北村透谷をリーダーにした青春群像。
世界は朝で、すべては一新されていた。古いものは滅び、なにもかもが生まれたばかりの赤ん坊のように新鮮だった。
語り手の「ぼく」は平田という。
透谷でも藤村でもない。
「文学界」に集う無名の誰かだろう。
それにしても、揃いも揃って、なんともウブな連中だ。
幼稚ですらある。
愛を熱く語り讚えながら、
恋人とみなした女の前では、しどろもどろ。
古い作家や詩人を荒々しく罵る一方で、
本当に書きたいことなんて、実は持ちあわせていない。
◆
だが、このガラスっぽくもイモっぽくもある情景は、
1960年代末から70年代にかけての情景と容易に重なる。
ジャズ喫茶、ジュークボックス、タバコの煙、
そのせいもあろう。
しかし、そもそも戦後における青春のグランドチャンピオンは、
常に、この短い時期の人口のやたら多い一世代に輝くのだ。
そのころは(映画などで私もよく見るが)、
日本の国自体が、まだほんとうに若かった。
そして、明治前期といったら近代日本の青春王なんだろう。
じゃあ現在は?
ナイーブな青年を近ごろ見ない?
マセきった若年寄の国ニッポン?
紅顔じゃくて厚顔ばかり?
どうなんだろう、実際は。
◆
しかし、この章はあまりに青臭すぎる。
それどころかちょっと阿呆臭すぎる。
・・・と思っていたら、いきなり
湘南の砂浜にオープンカーが乗りつけて来た。
明治青春王の前に、ヒールを履いた形のいい脚が現れる。
黒いスリップドレスの女、
その名は樋口夏子だ。