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高橋源一郎『日本文学盛衰史』
読書しつつ感想しつつ(14)
 普請中
-----ネタバレあり。注意。

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『蒲団'98・女子大生の生本番』3


『蒲団'98・女子大生の生本番』の各章は、
もちろん現代の口語体で、会話も多く、
AVの描写のせいか、平仮名・カタカナが目立つ。
したがって、読み始めると早い。

すると、なんとなく、
ポルノ描写だけが漫然と続いているかの印象になりがちだが、
注意してみると、実は、
展開がかなりうまく練り上げられている。

この章の場合。


まず『蒲団』の一場面をそのまま引用。
妻子との退屈な生活に、
主人公は泥酔と癇癪の日々。


その主人公が歌い出した新体詩は、
なぜかグループサウンズの歌詞だ。
おなじみ、明治と現代の遭遇・混交。


そこに主人公の妻が登場。
『蒲団』の関係はそのままに、
現代のアイテムをふんだんに交えつつ、
夫婦喧嘩が始まる。
登場人物は、もう主人公というより花袋とその妻だ。
しかし、そこで思いがけずボヤかれるのは、
明治作家同士の熾烈な闘いと、花袋の本音。


その喧嘩の行きがかりから、花袋は、
妻が内緒で出演したアダルトビデオを持ちだして、
これはなんだ!と突きつける。


ここで、はいカット。
ピンたちAV撮影の連中だ。
ここまでの展開、どうやら
AVのストーリーだったらしい。


そして、
妻が出演したというビデオを、
これから実際に撮影することになるのだ。
花袋の妻がプレイする『昼下がりの乱れ妻・序章』、
スタート。


その演技、その描写は、
エスカレートしまくり、高源ノリまくり。
「鴎外がさらに長生きしてポルノを書いていたら
ああああああああああっ、
ぐらいの書き方をしたんとちゃうやろか、・・・・」
などと言いながら、このAVは、
ある物質的で哲学的な極点に達するのだった。


そこへ、ひきあいに出されるかのように、
花袋の文学論「露骨なる描写」への言及。
「露骨なる描写」と島崎藤村の『破戒』こそは、
日本の自然主義文学が初めて産みだした真の成果だという。
明治のその「露骨なる描写」と、現代のAVの勝負は、
次のラウンドへもつれこむ。

ここで行われている創作作業は
『蒲団』のパロディではない。
もちろん模倣でもない。

岩波文庫『蒲団』の解説には、
次のように書かれている。(『蒲団'98』の解説ではない)

外面のきれいごととはおよそかけはなれた中年男の醜悪なエゴイズムや暑苦しい性的関心が渦を巻く世界なのであり、作者花袋はそれをほとんど露悪的と言ってもいいような「力わざ」であばき出してゆく。・・・・(相馬庸郎)

花袋自身による次のような説明も引いてある。

読者が読んで厭な気がしようが、不愉快な感を得ようが、またはあの中から尊い作者の心を探そうが、教訓を得ようがそんなことは作者にはどうでも好いのである。

これを受けた、解説の続き。

 一切の既成観念や習俗に抗して「事実」を直截に提示しようとすること、これが自然主義の理念にかかわることは言うまでもないが、それは、すでに明治三十年代中葉から花袋が熱心に主張し、また創作で実践して来たことでもあった。「蒲団」の新しさは、その「事実」剔抉のメスを<他人の物笑いになりそうな>(正宗白鳥)自己内部に向け、それを勇敢に暴露したことによってもたらされた。これはあるいは社会的な体面をそこなうことにもなりかねない危険をはらむものであったが、その危険を代償に、従来の作品には見ることのできなかったある種のリアリティを、花袋は獲得したのである。

・・・・勇敢に暴露というなら、夕刊に暴露もあるなと思いつつ・・・・

『蒲団'98・女子大生の生本番』で感想すべきは、
『蒲団』超克の試みだ。

明治の小説『蒲団』を、
本来の衝撃と成果への尊敬を忘却せずに読むために、
さらには、
その実験と暴露の精神を現代においてなお乗り超えるために、
選び抜かれた理念と武器こそが、
即物過激のAVなのであった。

それにしても、
『蒲団』が早稲田文学に掲載された時、
文壇の騒ぎぶりは空前絶後のものがあったと
伝えられている。

現在の文学は、どうだろう。
『蒲団'98・女子大生の生本番』が群像に載っても、
「官能小説家」が私小説風の露悪にあふれていても、
おまけに作家の離婚話が平行しようとも、
文壇の騒ぎなどはあまり聞こえてこない。
あるいは騒ぐべき文壇など存在していないようにも見える。
2ちゃんねるあたりに、小さな嵐が吹くだけで。

寂しいね、近ごろの文学。
滅びゆく近代小説アンシャンレジウム。


Junky
2001.6.12


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