あの人(北村透谷)が、
わたし(島崎藤村)に宛てた遺書。
それが、この章のすべてである。
感想としては、全文引用がいいように思う。
が、妥協してピックアップする。
遺書には、
山路愛山という同時代の人物の文学論が取り上げられている。
愛山は下のように述べている。
我々はこう宣言する。
文学は虚業ではない、文学は実業であると。
(略)
では、文学は実業であるとはどういうことなのか。
まず、文学には目的がなければならない。その目的には価値がなければならない。そして、その価値とは社会と人生にとって有益であるということである。
その一方で、実業たりえない文学もまた存在している。
それは、空を撃つ剣のようなものである。それは、空の空のようなものである。そこにはなにもないのに、なにかがあるといい張っているのである。そして、彼らが繰り出す言葉はなに一つ、社会にとっても人生にとっても役に立たないのである。
あの人は、これに反論する。
かなり長いが、しばらくそのまま書き写していこう。
そして、ぼくは愛山への反論を書いた。
ついに文学は実業たりえないのである、と。
いや、愛山が虚業とみなすものの中にも実業が存在するのである。人は戦うために生まれた。そして、人は、愛山の言葉を借りるなら、戦うという幻のために、戦うことを自己目的とするために戦うのではない。そこに敵がいるから戦うのである。だが、その敵の種類によって、戦いもまた異なった相貌を帯びるのである。見える敵に対して戦うものは確かに実業を行うのである。では、見えない敵に対して戦うものはどうであろう。空を撃ち、虚を狙い、空の空なるところで戦うことは虚業に過ぎぬというのであろうか。それもまた、宿命のように不可欠な戦いであるというのに。
そうやって、反論を書きながら、ぼくは激しい予感に震えていた。
ぼくと愛山のこの論争は、これから、日本語によって文学が書き続けられる限り、いつまでも繰り返し甦っては、その時代の作家たちを巻き込む争いの出発点になるはずだった。
かつて、ぼくたちに先行する作家は、ぼくたちの偉大な先達は「勧善懲悪」を是とする作品を書いた。いまのぼくたちはそれを笑うことができる。それはある時代に特有のイデオロギーにすぎない。もう一歩進んだいい方をするなら、その時代に支配的な階級の思想に染めあげられた作品にすぎない。時は過ぎ、彼らのイデオロギーは古びた。社会は古い抜け殻を棄てて新しい衣服をまとう。中身のない蝉の抜け殻は樹にへばりついたまま、もう自分がとうに死んでいることを知らない。ぼくたちはそれを笑い、けれども、それを笑いながら、いったい古びぬイデオロギーがあるかと訝るのだ。
無産階級の思想に基づいた作品が世に溢れるだろう。あるいは、キリスト教の思想に照らされた作品もまた世に出現するであろう。あるいはまた、ぼくたちも知らないまったく新しい社会の中の多数派の思想を代表する作品が夥しく書かれるであろう。そして、それらはみな、自分が、自分たちだけが「真実の文学」であると主張するであろう。愛山を論駁しながら、ぼくが感じた戦慄の原因はそこにあったのだ。
特定の思想に基づいた作品、それは実業である。なぜなら、そこには目的があり、依拠すべき価値が前提されているからだ。その目的とは先行する敵の打倒である。そして、敵の打倒とは、政治が究極の目的とするものでもあるのだった。
それは思いもよらぬ結論だった。
いやまったく思いもよらぬところへ遺書は進んできた。
真実の文学、政治の究極、敵の打倒。
しかしこうなると、われわれは薄々気づいてもくる。
これはいつか来た道だ。
いや、近代が、近代の青春がみな、これから行く道か。
遺書はさらに続いている。
ぼくは政治を恐れ、そこから離れようとしてきた。論難し、追い詰める。憎しみを煽り、呪詛の言葉を吐く。そこでいちばん虐げられているのは言葉なのだった。
だが、そうだろうか。
ぼくにはいまこそはっきりわかる。
ぼくたちがいるのは戦場なのだ。ここでも、政治と同じように、言葉という弾丸が飛び交っている。この弾丸は、現実の弾丸と同じように、人を殺し、傷つける。なのに、人はそこが安らぎの場所であるようにいい立てるのだ。
ぼくが「勧善懲悪」を嘲笑した時、それはかれらのイデオロギーを嘲笑したのだ。そして、そうすることによって、かれらをこの世から放逐しようとしたのだ。
後から来た者たちは、誰もが新しい文学を主張する。その「新しさ」とは、より「真実」に近いということなのだ。
ぼくは愛山を批判しながら、同時にその自分自身もまた批判されねばならないことに気づいた。実業を主張する愛山に、ぼくは「空の空を撃つ」ことを主張した。だが、ついには「空の空を撃つ」こともまた、一つのイデオロギーにすぎないのである。そして、それは、その外にある、未知の、より繊細で、より広く、より深く、人間を問う理論によって否定されるに違いないのだ。
(略)
島崎。
ぼくのいる場所は暗く、そして寒い。
ぼくの言葉は貧しく、またぼくの論理は痩せこけている。ぼくの否定は、次の誰かの否定を産むだろう。ぼくに見えるのは、ここから果てしなく続く否定の連鎖だ。
否定はいつか偉大な肯定に変わらねばならない。けれども、それはぼくには不可能なことなのだ。
◆
この人の遺書を感想する前に、
透谷の詩や、藤村の『春』を、
一度感想してみたほうがいいと思い始めている。
そして、この章を感想した後には、
「文学の向こう側2」を、
もう一度感想したほうがいいと思い始めている。
しかし、正しい感想ってどういうことなんだろう。
それはわからない。
感想もまた
一つのイデオロギーにすぎないのだ。
それでも、誰もが求めずにはいられない。
未知のより繊細でより広くより深く人間を問う感想を。
しかしまた、誰もが、
その不可能なことに絶望せずにはいられない。
それならば、どうだろう、
正しい感想に近づくため、というより、
なるべく遠ざからないためには、
その言葉をひたすら書き写してみること。
そんなふうに思い始めている。