高橋源一郎『日本文学盛衰史』 読書しつつ感想しつつ(25) -----ネタバレあり。注意。 されどわれらが日々3 前章で現れた青年は、 島崎藤村を なぜかカラオケボックスに連れ込む。 マイクを手に歌いだすのは、なんと『若菜集』。 このハチャメチャ展開、 どこまで脱線するのかと思えば、 いつしか、 『若菜集』における細かい日本語分析に入っていくのだった。 ◆
七・五調で埋めつくされた『若菜集』の詩は、
そのうえで若者は、
いったいこの「われ」には、どんな意味があるのでしょう。答えは、なんの意味もない、です。なぜなら、先生のこの詩で優先されているは音であって意味ではない。ここには『内なるわたし』もなければ、先生個人もいない。ただの数合わせ。いや、それなら罪はない。この洗練された七・五構造の中に「われ」は溶けちまった。その証拠を隠滅するために「あい」も引きずりこんでいる。その理由を、 藤村は詩で示した。
観念がこちこちになってそれからかさかさになって◆ 次いで、大きな問題が指摘される。
『若菜集』で七・五調に固執していた藤村が、
たとえば「千曲川旅情の歌」
この五・七調の発見によって、藤村は初めて、
ねえ、先生。五・七だと内容があって、七・五だと内容がないってなんだかおかしくありませんか。いやまったく、 それがホントなら、 どういうことなのか、ぜひ知りたい。 そもそも、そんな説が本当にあるのだろうか。
しかし、藤村は何も答えない。 高橋源一郎も答えない。
「アン・マリーに捧げるぴいひょろろ」という
しないほうがいいあんまり 何を? 2001.6.14 |