高橋源一郎『日本文学盛衰史』 読書しつつ感想しつつ(22) -----ネタバレあり。注意。 原宿の大患 3 で、お次はナイスな交友関係と。
朝日新聞学芸部の白石さんと堀田さん そしてナイスな花の名前。
クリスマスブッシュ、
しかし病床日記に
だが漱石には
・・・・それって、ほんとに日本の花?今は日本文学も裏の山から摘んでくることはできないのか。 ◆
そうこうしているうちに、
二人は「天上の妙音」とは何かについて議論する。 その、死にゆく患者の本音。
モーツァルトは素晴らしい、あれは至上の音楽だ、あとからあとから涙が溢れ、見知らぬ誰かが耳もとで、「きみは赦された」と囁く声さえ聞こえたよ、でもごめんね、漱石は読むのがつらくて耐えられない、ぼくも昔は読んだのに、読んで感心したこともあったのに、なぜか暗くなる、それからごめんね、実はきみのも読めないんだ、しかし忘れてはいけない。 詩は、死に属している。 では、生に属するものは何か。
漱石にとって、小説は生の側に属していた。生きていたい。漱石はそう思った。生きて、生きている人たちの側に立ちたい。だから、漱石が選んだのは明澄な散文であった。その散文の中ではどんな曖昧さも生きることは許されなかった。救済もなく、また希望もなかった。真の絶望もなかった。なぜなら、ふつう人はそのように生涯を送ることしかできないからであった。救済も希望もないが真の絶望もない。 小説は、 退屈で凡々たるこの人生に、 ああなんと似ていることか。 それを読み感想するさえない日々に、 なんとふさわしいことか。
2001.6.14 |