事・昔の遊び・昔の旅行、
昔起こった出来事だけを繰り返し繰り返し飽きもせず回想する。
そんなセンチメンタルな毎日がいい。

この「三四郎」の章には、ちょっとそういう気分がある。

夏目漱石の分身とおぼしき三四郎が、列車の中で同席しているのは、
どうやら島崎藤村の分身だ。
漱石の『三四郎』は、
大学生になった主人公が田舎から列車で上京する場面から始まる。
これは有名だと思うが、
藤村の『春』が、
都落ちする主人公が列車で東北に向かう場面で終わるというのは、
知らなかった。
おまけに朝日新聞の連載で
『春』の後が『三四郎』だったなんて!

文庫本『春』が今は手元にあるので、確かめてみる。
(まだ読んではいない)
「上野停車場」「払暁から雨」「玻瑠窓」
「自分のようなものでも、どうかして生きていきたいと思います」
これらすべて、
『春』のラストシーンを飾る思い出のアイテムだったのか。

さてこの回想列車には、
懐かしの出来事がまだたくさん乗り合わせる。
『坊っちゃん』・・・・『こころ』・・・・『それから』・・・・。
そうそう、そんなことがありましたねえ。
あれはいつのことでしたっけ。
二葉亭さんまで飯田橋から乗り込んできた。
啄木くんも函館から乗って新橋に着く。日記を大事に携えて。

「わたしはハルビンからモスクワまで
 八千キロもシベリア鉄道に乗ったが、
 ただ退屈なだけだったよ」
二葉亭さんはそう言うけれど、
私は、モンゴルのウランバートルからイルクーツクを経由して、
モスクワまでシベリア鉄道に乗りましたが、
面白いことばかりでしたよ。

黒いビロウドの席には、猫がうずくまっている。
これはもしや、
あの日、私のところから消えたあの猫ではあるまいか。

小説を読んだ思い出と、自分に起きた思い出とが、
眠るように軟化していく記憶の中で、あいまいに混ざり、
センチメンタルに醸成されていく。
いつかそんな最期を迎えるために、
今からでも遅くはない、
たくさんたくさん小説を読んでおこう。


Junky
2001.6.18


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