『日本文学盛衰史』は終盤に入ると、
時として作者の筆は滑って転んで、
文と話もそれにまかせて出来つつ壊れ、壊れつつ出来、
それを厭わず小説が進む、
そうした( )が目立つようになる。
1 形式
2 内容
3 エクリチュール
私は、この場合は、3が当てはまると思う。
君が代は千代に八千代に
さざれ文の巌となりてコケの蒸すまで
文と話のスパークする連鎖反応。
この章ではついにタカハシさんの日常風景も登場する。
「官能小説家」の原型ここに在り?
◆
この章は私の計算だと、群像2000年5月号。
「君が代は千代に八千代に」の連載(文学界)が、
年明けからすでに始まっていたと記憶する。
高橋源一郎文学に対する戸惑いの声が、
読者の間に上がってきたのは、この頃からではないか。
『あ・だ・る・と』とAV仕事、スキャンダラスにみえた私事、
それらの衝撃もまだ完全に冷めてはいない折り。
その煽りか、かの掲示板も一度壊れた。
◆
エクリチュールについて、思いつくままに。
仮に、
何で書くか=形式、 何を書くか=内容、
という図式だとしたら、
内容でも形式でもないエクリチュールとは、
平たく言って、どういうものだろう。
読み書きの直接の対象である
文や言葉そのものの感じのこと。
書いている文の触感、読んでいる文の触感。
(手ざわり、目ざわり?、筆ざわり)
そのように受け取ってはどうだろう。
形式や内容なら、
たとえ作品を見せずとも、
コンセプトだけで説明できるかもしれない。
コンセプトだけで伝達できるかもしれない。
しかし、エクリチュールは、
具体的な作品・文・言葉としてしか存在しない。
しかも、
なんらかの作品・文・言葉を、
書いてみて、読んでみて、はじめて生成する、そこだけに生成する。
つまりエクリチュールは現在形。
未来形のエクリチュールというのはありえない。
過去形のエクリチュールもありえない。
かも。
◆
高橋源一郎のような小説を初めて知って、
「なんだこりゃ、どうやって読んだらいいんだ」と思っている人に、
おじさんからアドバイス。
一行一行、丁寧に読むのがコツです。
◆
「たくさんのまっすぐな心」
この結論は、なにかの実にうまい説明であるが、
なにかそのものではない。
なにかそのものは、この場合、
「誰からも忘れられた明治の小説」の、
作品・文・言葉そのものにある。
あるいは、この章そのものにある。
そうした明治の小説を、私がひもとけば、きっと
「たくさんのまっすぐな心」が、
さまざまなエクリチュールによって
いやというほど反復されるのだろう。
しかし、それは現在形で反復されるだろう。
◆
エクリチュールは、おフランス語で、
たぶん「書き言葉」とかいう意味だったはず。
(だから語義矛盾なのだが)
「喋りのエクリチュール」というものを考えると、
それが「ラップ」?