自然主義文学に関する次の文章を読んで、あとの問いに答えよ。
四迷の日本語はAの『B』を産んだ。『B』において日本文学ははじめ
て、世界を描写することのできる言葉を獲得した。世界を描写することのできた瞬間、それを描写することのできる主体、すなわち「C」が誕生した。次は、その「C」に仕事をさせる番だった。
では「C」のすることのできる仕事とは何なのか?
それは「D」であった。
=略=
古めかしい、不純な、不透明な「文」から解放される時、作家が最初になすべき仕事、作家が「文」を使って「C」にさせる最初の仕事はいつも「D」だったのである。
問1 Aに当てはまる作家名を書け。
問2 Bに当てはまる作品名を書け。
問3 C、Dに当てはまる言葉を、それぞれ漢字二文字で書け。
<対策>
頻出の問題ですが、
『新修国語総覧』の丸暗記では解けません。
やはり『日本近代文学の起源』の学習が必要です。
◆
明治三十七年に、
田山花袋が宣言した「露骨なる描写」。
そこでは古い作家たちが
下のように徹底して拒否され挑発されている。
(たぶん高源の超訳)
当然のことながら、あんたたちはこういうだろう。
確かに「露骨なる描写」も結構。しかし、その「露骨なる描写」はなぜ技巧と相伴うことができないのか、「露骨なる描写」と技巧が相まってこそ、新たな表現の地平に達することができるのではないか、と。
違うのだ。
あんたたちにはぜんぜんわかっていない。
「露骨なる描写」が技術の一つながら、文章表現上のテクニックの一つなら、方法の一つなら、それも可能だろう。
習い覚えることも、徐々に習熟していくことも、「露骨なる描写」に磨きをかけたり、繊細の度合いを加えたりすることも可能だろう。
だが、「露骨なる描写」とは煎じ詰めれば<1>なのだ。表現に立ち向かう作家の姿勢なのだ。おれたちが求めているのは、新しい技術ではなく、<2>の変更なのだ。
だから、「露骨なる描写」は、敢えてすればするほど、所謂技巧とは離れていく。あんたたちとは、立っている場所がもともと違うんだよ。
日本全国クイズ癖。
今度は4択。正解すれば1千万円。
<1>
A ギャング
B 火星人
C 日本野球
D ゴースト
<2>
A 出版社
B 配偶者
C 原稿料
D 金子光晴
・・・・・・ざんね〜ん!
◆
しからば真の露骨とは何か。
島崎藤村は『破戒』で
露骨なる描写をなしえたのか。
いや、まだ何かが足りないと感じる田山花袋。
その花袋が藤村にいきなり聞く。
「島崎」
「なんだ」
「ちょっと聞いていいか」
「いいよ」
「お前、Gするよな」
「ええっ?」
「Gだよ。G」
(略)
「なんだよ。なに、もじもじしてるんだよ。自然主義の神様が、Gの話ぐらいでおたおたするなっていうの。・・・・」
問 この作家にとってGとは何か。50字程度で書け。
解答例
ただ、そういう花袋も、
露骨なる描写を実現するための処方箋を
手にしていたわけではなかった。
◆
ちょうどそのころ、
「露骨なる描写」に強く共感し、
花袋を訪ねてきた人物がいた。
アダルトビデオを撮りませんかとの誘いだった。
しかもタイトルは、
「蒲団・女子大生の生本番」
わが家は最近パソコンが2台となり、
ネットワークをしている。
マシンAからマシンBに進入でき、
すっとファイルが送れる。
マシンBからAへも同様だ。
ただたまに、
今どっちのマシンのファイルを見ているのか。
どっちからどっちに進入しているのか。
ごっちゃになることもある。
前章までは、AV撮影の現場に、
自然主義小説『蒲団』が進入していたが、
今度は、
明治の田山花袋のところに、
AVの方が入り込んできたのだ。
複雑?