原宿の大患と題された計3章。
こんどは、
現代作家たる自身の騒動が、
明治の作家と交錯するのだ。
「夏」が、べつだん躊躇なくずっと寄り添っている。
群像の寺西さんもいる。
こうなると「官能小説家」(朝日新聞連載)だ。
なお、胃潰瘍は漱石なのに、
娘の名前は、鴎外と同じ「茉莉」。
ということは、
森鴎外と樋口一葉、
高橋源一郎と室井佑月、
そういう連想が
この時点でもう形づくられていたのか。
◆
「タール便が出だしたのは十一月七日の土曜日だった」
原宿の大患は、この一行から始まる。
次の章で出てくる胃カメラ写真には、
「98/11/11」と記録されているから、
実際の日付で書いているのか?
また巻末によると、
群像の連載は98年12月号と99年1月号だけが抜けている。
この病気に伴う休載だったと考えていいのか?
しかし99年2月号(1月初旬発売)には、
すかさず「原宿の大患1」で復活を果たしたということか?
調べたわけではないので、間違いかもしれないが、
章の順番を当てはめると、そう推測できる。
明治文学を題材にした連載のさなかに、
漱石と同じ病気で死ぬ思いをするなんて、
まさに「超おいしい」体験。
書かないわけにはいかんだろう。
ふつうに書くわけにもいかんだろう。
◆
それにしても、高橋源一郎は
どうして夏目漱石に似たのだろう。
たんなる偶然か。
いや、やはりこれは必然なのだと考えてみよう。
文豪とあれば、創作においても、病気においても、
同じことを繰り返してしまうものなのだと。
近代文学という制度。
連載小説という制度。
創作労働という制度。
作家の頭脳という制度。
作家の身体という制度。
作家を取り巻く文壇・編集者という制度。
不摂生という制度。
ストレス=神経病みという制度。
しかも、
悠久の宇宙とはいえ、
よりによって太陽系の同じ惑星に固まって棲息し、
しかもこの狭い国で、
近代確立からたかだか100年の間に、
常に同じ順序で並べられた文学全集などを読み、
そのうえ純文学などを書いたりする珍種となれば、
血がきわめて似通ってくるのは、仕方ないことだ。
文豪の存在も去就も、陳腐な反復なのだ。
朝日新聞に書く。
胃潰瘍になる。
ああこれが近代文学という制度の正体だ。