私が夏目漱石の『三四郎』を初めて読んだのは、
大学生になりたての頃だった。
例にもれず田舎から東京に出てきた若者だった。
周囲に見えるものすべてが新しい。
可能性は無限に広がっているかに見える。
でも自分はまだどこにも足を踏み出せない。
誰しもそんな思いで過ごす一時期。
そして、かなりの年月を隔て、私は『三四郎』を読み返した。
詳しいストーリーは忘れていたのに、
あの頃の気分だけはちゃんと甦ってきた。
今また『三四郎』をぱらぱらとめくってみるに、
主人公のことが懐かしいのか、
それを読んだ自分のことが懐かしいのか、
だんだん区別がつかなくなってくる。
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青年の昔を振り返るというのは、実にセンチメンタルだ。
いや、回想するという行為は
すべてセンチメンタル以外のなにものでもない。
でも、だからこそ、私は、年老いたら、
新しいものになぞ目もくれず、
くる日もくる日も思い出ばかりにうずもれて暮らしたい。
昔読んだ本を何度も読んで、昔見た映画を何度も見て、
昔の仕事・昔の遊び・昔の旅行、
昔起こった出来事だけを繰り返し繰り返し飽きもせず回想する。
そんなセンチメンタルな毎日がいい。
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この「三四郎」の章には、ちょっとそういう気分がある。
◆
夏目漱石の分身とおぼしき三四郎が、列車の中で同席しているのは、
どうやら島崎藤村の分身だ。
漱石の『三四郎』は、
大学生になった主人公が田舎から列車で上京する場面から始まる。
これは有名だと思うが、
藤村の『春』が、
都落ちする主人公が列車で東北に向かう場面で終わるというのは、
知らなかった。
おまけに朝日新聞の連載で
『春』の後が『三四郎』だったなんて!
文庫本『春』が今は手元にあるので、確かめてみる。
(まだ読んではいない)
「上野停車場」「払暁から雨」「玻瑠窓」
「自分のようなものでも、どうかして生きていきたいと思います」
これらすべて、
『春』のラストシーンを飾る思い出のアイテムだったのか。
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さてこの回想列車には、
懐かしの出来事がまだたくさん乗り合わせる。
『坊っちゃん』・・・・『こころ』・・・・『それから』・・・・。
そうそう、そんなことがありましたねえ。
あれはいつのことでしたっけ。
二葉亭さんまで飯田橋から乗り込んできた。
啄木くんも函館から乗って新橋に着く。日記を大事に携えて。
「わたしはハルビンからモスクワまで
八千キロもシベリア鉄道に乗ったが、
ただ退屈なだけだったよ」
二葉亭さんはそう言うけれど、
私は、モンゴルのウランバートルからイルクーツクを経由して、
モスクワまでシベリア鉄道に乗りましたが、
面白いことばかりでしたよ。
黒いビロウドの席には、猫がうずくまっている。
これはもしや、
あの日、私のところから消えたあの猫ではあるまいか。
◆
小説を読んだ思い出と、自分に起きた思い出とが、
眠るように軟化していく記憶の中で、あいまいに混ざり、
センチメンタルに醸成されていく。
いつかそんな最期を迎えるために、
今からでも遅くはない、
たくさんたくさん小説を読んでおこう。