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高橋源一郎『日本文学盛衰史』
読書しつつ感想しつつ(25)
 普請中
-----ネタバレあり。注意。

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されどわれらが日々3

前章で現れた青年は、
島崎藤村を
なぜかカラオケボックスに連れ込む。
マイクを手に歌いだすのは、なんと『若菜集』。
このハチャメチャ展開、
どこまで脱線するのかと思えば、
いつしか、
『若菜集』における細かい日本語分析に入っていくのだった。

七・五調で埋めつくされた『若菜集』の詩は、
カラオケで歌うのにぴったりだという。
なぜなら、
日本語には四音一拍のリズムが内在し、
その四音一拍の歌に、七・五調は容易になじむ。

そのうえで若者は、
藤村の詩の中に、
「われ」という言葉が頻出することについて、
詰問する。

いったいこの「われ」には、どんな意味があるのでしょう。答えは、なんの意味もない、です。なぜなら、先生のこの詩で優先されているは音であって意味ではない。ここには『内なるわたし』もなければ、先生個人もいない。ただの数合わせ。いや、それなら罪はない。この洗練された七・五構造の中に「われ」は溶けちまった。その証拠を隠滅するために「あい」も引きずりこんでいる。

 (略)

詩には音も意味も必要なのに、先生の詩には音しかなかったのです。

その理由を、
藤村は詩で示した。

観念がこちこちになってそれからかさかさになって
それから言葉がオノマトペアへと退化してゆき
けど無言にまで退行出来ないので男は辛いよ
そこんとこらあたりで話するとなるともう AUTOMATIC!

次いで、大きな問題が指摘される。

『若菜集』で七・五調に固執していた藤村が、
最後の詩集『落梅集』では、
五・七調を取り入れた。

たとえば「千曲川旅情の歌」
 小諸なる・古城のほとり 雲白く・遊子悲しむ

この五・七調の発見によって、藤村は初めて、
「内なるわたし」を描くことができたのだという。

ねえ、先生。五・七だと内容があって、七・五だと内容がないってなんだかおかしくありませんか。

五・七が七・五に変わるだけで書けなくなるような「内なるわたし」ってなんですか。

いやまったく、
それがホントなら、
どういうことなのか、ぜひ知りたい。
そもそも、そんな説が本当にあるのだろうか。

しかし、藤村は何も答えない。
カラオケのマイクをつかみ、
宇多田ヒカルを歌おうとするだけで。

高橋源一郎も答えない。

「アン・マリーに捧げるぴいひょろろ」という
あまりにあまりな、
笑っていいのか泣いていいのかわからないような詩が、
ヘンテコだったこの章のフィナーレを
最高潮のヘンテコで盛り上げるだけ。

 しないほうがいいあんまり 何を?


Junky
2001.6.14


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