哲学大陸・言葉ルート

ちょっと足を止め、来し方を眺める(2)

そんなわけで僕たちは「言葉の正体」という場所をめざしてこのルートを歩いているのです。

しかし、そこへ達するためにはいくつもの道を通らなくてはいけないのだと思います。
前に示した「言葉のない道」というのも、その一つだったのかもしれません。つまり「人間が言葉なしで思考している状態も時にはあるのではないか?」という疑問です。これは涌井さんも「試論2」で取り上げました。しかしヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を引いて、この探求のやっかいさを指摘しています。
しかし、そこは哲学の領域をはみ出してでもいいから、改めてああでもないこうでもないと考えを巡らせようと思います。(なんか同じところをぐるぐる回ってるわけですが)
その方向に行くには「言葉外ルート」まで戻って下さい。既に読んだと言う方も、さらに開拓が進んでいますのでどうぞ。

また、ヴィトゲンシュタインは何をどう考えた末に「言語ゲーム」とまで言わざるを得なかったのか。そのあたりのエッセンスも、僕たちの生活を例に実感できる形で理解したいです。これは涌井さんの手を借りたほうがいいかもしれませんが。それはもちろん現代哲学の教養を身につけるためなどでは決してなく、今とにかく気になる所をヴィトゲンさんが掻いてくれそうだからです。

もちろん、それ以前に「動物は人間のような思考や感情をもたない」と言い切っていいかどうかも、もういちど反省する必要があります。
実はこの哲学の冒険を読んでくださった方の感想の中で、最も納得できないと言われるのがこの点なのです。
これについてはもうしばらく待って下さい。僕の気持ちは変わらないのですが、なるべく誤解のない表現に取り組んでみます。

もうひとつ道があります。
このページを読んだ中村聡さんという方がメールを下さり、ここに載せることを承諾して下さいました。そこも歩いてみましょう。



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