高橋源一郎『日本文学盛衰史』 読書しつつ感想しつつ(10) -----ネタバレあり。注意。 平凡 19世紀末、読み書きに革命が起こった。 二葉亭四迷らによる言文一致体の発明である。 これでとうとう、 私の「内面」が「表現」できる! 明治の有数の作家たちは沸き立った。 国木田独歩は『武蔵野』を著した。 島崎藤村は『破戒』を。 田山花袋は『蒲団』を。 言文一致という「武器」によって、 まずは、自然主義と呼ばれる小説が勃興した。
20世紀末、またもや読み書きに革命が起こった。
読み書き史上の大変転に遭遇できたのは、 それはそれとして。 ◆
独歩は無数のロマンチックな文学青年のひとりであった。ウォーズウォース風の自然を称賛し、キリスト教の愛の概念を理想とする、明治中期の知識人の若者の典型であった。北村透谷がそうであったように、彼らは、自分たちには「内面」があると信じていた。それが彼らの生の根拠であった。だが、その内面をどうやって表現すればいいのか。彼らは「内面」の実在を疑ったことはなかった。ただ、それを証明する術を知らなかった。その国木田独歩は、 二葉亭四迷の訳した『あひゞき』を読んで、開眼する。 「言文一致」という爆弾を手に入れ、 初めて自らの手でそれを炸裂させるのだ。 その時の感動と発見を、この章は追体験する。
今なら、ぼくはこの世界を抱きしめることができる。独歩は何がわかったのか。 「内面」の正体だ。 そして独歩は「今の武蔵野」を書く。
独歩の先達たちが手に入れようともがき続けたもの、それは透明な散文であった。まるで映画のカメラのように、その陰に作者が隠れることのできる散文。「内面」を探して地上をはい回っていた作者たちは、その重力なき言葉によって、世界を蒼空の高みから俯瞰することができるようになった。「内面」は世界を写すカメラの視線のこちら側にあったのである。明治三十一年一月のことであった。◆
しかし単純に感動していてはいけない。 『平凡』(明治39年連載開始)
それはきわめて奇妙な小説であった。そこでは恋愛や芸術が徹底して嘲笑されていた。それは当時の作家たちがなお至上の価値を見い出していたものであった。だから『平凡』を読んだ作家の多くは不快感を隠さなかった。『平凡』が彼らを傷つけたのはその点だけではなかった。二葉亭は、二葉亭自身の方法の上に若い作家たちが作り上げた「自然主義」の方法をもって、嘲笑したからであった。若い作家たちは裏切られたような気がした。この奇妙な問題は、 最初の章「死んだ男」で、二葉亭が「違和」を標榜して以来、 『日本文学盛衰史』の底をずっと流れている。
言文一致という「武器」の使用に対して、
苦悩して作り出されたとたん、
この章で、
いったいなぜ、二葉亭の「わたし」は、林の中に留まろうとしたのか。二葉亭はなぜ、その透明な散文をさらに推し進め、そのカメラを持って溢れ人波の中に入り込もうとはしなかったのか。独歩にもその理由まではわからなかったのである。私も、まだ、ちゃんと説明されたとは思えず、 したがって、 ちゃんと感想することもできないのであった。
はっきりした感想のチャンスを、 ◆ 言文一致体について、もうひとつ。
だが、我々もまた忘れてはならない。この強力な武器、完成された言文一致体は、それを作り出そうとした二葉亭にとって結局のところ「武器」にほかならなかったということを。二葉亭にとって最も重要なのは、「革命」の「理念」であった。ここでは、 前章に読んだ幸徳秋水の手紙を、 ふたたび思い起こすべきだという意見がある。 ◆ ところで。
『日本文学盛衰史』を読む=感想するということは、
しかし、この章では、むしろ、
かつて連載中にこの章を読んだとき、 ◆ さてさて、
二葉亭の真意が結局わからなかった独歩。
ここから次章に続く劇的な展開は、
2001.6.11 |